1907年穏健派スターリン
スターリンはジョージアのゴリという街で生まれた。粗暴で野蛮で暴力的な環境だった。彼の天然痘は種痘で快癒し、2度の馬車事故は医療列車が施術した。
スターリンの生い立ちは不幸の連続だったかも知れない。
彼はトビリシ総督府の西76kmのゴリという町の生まれだった。
ゴリはパトゥミ・トリビシ・バグー鉄道線で、交通の要衝だった。
その為、繁華街にはならず者が集まり、風紀は良くない。
粗暴で野蛮で、暴力的な環境は、子供の教育に最悪だった。
6才の時に天然痘に罹患したが、種痘のおかげで難を逃れた。
日本人が医療列車なるものを仕立てて、巡回医療を施していたからだ。
なぜこんなところに日本人が?
ゴリのあるジョージアは黒海とカスピ海に挟まれた地域である。
隣国はトルコで桂小五郎が命を賭けて経済を救った経緯がある。
その為、日本の技術がトルコに流入していた。
主にトルコ国内で医療過疎地を医療列車は巡回している。
日本は祈祷師や霊媒師をこっそり調教して専門知識を授けた。
彼らが使う魔法の粉や水はすべて疾病治療薬にすり替わっている。
粉はアセチルサリチル酸アルミニウム塩であった。
これは後に日本では「ケロリン」と呼ばれている。
スルファニルアミドを創傷に使う事もあった。
この医療列車は各国にも要請があれば派遣されていた。
それがジョージアのゴリにも2週間に1度やって来ていた。
10才の時に神学校に入り、ケンカに強いが成績も優秀な怪童に育った。
12才の時に2度馬車事故にあい大怪我を負った。
だが再び日本の医療列車のおかげで事なきを得た。
日本の支援でトルコ側から医療列車がジョージアを巡回している。
ゴリには2週間に1度回ってくるのだ。
日本の医師はトルコのアルダハンで救急依頼を聞いた。
日本人医師「1時間で行くから待ってろ!」
ゴリの人々は信じなかった「蒸気機関車で6時間掛かる距離だぜ」
だが医療列車は本当に1時間でやって来た。
鉄道の要衝であったのが幸いしたのだ。
すぐ医療列車に担ぎ込まれた。
馬車事故は壮絶だ。
当時の馬車道は土塊で、雨が降るとぬかるみになった。
そこで子供達は遊び、足を取られて、馬車を避けきれなかったのだ。
外科医「こ、これは・・・・・・」
運び込まれた少年スターリンは虫の息だった。
レントゲンもCTもない時代だ。
切創、割創、挫創、挫滅創、挫傷を素早く判断する。
創傷の原因、形態、受傷からの時間、汚染の程度、感染の有無。
車輪に踏みつけられ、泥まみれになった創傷は最悪の事態だ。
まず泥は生理食塩水で洗い流す。
馬車に巻き込まれた腕は創部とも泥まみれだった。
少年スターリン「コ、コロ・・・シテク・・・レ」
激しい疼痛の苦しみから息も絶え絶えに懇願した。
外科医「よし、今楽にしてやるからな・・・・・・」
麻酔薬はすでにジエチルエーテルの時代に入っていた。
充分に麻酔を行い、ガーゼやブラシで泥を徹底的に洗い流す。
スターリンの創は挫滅範囲が少なく、デブリドマンは最小範囲であった。
英国で実用化した輸液療法と合成抗菌剤。
それはここジョージアでも入手可能だ。
高杉晋作が見つけた赤色アゾ染料プロントジル。
その代謝物も判明していた。
それは無色のスルファニルアミドでった。
赤色色素とは無関係であると分かったのだ。
20年間に及ぶ研究は新抗菌剤「サルファ剤」を生み出していた。
外科医「ううむ、もう1チーム分、医者を頼む」
あまりにも損傷が激しく、手術は2チームで行う事になった。
重度上肢損傷および前腕重度開放骨折。
2チームは切断か再建か、揉めたあげくに再建を選んだ。
まず血管を自家静脈で再建する。
下肢伏在静脈から移植再建、血流をまず復活させる。
骨折は関節を逸れていた。
ステンレスを使って再建し、2ヶ月(修復)後に抜去する。
神経はズタズタだったが、腓腹神経採取により再建した。
筋肉は広背筋皮弁法で血管ごと移植再建した。
外科医「2ヶ月は絶対安静だぞ」
スターリン少年の予後は順調で、みるみる回復していった。
半年後、彼は神学校に戻れるまでになった。
スターリン少年は再びやんちゃ坊主に戻り、学校は苦悩していた。
そこへ往診にやってきた日本人外科医は警告した。
外科医「ニッポンには諺がある」
「二度ある事は三度ある」
スターリン少年はビクッとした。
すでに二度も馬車事故に遭っていた。
少年スターリン「じゃあ三度目はし・・・・・・」
彼は未来の事故を夢想して、恐怖に震えた。
少年スターリン「もう二度とごめんだ、二度と!」
彼は今までのやんちゃな行動を律するようになった。
こうして彼の好戦的性格は育まれなかった。
穏健な性格が神学校で育まれていった。
聡明で直感力に優れるが、行動には常に慎重だった。
これは事故に遭った事が原因だったのだ。
事故の後遺症はなかった。
心配された麻痺も残らず、予後は順調である。
1901年ロスチャイルドは黒海沿岸に石油事業で進出。
黒海沿岸のバトゥミには製油所が有った。
青年となったスターリンはそこで働いていた。
その反対側のカスピ海には、当時世界最大のバクー油田があった。
そこはロシアのロックフェラー、ブラノベルの大油田だった。
スターリン「なんて壮大華麗で絢爛豪華なんだろう・・・・・・」
今でいう「工場萌え」というヤツである。
職場ではストライキが何度も起こったが、武闘派とは距離を置いていた。
演説の切れの良さとは対照的に、行動を起こすに慎重な所があった。
当時の革命家の活動資金は「銀行強盗」だった。
これは隠語で”エクス”と呼ばれた。
スターリン「こんなのは革命でもなんでもない」
「富める者から富を略奪する事が正義だと勘違いしているだけだ」
彼は武力革命に否定的だった。
なんだかんだ理想を言っても、結局はカネなのだ。
そこで知り合ったのが明石元二郎であった。
彼は200万円(現在の400億円)の資金を豪語していた。
なんでもニッポンという極東の島国の間諜だという。
帝政ロシアを倒し、革命への道を切り開くのだという。
スターリン「オレを救ってくれた医療列車もニッポンのものだった」
彼は明石の後ろ盾の元に労働者から政治家になった。
スターリンは穏健派という形で政治家へのスタートを切ったのだ。
次回は1907年講和条約000です。




