1864年英国租借地彦島
下関戦争で英国は彦島を租借地として獲得した。日本の屈辱は如何ばかりか?
1863年6月、下関戦争勃発!
長州藩はこっぴどくやられ、 馬関海峡の砲台は無力化された。
1864年下関戦争決着・・・・・・。
だが交渉役の高杉晋作は海外に逐電してすでにいない。
通行の自由、薪炭の供与、寄港と上陸、賠償金300万ドル。
そして彦島の租借も通ってしまったのだ。
彦島は竹ノ子島、彦島、巌流島の三島から成る。
場所は下関最南端、関門海峡に浮かぶ島だ。
金比羅宮あり八幡宮あり神社ありの古風な島だ。
源平合戦で平家最後の陣地があった事で知られている。
長州藩藩主の毛利敬親の決断だった。
「租借もやむなし」
彼のあだ名は「そうせい侯」。
「うん、そうせい」が彼の口癖であった。
遡る事3ヶ月、1863年3月に徳川家茂は上洛した。
攘夷を要求する朝廷側の強硬な態度にしどろもどろな家茂。
義兄である孝明天皇に頭が上がらない。
軍事・政治の裏付けもないまま「5月に攘夷決行」としてしまった。
そして下関戦争に突入し、惨敗に帰してしまったのだ。
留学から帰国し、通訳を買って出た伊藤博文も困惑していた。
伊藤「こんな時、あの高杉晋作なら、どうしただろうか・・・・・・」
伊藤は彦島が香港に、下関が九龍になると言って嘆いた。
圧倒的火力と戦術の差に、日本の自尊心は木っ端微塵に吹っ飛ばされた。
1864年、日本は建国以来、初めての租借地を持つ事に至った。
アヘン戦争で清国が被った香港租借地と同等であった。
彦島は、あっという間にコロニアルスタイルになった。
異人館が建ち並び、蒸気船が寄港し、異国語が飛び交った。
当時の朝廷孝明天皇も、幕府徳川家茂も沈黙していた。
攘夷派も開化派も遅れた技術では声を上げる事も出来ない。
もう出島のカピタン部屋に入るだけの物資では埒が明かない。
日本最強最新の砲台でさえ、火力は貧弱で時代遅れだったのだ。
もう鎖国も攘夷もない。
日本は猛烈に海外の技術を学ばねばならない。
この下関戦争で英国軍はコンクリーヴ・ロケットや炸裂弾を使った。
このロケットは焼夷弾で町を火の海にした。
英国は事前の調査で「日本の家屋は木と紙で出来ている」のを知った。
英国人は外交官も商人もみんなスパイのようなものだ。
報告によれば、漆喰は外だけで屋敷でさえ木材、紙、草で出来ていた。
それで砲弾ではなく、焼夷弾で焼き払う事にしたのだ。
長州藩の藩士は焼夷弾を見て、その技術を調査分析していた。
藩士「これは還元作用を兵器に転用したものだろう」
反応仕切れていない金属酸化物とアルミニウムの粉末が残っていた。
藩士は自分でも、さまざまな金属酸化物で実験してみた。
アルミと酸化物のイオン化傾向の差が大きい程、激しく反応した。
Al>Zn>Fe>Ni>Sn>Pb>Cuといった具合である。
その無名の藩士が後に多連装ロケットランチャーを開発するのである。
1866年日本は自ら兵庫港(神戸港)の開港を決定する。
海外の技術を真っ先に学んで習得するためだった。
英国公使もポカーンとして、この推移を見守っていた。
英国公使「いや要求しようと画策はしてたが、まさか自ら開港とは・・・・・・」
神戸の北野町には異人館通りが出来、コロニアルスタイルの館が建った。
六甲山にはゴルフ場が誕生し、ゴルフをする外人で賑わった。
三宮の生田神社の前に居留地競馬場さえ完成した。
特にクリスマス競馬は大盛況であった。
1867年日本は初めて第二回パリ博に参加する。
独ジーメンス社の発電機とモーター。
クルップ社の巨砲、エレベーターetc。
日本は日本茶屋、大道芸人、浮世絵の参加だった。
そこでの感想は一言「だめだ・・・・・・日本は周回遅れ・・・・・・」
実際には日本陶器(薩摩焼)の図版は大好評であった。
陶芸工房の絵師達がマネて模造品が多く出回るほどだった。
浮世絵は印象派のマネやモネに強い影響を与えている。
だが日本は技術大国を目指していた。
1868年幕末、そして明治元年。
日本は世界の鉄鋼技術に追い付こうとさらに躍起になっていた。
次回は1864年英国密留学です。