1906年イルクーツク立ち往生
ロシア皇帝ニコライ二世は遂にシベリア鉄道を爆破、ロシア軍撤退を命じる。一方日本軍はシベリアの厳冬にイルクーツクで立ち往生していた。
1906年1月、帝都サンクトペテルブルク。
宮殿中庭に出たニコライ二世は設置された空中聴音機を眺めた。
まるで巨人の音楽隊のチューバのようで「戦争チューバ」と呼ばれた。
15mもの巨大聴音機の後方に聴音担当官が1人チョコンと座っている。
ニコライ二世「感度はどうか?」
聴音担当官「感度はありません」
ニコライ二世は不安そうに東の方、ウラル山脈を睨んだ。
「憎き黄色い猿の原住民めが・・・」
ニコライ二世は右側頭部に受けた傷をさすった。
日本の大津で受けた傷が今も冬になると痛む。
そのサンクトペテルブルクから東方約7000km彼方。
バイカル湖の湖畔のイルクーツク。
ウラジオストクから2320kmのロシア内地だ。
寒風吹き荒ぶここは、シベリア東部の難所である。
電光石火のウラジオストク占領から2ヶ月が過ぎようとしていた。
満州に残留していたロシア陸軍は鉄路を破壊しながら撤退。
ロシアは最初客車を置いて、機関車だけを北方へ退却させていた。
退却は一時的なモノで、後々は戻ってくるつもりだったようだ。
だがそれも叶わないと見て取るや、爆破撤退に切り替えていた。
撤退するロシアvs追いすがる日本の丁々発止の攻防を続けていた。
爆破を食い止めるには迅速な爆破現場の制圧が必要だ。
それには武装した兵員が現場に急行する必要があった。
そのために日本は南満州鉄道に装甲列車を投入。
12両編成のこのタイプは制圧用だ。
大砲4門、2連装機銃4基、機関銃20丁の重武装であった。
ロシア兵の雇った馬賊のゲリラが線路を狙っていた。
これを制圧するには重武装がいる。
満州は広大な不整地で鉄道以外の交通手段がない。
鉄路をゲリラが破壊するのは当然の成り行きだった。
その果てしないゲリラ戦に巻き込まれた日本軍。
本線支線に制圧用装甲車両を大量に配備した。
ゲリラはなんとかして日本軍の装甲車両を撃破しようとしてきた。
線路を爆破し、こっそり溶断して、装甲列車転覆脱線を図った。
装甲列車は対策の為、無蓋貨車2両を前方に連結している。
ここに補修用線路や資材を積んで万が一に備えていた。
線路の異常はこの無蓋貨車が全て受ける事になる。
万が一の為に鉄道工兵が装甲列車には乗り込んでいる。
レール爆破ならレールを再敷設し、溶断なら溶接し直す。
数時間で元通りになり、パトロールを続けた。
攻撃用装甲列車なるバケモノも存在した。
撤退するロシア兵を追っかける為の戦闘タイプである。
火器全てが前面に配置して、攻撃にのみ特化した装甲車両だ。
これに追っかけられるとまず助からなかった。
日本軍は大連-ハルビンと東清鉄道を使って北上。
難所バイカル湖の湖畔都市イルクーツクに達していた。
進撃の日本陸軍はシベリアの厳寒の冬にここで立ち往生。
吹き荒ぶ爆弾低気圧の嵐に一歩も進めない。
イルクーツクは政治犯の貴族らが流される流刑の街だ。
1863年ポーランド・リトアニア共和国領で起きた武装蜂起。
それに加担した罪で十数万人の貴族たちが流刑に処されていた。
それゆえか街は優雅な趣を漂わせ「シベリアのパリ」と呼ばれていた。
ロシア軍は撤退の際に、シベリア鉄道線を徹底的に破壊していった。
陸橋、トンネル、ポイント切替機など全て爆薬で吹き飛ばしていった。
黒木為楨「ううむ、これはまずい」
野津道貫「シベリアで立ち往生はまずい」
黒木「鉄道が使えなければ、大量の兵站輸送は出来ん」
野津「とりあえず工兵隊に見積もらせてみよう」
工兵隊長がさっそく、現場の惨状を見積もりに来た。
工兵隊長「よくもまあキレイに吹き飛ばしたもんだ」
工兵隊長「輸送船ですぐ重機を運び込んでくれ」
「鉄道敷設車ですべて敷き直すしかないな」
爆破で折れ曲がった線路の取り替えは専用重機が活躍した。
鉄道敷設車(Track renewal train)による24時間突貫工事だ。
1日1kmを敷設する能力があるが、シベリア鉄道全長は9297kmある。
1000箇所以上が爆破されており、橋もトンネルも跡形もない。
これまでは、河川交通と連水陸路を使うしかなかった。
幸い河川は冬の厳寒期は完全凍結しており、道路として使用出来た。
黒木「厳冬期にシベリアを行軍は出来ん」
最低気温は零下70℃になろうという極寒の世界だ。
この寒さは日本人にとって非常事態だ。
完全に凍結した凍土はツルハシで1日7cmしか掘れない。
野津「イルクーツクで野営するしかなかろう」
工兵「零下70℃で野営したら普通に凍死します」
野営は凍死を意味した。
教会やミュージアムの接収も考えた。
工兵「暖房が効かないので凍え死にします」
次回は1906年イルクーツクにてです。




