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日露大戦  作者: 登録情報はありません
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1855年スンビン号

ついに日本人は実働蒸気機関に接する。南蛮人から話しに聞き、絵で見て知ったつもりだった日本人は初めて実物を見た。

1855年オランダ国王は江戸幕府にスンビン(Soembing)号を贈呈。

この贈り物には出島貿易で先んじていたオランダの思惑が絡んでいた。


オランダが先に日本貿易の既得権があったのである。

それを開国を盾に、アメリカに乗っ取られてなるものか!


オランダ国王は徳川幕府を手懐ける作戦に出たのだ。

アメリカに先んじて開港を迫る懐柔の贈答品である。


1857年には幕府海軍に徴用される事が決まっていた。

それまでは長崎に停泊する事になっていた。


1855年6月、諸技術習得のため5人の技術者が選ばれた。

本島藤太夫、中村奇輔、石黒寬次、田中近江親子である。


本田は大砲鋳造、中島は化学技術者、石黑は蘭医学者である。

田中はからくり儀右衛門と異名をとる西洋理学の天才だった。


万年時計は彼の製作によるモノで、すべて手作りであった。

とくに田中の養子田中大吉は、後の東芝の創業者だった。


さっそくスンビン号に乗り込む技術者たち。

本田ら~田中親子は機関室に案内された。


そこにあったのは「外輪式推進船用蒸気機関」であった。

ボイラー部と蒸気機関部に分かれて設置してある。


2気筒のエンジンからなる蒸気機関部と蒸気を送るボイラー部だ。

ピストンとシリンダー2基がそれぞれクランクシャフトに繋がっている。


回転運動を直線運動に換える技術は、日本の水車小屋で既に習得済みだ。

水車の回転を杵の往復に換えて、米を臼で突くのである。


この蒸気機関はその逆で、ピストンの往復運動を回転運動に換えるのだ。

ピストンの往復を推進軸の回転に換えて、外輪を回すのだ。


構造は分かるが、材質や工作方法が分からない。

田中は万年からくり時計で、歯車強度で苦労したのだ。


英国で歯車の歯を切削する専用の工作機が研究中なのは知っていた。

「歯切り盤」という切削機械がもうすぐ世に出ようとしていた。


またそれを油で焼き入れして硬化させる方法(油冷)も分かっていた。

誘導加熱(高周波焼入れ)はアメリカで実験が始まろうとしていた。


ここで踏ん張らなければいけないのだ。

だが難しいのはやはり難しい。


田中「難しいな」

本田「砲身を焼き入れする方法を用いてはどうか?」


当時佐賀藩では、砲身に水冷治具を挿入して、部分熱処理を行っていた。

これで内側は焼き入れとなり堅く、外側は加工がたやすいままになる。


田中「やってみるか」

中島「このクランクシャフトは難物だな」


それは熱間鍛造によるシロモノだった。

一回ではとてもそこまで塑性変形させる事は出来ない。


まず銑鉄から棒鋼を製作、再加熱して熱間鍛造機に掛ける。

第一段階で4回鍛造する(20%)。


第二段階は水冷をかけながら2回鍛造し、バリを取り除く(60%)。

ここでほぼクランクシャフトっぽい形状に近づく。


第三段階は精密鍛造に入る(100%)。

これでようやっとクランクシャフトの剛健さが身につくのだ。


つまり7工程最低3台は蒸気鍛造機が必要になってくる。

本田「オランダから輸入したスチームハンマーは1台っきりだ」


田中「デッドコピー(模造品)を2台作るしかないな」

中島は精錬方である、やれるという感じで頷いた。


そのほかタイミングバルブ、メカニカルシールと問題山積みである。

本田は砲身の中ぐり盤の技術があり、旋盤も水車小屋の水力で動かしていた。


田中「本番はともかく、まずは試作品を作る」

「材質は真鍮でよい、最初はメカニカル(機構学)を身体で知るのだ」


こうして機関室の蒸気機関があっという間にひな形として誕生した。

同時期、ロシアのプチャーチンが贈呈した蒸気車のレプリカも完成した。


全長40cm、幅14cmというミニサイズであったが国産のひな形である。

ついに蒸気機関の初期のノウハウを日本は取得したのだ。


日本は鎖国による技術停滞の差を埋めようと躍起になった。

寄り(すが)るのは「鉄熕鋳鑑図(てっこうちゅうかんず)」などのオランダの技術書だ。


図面から自力で反射炉を構築するも、それは既に時代遅れになっていた。

欧米はすでに反射炉の普及が終り、次世代の軽炉の時代に入ろうとしていた。


1851年ロンドン博に6ポンド野砲と当時最大の4500ポンドの鋼塊を出品したクルップ。

1856年ついにベッセマーによる軽炉が発明され、鋼鉄の時代が始まった。


次回は1864年英国租借地彦島です。

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