1905年奉天の会戦001
奉天の戦いにはロシア軍は36万人を投入してきた。満州軍総司令官大山巌大将はこれを「関ヶ原もかくあらん」と称した。
そして奉天の会戦。
日本軍24万人対ロシア軍36万人。
大山巌大将はこれを「関ヶ原もかくあらん」と称した。
悪路もさることながら悪天候は想像以上だった。
日本軍「汗をかいたらすぐ凍結する、各自充分注意せよ」
兵士A「一瞬ぱあっと晴れたかと思えば、一天にわかにかき曇る」
兵士B「暴風雪が吹き荒び、稲妻が天空を駆け巡る」
兵士C「びちゃびちゃのドロドロでカチカチ」
ロシア軍司令クロパトキン「知っているぞ」
「航空機も戦車も厳寒期には不能!」
「白兵突撃なら、数の多い我々のほうが有利だ」
これは本当の殺し合いになる筈だった。
肉弾戦である、しかし・・・・・・。
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しかし80km彼方では、恐るべき多薬室砲が奉天に狙いを定めていた。
砲身長150m、薬室数28、最大射程88kmのバケモノである。
大坂から明石海峡を越えて姫路沖の男鹿島に着弾したバケモノだ。
これは「奉天砲」と呼ばれていた。
「発射!」
スポスポスポスポッ、パッコオオ~ンッ!
拍子抜けな発射音とともに砲弾は成層圏まで上昇、やがて再突入する。
大気との摩擦で、真っ赤に焼けた弾頭。
これが見えたら、見た者は一瞬で吹っ飛ばされる。
マッハ25。音速の25倍ですっ飛んでくるのだ。
ドッカアア~ンッ。
まず哈爾浜と奉天間の鉄道線が狙われた。
鉄路は木っ端微塵に吹き飛んでしまった。
ロシア軍の補給と撤退の命脈はここにプツンと途切れてしまった。
クロパトキン「あ、あっ・・・・・・」
もう補給は無い、撤退も出来ない・・・・・・。
ロシア軍お得意の戦法は撤退戦法だ。
相手を引きずり出し、補給が伸び切った所を叩く戦法だ。
ナポレオンをロシアの焦土作戦で自滅させた時と同じ戦法である。
だが今や、自分達がそのまっただ中に置かれているのだ。
後方支援の鉄道線を真っ先に叩かれたロシア軍は動揺した。
多薬室砲の限界は実は500発であった。
成層圏まで砲弾を打ち上げる砲身への負荷は想像以上であった。
砲を1回撃つ度に砲身はすり減り、砲弾は特注で少し太くする。
1回1回大きさの一回り大きい砲弾を専用に作る手間が掛かる。
だがここで使い潰しても、それは本望というものだ。
多薬室砲は撃って撃って撃ちまくった。
クロパトキン「籠城戦だ!弾薬を節約せよ」
撃って出るはずが、これではあべこべだ。
ロシア軍でも異常事態である事は察知していた。
水平線の見通し線16kmより向こうから砲弾は飛んでくる。
何か人知を超えた超兵器が砲弾を撃ち続けているのだ。
昼も夜も雨でも暴風雪でも、きっかり30分に1発飛んでくる。
これは奉天砲の発射限界で言えば20日で使用不能だ。
だが使い潰すのでこれでいいのだった。
ドカンッズシンッビリビリッ。
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ドカンッズシンッビリビリッ。
水が一滴ずつ犠牲者に垂れる「水拷問」が中国にあるという。
ポタリ・・・・・・ポタリ・・・・・・ポタリ。
ゆっくりとしたたる水滴には何の威力も無い。
だがゆっくりと定期的に滴る水滴が犠牲者を発狂させるという。
じっと陣地で耐え続けるロシア兵にも限界があった。
4日目ぐらいから頭がおかしくなる者が続出した。
極寒の外気に裸で飛び出し凍死する者。
意味不明の叫び声を上げながら暴れ回る者。
凄まじい痙攣をおこして跳ね回る者。
今風に言えば「戦時ストレス反応」であった。
だが当時は何が何だかわからないのが実情である。
それを見透かしたように砲撃は15分に1発となった。
もう安眠はおろか食事もトイレも安心して出来ない。
クロパトキン「ニコライ二世陛下、申し訳御座いません」
「全ては私めの不慮不徳の致すところで御座います」
8日目ロシア軍は降伏した。
奉天砲は576発撃って御役御免となった。
大山「勿体ないが仕方がない、これが戦争だ」
クロパトキンは釣りに出掛けてしまい行方不明になった。
日本軍は捜索したがとうとう見つからなかった。
ロシア人捕虜は36万人余となり、すべて松山捕虜収容所送りとなった。
輸送も大変だが、松山は大騒ぎになった。
人口5万の地方都市に36万人の異人がやって来た!
急遽、ロシア人ニュータウンの建設が始まった。
興居島、睦月島、中島の入植も行われた。
ロシアンタウンが出現し、地元松山は活況に湧いた。
兵士の中にはパン職人、ケーキ職人、ハム・ソーセージ職人がいた。
彼らはロシアンタウンで店を開き、大盛況となった。
ボイラー職人は重宝され、工場の保守維持に貢献した。
ハーグ条約の規定により、捕虜には賃金が出た。
日本人はロシア人だと思っていた最前線の歩兵。
その多くは実はポーランド人だった。
ポーランド立憲王国はニコライ二世が国家元首を兼任していた。
帝政ロシアの衛星国家のひとつだったのだ。
「ミウォ・ミ・ポズナチ(Miło mi poznać)」
こう言って振り向いた兵士を日本軍は静かに引き離した。
征服者と屈従した者が一緒にいるのはマズい。
最終的には1万人以上がポーランド人だったのだ。
通訳「czy mówisz po angielsku?(英語が話せますか?)」
兵士「tak,troche(はい、少し)」
通訳もポーランド語は分からなかったので英語を共通語とした。
奉天の会戦は日本の勝利に終わった。
その報にニコライ二世は、サンクトペテルブルクの冬の宮殿で接した。
ニコライ二世「まことか?」
1905年1月はロシア第一革命で国内は不穏な雰囲気であった。
しかも露仏同盟の仏領モロッコに不穏な動きがあり国外も穏健ではない。
頼みの綱は、回航中のバルチック艦隊が日本艦隊を叩き潰す事だ。
「まだだ、まだ終わってはおらん」ニコライ二世は断じた。
「ロシアの地にまだ一兵卒たりとも日本人は手を付けておらぬ」
それはそのとおりであった。
旅順を失い、奉天の会戦で負けてもそれは外地なのだ。
ウラジオストクでさえ、「ナマコの崖」という清国領土だった。
ロシアはまだまだ撤退は一時的なもの、すぐ挽回出来ると考えていた。
まだまだロシアは戦う気満々であった。
バルチック艦隊と日本連合艦隊の勝敗こそ日露大戦の分水嶺なのだ。
次回は1905年下瀬トリニトロトルエンです。




