1853年ペリー来航
吉田松陰、木戸孝允(桂小五郎)、高杉晋作が米船の密航に成功します。目指すは英国!
1844年オランダ国王が江戸幕府に鎖国を解くよう親書を送る。
だが江戸幕府は親書を無視、反応は音沙汰無しに終わった。
1846年米国東インド艦隊が浦賀に渡航し、通商を求めたが失敗している。
1851年米大統領フィルモアが米国東インド艦隊を派遣するが失敗している。
すでに特使を送り、親書を交わすこと三回(実質四回)。
頑なに鎖国を続ける日本。
穏やかに親書を交わして、鎖国を解き開国を促すのは不可能と悟った米国。
圧倒的軍事力で、恐怖を与えて開国を強要する方針に舵を切ったのだった。
1853年ペリーは蒸気外輪船2隻、帆走スループ船2隻計4隻で来航。
蒸気機関の黒い噴煙をたなびかせ、外輪をゆっくりと回して遊弋している。
内燃機関を知らない日本人たちはポカーンとしていた。
絵で見て噂に聞いた黒船は予想通りに日本人を驚かせた。
浜には屋台も出て、物見遊山の見物客でごった返していた。
その黒船の姿を遠望し、絶望している2人の日本人がいた。
佐久間象山と吉田松陰その人であった。
象山「もうダメだ、日本は周回遅れ・・・・・・」
松陰「いや、まだだ、まだ間に合う」
250年間の文明文化の停滞が、彼の肩にのし掛かってくるのを感じていた。
この時は第12代将軍徳川家慶の病気を理由に返事に1年の猶予を要求した。
1854年再度ペリーが来航。
その黒船の姿を再び遠望し、絶望している2人の日本人がいた。
象山「もうダメだ、日本は周回遅れ・・・・・・」
松陰「いや、まだだ、まだ間に合う」
彼らは最後の手段を取ろうとしていた。
松陰の弟子だった木戸孝允(桂小五郎)も同様であった。
高杉晋作も思い詰めた様子で先生に迫った。
桂「先生、私は英国で学びたいものです!」
松陰「いかん、キミは日本に残りなさい!」
高杉晋作もまた師匠に詰め寄っていた。「先生!」
松陰「キミもか、いかんいかん」
1854年紆余曲折の末に、日米和親条約が結ばれ、日本は鎖国を放棄した。
だがその欧米との文明文化の格差、技術水準の差は、あまりにも隔たっていた。
1854年吉田松陰は金子重之輔と供に旗艦ポーハタン号に密航。
松陰「ああ、やっぱりついて来たか・・・・・・」
桂と高杉もまた異人船の船上の人となっていた。
蒸気船はインド洋経由で米国への帰国の途に就いた。
清国の上海を経由し、英国領インドのムンバイに寄港した。
この港町を経れば、アラビア半島英国領アデン(イエメン)だ。
ここには巨大な英国海軍基地があった。
その規模は日本人の想像を絶するに余りある光景だった。
吉田「ここがロンドンか」
桂「南蛮は暑いと聞いていたが、まさかこれほどとは・・・・・・」
高杉「え、違うの?ここ外地なの?」
<じゃあ、本国はどんなだよ?>
3人は暑いアデンで背筋を冷たくしていた。
吉田松陰らは英国行きを希望したため、米船を降りた。
スエズ運河は建設中で、スエズ陸峡を繋ぐ馬車輸送があった。
そこからエジプトのアレクサンドリアまでは陸路である。
馬車に揺られながら、3人は語り合った。
吉田「英国というのはスゴい国家なんだな」
桂「国力が違う、規模が日本の比じゃない」
高杉「英国は栄光ある孤立というらしいぞ」
強力な軍事力と絶大な経済力で孤高を貫いてきた英国。
この栄光ある孤立は「日英同盟」まで続いた。
アレクサンドリアから英国ポーツマス港行きの定期船に乗船。
定期船がない日本人はただ驚くばかりであった。
吉田「浮かぶホテルのような豪華さだ」
桂「食堂があるぞ!ホールもある!」
高杉「英国は進歩しすぎだよ・・・・・・」
だがこの後、吉田松陰らの行方はふっつりと途絶えてしまう。
彼らが再び現れるのはもう少し後の話になる。
次回は1855年スンピン号です。