1904年南山の戦い000
南山は近代的な散兵壕を巡らせた野戦陣地である。機関銃砲座と鉄条網が日本軍の白兵突撃主義を有効に妨害していた。
1904年5月南山の戦いが始まる。
地雷と機関銃砲座、有刺鉄線で防御されたロシア軍陣地。
これは当時は最強の防御陣地だった。
ロシア軍の観測用気球がいくつか上がっている。
旅順口攻撃で何某かの航空戦力が使われたのは分かってきた。
それは気球か飛行船かでロシア軍内では揉めていた。
空爆の迅速さはそのどちらでも説明は付かない。
魚雷攻撃を受けた艦の水兵は「雷撃機」だったと述べている。
1903年米国でライト兄弟が初の有人動力飛行に成功している。
ニコライ・トレチャコフは貴族の出でありながら工兵の出だった。
ゆえに様々な分野の知識のある軍事技術者だ。
トレチャコフ大佐「航空機である事はもう間違いない」
南山司令官アレクサンドル・フォーク「いや違う」
フォーク「遅れた極東の小島の原住民の知恵がそこまで回るか?」
「1853年のペリー来航まで髷に袴の民族衣装だった土人だぞ?」
フォーク「それともアジアで日本だけが勤勉で知識欲旺盛だとでも?」
「いや、そんな事がある筈が無い、認めない」
フォーク「多分それはグライダー(滑空機)だろう」
「ロシアでもグライダーなら見たことがある」
1849年にジョージ・ケイリーが滑空に成功している。
この時は10歳の少年を乗せていたのだ。
トレチャコフ「ううむ、そのほうが有力か」
東シベリア狙撃兵第5連隊長の彼は気球砲の配備を要求した。
「とにかく気球砲の配備は必要だろう」
こうして気球砲だけが配備に就いた。
架台は馬車の荷台で移動式だった。
角面堡、眼鏡堡、砲座が居並ぶ南山正面。
日本軍は遠巻きに南山の陣地を取り巻いていた。
すでに遼東半島の旅順口の軍港は無力化された。
南山も旅順も陸の孤島と化していた。
ここを無視して通り過ぎても良かった。
普通なら白兵戦での兵力の損耗を避けただろう。
だが今の日本軍はそうではない。
鉄騎兵第4旅団長の吉橋徳三郎は辛抱たまらんという顔だった。
第二軍司令の奥 保鞏にとうとう意見具申する有様だった。
陣地には装甲指揮車が置かれ、奥司令が詰めていた。
そこに鉄騎兵第4旅団長の吉橋がやってきた。
吉橋「鉄騎兵(戦車)を使いますか?」
奥「シッ、秘匿兵器だぞ」
奥はカーテン越しにいる中国人苦力へアゴをしゃくった。
下働きの苦力が2人に紅茶を出してきた。
吉橋は隠語の「鉄騎兵」で会話を続けた。
ここで言いよどんでは、何かと不都合だ。
吉橋「速く鉄騎兵旅団を動かしたいもんですなあ」
奥「お前、この前まで機械化部隊に反対してただろ」
吉橋「いやあ、鉄騎兵はいいものですなあ、目が覚めましたよ」
騎兵第4旅団長の吉橋は軍馬戦闘の英傑であった。
ある日、国司伍七満州参謀と激論を交わしたのだ。
それは騎兵による乗馬戦闘での意見の相違であった。
国司参謀が吉橋の乗馬戦闘を「妄想」と酷評し、吉橋が激高。
その場で拳銃自殺しようとして止められていた。
国司参謀はあわてず、冷ややかに言った。
「そこまで言うなら「戦車は鉄の馬」なのだから搭乗してみるが良い」
「お前も一端の兵士なのだから、戦闘の未来が読めるはずだ」
「それでも分からなければ、自決でもなんでもしろ」
こうして今の(鉄)騎兵第4旅団長の吉橋徳三郎がいる。
生身の軍馬から鉄の戦車に乗り換えたのだ。
すっかり戦車に取り付かれた彼はちょっとした変人になっていた。
戦車兵「旅団長殿はなぜ面マスクをしているのでありますか」
吉橋「これか?これは防火マスクだが理由は秘密だ」
彼は戦車にエルコンドル・パサーと名付けて生活していた。
軍馬と衣食住を共にする変人奇人もいる。
だが戦車は別物だ。
変人奇人を越えたヘンタイだと噂になった。
奥司令「これだから最近の若いモンは」
と関心しながら笑うのだった。
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吉橋「おおっと、これ(戦車)はそう(機密)でした」
彼は下働きの中国人苦力を見て、口をつぐんだ。
奥「そういえば紅茶が苦くなった、取り替えて来てくれ」
中国人苦力「ハイ、ワカリマシタ」
机の上の古い紅茶カップを持って、中国人苦力は車外に出て行った。
第二軍司令の奥 保鞏は苦力の方を見ながら声音を下げた。
奥「中国人苦力は、敵味方どっちの陣地にもいる」
清国は清露秘密協定で双方が戦時に侵略者に立ち向かう事になっていた。
だが日露戦争が始まると局外中立(どちらにもつかない)という立場をとる。
協定上は、中立国の使用人という立場であった。
奥「それゆえ苦力は、間諜として利用し、されもしている」
吉橋「わざと情報を漏らし、待ち伏せや強襲に使ったり」
実際に南山でロシア側で働いていた苦力から得た地図がある。
砲座や弾薬庫、兵舎や食料庫の位置が詳細に描かれている。
だがこれは現実に正しい図面なのだろうか?
日本軍で働いている苦力もロシアに情報を漏らしているのでは?
やはり「上から」要塞を直接「見なければ」本当の所は分からない。
そしてそれは「航空機」を使った航空撮影を意味した。
第二軍奥司令「そろそろ始めるか」
中国人苦力が引き上げた後、奥司令が命令した。
「偵察用気球を上げいっ」
1870年普仏戦争では気球部隊が偵察、地図作成、撮影と大活躍していた。
日本陸軍もこれに注目し、当然の段取りとして偵察に使っていた。
だがこれは欺瞞、つまりおとりの気球で無人であった。
日本兵の人形がいかにもの体でポーズを取っている。
ゆっくりと敵陣地に向かって気球が漂っていく。
敵陣地では低空侵入の気球を打ち落とそうとライフルを撃ってきた。
だが射程が短く届かない。
ロシア兵「どけ」
1870年普仏戦争では気球に対抗する兵器が実用化されていた。。
気球を狙撃する「気球砲」でクルップ社製の高射砲の元祖だ。
馬車のベッドに固定された44mm砲が運ばれてきた。
慎重に狙いを定め、引き金を引く。
ドズーンッボスッ!
発射音と同時に気球に穴が開き、ゆっくりと沈下し始めた。
ロシア兵「ざまあみやがれっ」
第二軍奥司令「ヨシッ引っ掛かったな」
この陽動作戦に引っ掛かったロシア兵は低空しか見ない。
注意を低空に逸らすことこそ、この作戦の要だった。
旅順口攻撃で使った航空機はここでは使わない。
奥司令「飛行船離陸せよ」
飛行船は複葉機1機を搭載する航空母艦であった。
だが秘匿兵器「航空機」は最後の手だ、と奥司令は考えていた。
偵察だけなら飛行船だけでも可能である。
ズドーンッズドーンッヒュウルルルッバッカーンッ!
沖合の艦砲射撃によるおとり攻撃が始まった。
その爆音に紛れて、飛行船は静かに飛び立った。
高度は2000m、飛行船は点にしか見えない。
低空のロシア軍観測用気球からは気球が邪魔で上空は目視出来ない。
飛行船の揺動から離れるため、偵察筐体がスルスルと降ろされた。
南山の陣地の写真を撮影するのだ。
航空写真の歴史は古い。
1855年フランスで気球からの撮影に成功。
1856年フランスの写真家が詳細な航空写真の撮影に成功。
1877年日本の西南戦争にて偵察写真の撮影に成功。
撮影機は、のちにニコンと呼ばれる会社製カメラで、日本製だ。
レンズ構成はドイツのレンズメーカーエルネマンだ。
これは後のカール・ツァイスである。
このレンズ構成(5枚3群など)から学んだ。
ジーッカシャッ、シャッターが長時間露光で切られる。
揺動が極限まで小さい偵察筐体だからこそ出来る神技だ。
ゆっくり高高度から南山の上空を旋回した。
飛行船ならではの航空撮影である。
高空からの詳細な撮影を何十回も繰り返した。
そのフィルムを二度焼き付けして濃淡を強化した写真を大判に引き延ばす。
特殊なステディカム装置に乗っていたのは2台のカメラだった。
カメラスタビライザーが容易に滑らかでスムーズな撮影を可能にしていた。
2台のカメラが撮ったのはステレオ写真である。
2000mの高度から撮る写真は平面的だ。
それを人間の両目の間隔(65mm)だけ離した2台のカメラで撮影する。
この写真を三次元解析して、平面ではなく立体で情報を把握するのだ。
次回は1904年南山の戦い001です。




