1904年仁川沖海戦
仁川沖海戦は日本軍14隻対ロシア軍2隻で日本の圧勝だった。仁川で上陸した第一軍は鴨緑江で敵将ミハイル・ザスリッチと対峙した。
1904年2月6日日本はロシアに断交を通知。
1904年2月7日ロシアに対して宣戦布告した。
ここに日露大戦が勃発する。
この電文は長崎からウラジオストクへ、海底ケーブルを介して電信された。
ニコライ二世はこの報を、サンクトペテルブルクの冬の宮殿で聞いた。
ニコライ二世「まことか?」
「黄色い猿どもめ!目にもの見せてくれる!」
巡洋艦浪速を旗艦とする攻撃艦隊が2月7日に佐世保を出撃した。
海軍「まずは釜山だろ」
陸軍「いや大孤山だろ」
これは中間地点の仁川を取ることになった。
釜山は海軍には最短だが、陸軍には遠回り。
大孤山は陸軍には近道だが、海軍には遠回りだった。
目指すは仁川港に停泊するロシア戦艦だ。
仁川港は国際港だ。
ロシア、英国、フランス、アメリカ、イタリアの艦艇が停泊している。
なんと日本の防護巡洋艦の千代田さえも停泊していた。
第4戦隊司令官の瓜生少将は、領事を通じて、ロシアに宣戦布告を通達。
2月9日までに出航しない場合は、ロシア艦船を港内で攻撃すると通達した。
瓜生「まあ念のためだ」
「宣戦布告は後々うるさいからな」
2月8日早朝、巡洋艦千代田は仁川港を脱出し、艦隊に合流した。
2月8日午後、ロシア砲艦コレーエツが湾外に出てきて交戦となった。
魚雷戦となったが、双方ともに被害はなかった。
魚雷は打ち放しのため、不発とも外れたとも言えた。
巡洋艦ヴァリャーグが続いて港を出て、これとも交戦となった。
日本軍14隻対ロシア軍2隻では、ロシア軍に勝ち目は無かった。
ロシア船は被害を受けながら港に引き返し、それぞれが自沈した。
日本人に拿捕されるのを嫌ったためだった。
乗員は全員捕虜として松山の大林寺に護送された。
陸軍の先遣部隊を乗せてきた輸送船3隻で送り返した。
後にヴァリャーグは引き上げられ、宗谷として日本軍で活躍する。
こうして仁川沖海戦はあっけなく終わった。
陸軍第一軍は仁川から上陸し、鴨緑江という河川に向かった。
そこにはミハイル・ザスリッチ率いるロシア軍が待ち構えていた。
ザスリッチ「主力は丹東の町に集結している」
「ここに防御陣を集中し、日本軍を撃滅せよ!」
そこに斥候が息も切れ切れに飛び込んできた。
ザスリッチ「どうした!丹東の町を出たか?」
斥候「丹東の町にいるのはオトリです!」
「さらに上流の義州の町に敵主力が集結しています!」
ザスリッチ「な、なんだとう!」
参謀「如何致しましょうか?」
「兵を再配置して義州の町に向かわせましょうか」
ザスリッチ「日本人がそんなに機敏であろうか」
参謀「渡河には200艘の小舟を繋いで仮設橋を作ります」
季節は2月、零下16度でまあ「ちょっと寒い」ぐらいである。
日本人は渡河を狙われれば、川に落ちれば凍死するだろう。
ザスリッチ「彼らは町を出て浅瀬を探しているのだ」
「引き続き丹東の町を防御陣の中心とする」
「斥候は義州の町も警戒せよ」
斥候「Понял(ポニョ)!」
ザスリッチは日本人を低評価しており、ロシア軍を再配置しなかった。
そのため日本軍は易々と鴨緑江に仮橋でき、渡河に成功した。
日本軍兵士A「全然敵と遭遇しないなあ」
日本軍兵士B「丹東の町のオトリに引っ掛かったな」
日本軍兵士C「欺瞞作戦がこれ程上手くいくとはな」
斥候「義州の町の浅瀬に仮設橋ができ、日本兵が渡河し始めました」
ザスリッチ「な、なんだとう!」
ザスリッチは地団駄を踏んだが、もう遅かった。
こうなればロシアお得意の「撤退作戦」だ。
ザスリッチ「撤退作戦で日本軍をおびき寄せるぞ」
「ちょうど焼売の皮が中身を包むような格好だ」
だが攻撃精神旺盛な日本軍の白兵突撃は予想以上に速かった。
黒木司令官「ロシア軍は撤退作戦だ!」
黒木「撤退速度以上の突撃速度でロシア兵を蹴散らせ!」
野戦重砲の支援の元に、騎兵が突撃、思う存分蹂躙した。
日本軍兵士A「うおおおっ、コイツを待ってたんだ!」
日本軍兵士B「反撃の隙を与えるな!」
日本軍兵士C「いけ~!ぶちかませ~!」
ロシア軍は撤退作戦の筈が、本当の撤退になってしまった。
ザスリッチ「ああ、焼売の皮が破けちまう!」
第一軍司令官の黒木為楨はその猪突猛進ぶりを恐れられた。
ロシアでのあだ名は「クロキンスキー」だったという。
撤退速度を上回る突撃速度に、ロシア兵は脆くも崩れ去った。
ロシア軍は北へ撤退し、大石橋で日本軍と再度まみえる事となる。
次回は1904年旅順口攻撃です。




