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日露大戦  作者: 登録情報はありません
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1895年下関条約

日清戦争は歩兵の戦いでもあった。騎兵部隊が花形で実力も自尊心も極めて高かった。

陸上の戦いは見るも無惨な戦闘であった。

鉄条網と塹壕、そして抜刀突撃である。


「銃剣を装着せよ!」

生身の歩兵以外に突撃の手段は無かった。


双方ともマキシム機関銃を保有していたが、銃弾の実包に問題があった。

そのため故障が多く、十字砲火の餌食になる事が無かった。


鉄条網を大ばさみで切る者、押し倒す者は狙い撃ちにされた。

空塹壕には錆びた鉄片が散乱し、飛び降りた日本兵を傷つけた。


その惨状を聞いて、本土で戦車研究に携わる技術者は騒然となった。


技術者A「ああ、戦車さえ、戦車さえ間に合っていればこんな事には!」

技術者B「いや、歩兵と騎兵の確執は相当なモンなんだよな」

技術者C「騎兵科の吉橋徳三郎って知っているか」


「乗馬戦闘の騎兵を廃するなら、自決すると言って一歩も引かんそうだ」


自動車を運転するように、騎兵は馬を自由自在に操る事が出来る。

その自信と矜持は並大抵のものではない。


こうして日露戦争まで騎馬は歩兵と並び、維持されることになった。


実際奉天では冬は-16℃にもなり、燃料がシャーベット状になる。

まだ特3などの寒冷地仕様の燃料がなかったためだ。


もし参戦していても、装甲車も戦車もお手上げだったろう。

極寒の大地では騎兵しか役に立たない事もある。


実際ヨーロッパ留学し体得した、騎兵戦術の天才がいた。

秋山好古(あきやまよしふる)その人だ。


拠点防御方式(馬ごと)を開発した恐ろしい人だ。

塹壕を掘って馬ごと潜伏して、機銃掃射を行うのだ。


騎兵に砲兵も工兵も付いてくるのは不思議な光景であった。

断じて時代遅れの頭の持ち主ではなかった。


秋山「敵が塹壕から、こっちに歩兵が突撃してくるだろ?」

「そしたらさ、こっちは騎兵が馬ごと塹壕から飛び出すわけ」


「敵さんはびっくらこいて逃げ出すよ」

「500kgの馬の突進に勝てる人間はいないさね」


そう言って秋山は笑うのだった。

臨機応変、神出鬼没の世界一の騎兵であった。


この秋山好古の弟が伝説の参謀こと秋山真之であった。

彼はまだ学生だったので黙っていたが、彼の考えは別だった。


こういう経緯もあって、戦車の出番はなかった。

進捗状況も遅延しており、間に合わなかったのだ。


日清戦争は日本の連戦連勝で進んでいった。

ただ進軍速度を重視したたため、兵站の不足に悩まされた。


突入した城郭に清軍が残していった糧食にありつくといった様だった。

陸軍が突撃・総攻撃体質を戒めたのはこの時であった。


北洋艦隊の降伏、旅順半島全域の占領、澎湖(ペンフー)列島の占領。

日本軍はいよいよ台湾本島に迫っていた。


この時、英国とイタリアの斡旋で講和交渉が始まった。

清国全権大使はかの()鴻章(こうしょう)であった。


1895年3月19日、下関条約の会議が料亭で始まった。

この料亭は下関が一望出来る場所にある。


李「これはどういう了見ですか!」

条約には台湾を日本に割与する構文があった。


李「日本はまだ台湾本島に上陸さえしていないではないか!」

「賠償金2億テールはあまりにも高すぎる!」


李はプルプルと震えていた。

アロー戦争賠償金は600万テールだから、日清戦争のソレは30倍以上だ。


李「こ、こんな事がまかり通って良い筈がない!」

「これは交渉では無く、隷属ではないか!」


李は内密に英仏独露の大使館を訪れ、領土割譲は不可避との認識を確認している。

ここでごねたのは李の外交戦術である。


日本としては西欧列強の干渉が気がかりであった。

裏では英仏独露がそれぞれの思惑で動いていた。


英国は香港がやり玉に挙がるのではないかと恐れていた。

仏国は露国と結び、日本の過大な要求について干渉するつもりだった。

独逸は露仏にさせてなるものかと接近してきたのであった。


こんな時、李は狙撃されたのだった。

日本人青年に顔面を撃たれ、重傷を負ったのだ。


敗戦国の公証人が狙撃された事は全世界に衝撃を与えた。

日本は大津事件(ロシア皇太子狙撃事件)に続いて2度目である。


ロシア皇帝ニコライ二世「だから言わんこっちゃない」

墺洪帝国皇太子フランツ「極東の稚拙な野蛮国だなあ」

米国のマッキンリー議員「非常によろしくない事態だ」


欧米の注目は欧米の批判に変わった。


李は「これぐらいのこと覚悟して来ましたよ」とうそぶいたという。

顔面の弾丸摘出手術を後回しにするほど、李は交渉に意欲的だった。


日本は戦争を続けながら講和交渉を続けるといった優位な立場だった。

だがこの事件が批判を浴びれば、交渉を一気に覆されかねない。


伊藤博文は反対する軍部を説得し、すぐさま休戦し、停戦する事を譲歩した。

李は承諾し、賠償金は5年ローンで支払うことを提案した。


ここに下関条約は締結し、日清戦争は終戦を迎えた。

1895年4月20日明治天皇が講和条約を批准した。


1895年4月23日批准の3日後、三国干渉が始まった。

ロシア「遼東半島の日本占有はアジアの恒久平和を乱すモノだ」


日本が西欧列強三国に反抗出来るわけがなかった。

英国は列強三国と不仲になってまで日本を助けられなかった。


列強三国「遼東半島を清国に返還せよ、さすれば代償金を上乗せしよう」

日本「・・・・・・」


日本は戦後処理を英仏独露ともやるべきだったのだ。

敗戦国の清国は英仏独露に戦争賠償金やら領土の問題を相談していた。


各国を巻き込んで敗戦国といえども、交渉を上手くまとめる。

裏工作と折衝の積み重ねは外交の基本である。


露と仏は裏で繋がっているのだから利用すべきだった。

独露は仲違いしているのだからこれも工作すればいい。


交渉ごとは単独でなく、回りを巻き込んでやるものなのだ。

ついに日本は三国干渉に屈し、遼東半島を清国に返還した。


1896年6月ロシアはちゃっかり清国と露清密約を結んだ。

フランスは鉱山採掘権、仏領インドシナからの鉄路の敷設権を得た。

ドイツは漢口と天津に租界を、膠州湾に租借地を得た。


何のことはない、難癖つけて、ちゃっかりおこぼれに預かったわけだ。

国力で劣り、軍事力で負けるという事はこういう事なのだ。


日本はさらに富国強兵、文明開化に邁進することを誓った。

次回は1896年露清密約です。

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