1889年二宮忠八の飛行機(器)000
二宮忠八の飛行機(器)はそのままでは飛ばない。実物大試験機が入る風洞実験設備で何回も試行錯誤を繰り返さなければならないのだ。後年ライト兄弟は風洞実験で200種類以上の翼形状を試している。
二宮忠八、彼は夢想癖のある発明家といった体であった。
衛生卒として陸軍に入隊した彼だったが、窓の外ばかり見ていた。
やはり夢想家である事に変わりは無い。
彼は空飛ぶ器械「飛行機(器)」を夢見ていた。
1889年カラスが羽を動かさずに滑空しているのを見て閃く。
迎え角を持つ固定翼機を発案する。
二宮「羽ばたかなくてもいいんだ」
「風を受ける翼形状さえ上手くいけば滑空できる!」
1891年ゴム動力の模型飛行機(器)(30cm)を初飛行で10m飛行させ成功。
1893年日清戦争前年。玉虫型飛行機(器)模型(2m)を飛行させ成功。
二宮忠八「ヨシッ」
これなら飛行機(器)の研究を上申出来ると、彼は決断した。
1894年遂に上司である2人の参謀に計画書を上申提出する。
長岡外史大佐と大島義昌旅団長の2人であった。
1894年は日清戦争勃発の年で、日本は戦時中である。
だが大佐と旅団長は貴重な時間を割いてくれた。
長岡大佐と大島旅団長は長い間設計図を見ていたが、まず長岡が口を開いた。
長岡「動力は一体どうする気なのか?」
二宮「はっ・・・・・・」
長岡「はっじゃないが」
大島「横風に弱い設計に見える、重心が高すぎるようだが」
二宮「はっ・・・・・・」
二宮はいやな汗をかき始めた。
上司がここまで見抜くとは思って見なかったのだ・・・・・・。
1871年には既にフランスでゴム動力の飛行機が初飛行に成功している。
1872年フランスで人力推進気球がプロペラ飛行に成功。
1874年フランスで蒸気機関飛行機が下り勾配でジャンプに成功。
1875年フランスで蒸気機関模型飛行機が浮揚に成功。
1876年フランスで引込脚を備えた飛行機の特許が出願される。
1877年イタリア人エンリコ・フェルラーニがヘリコプターを発案。
模型の飛行に成功している。
この年日本の西南戦争の熊本城脱出に気球を使用する計画があった。
だがその前に戦いが終わってしまい、挫折している。
1878年アメリカで人力飛行船が飛行に成功。
1879年フランスで双発エンジン模型飛行機が飛行に成功。
1880年以降、フランスで航空史を見ていた日本人留学生がいた。
フランスに1880年に留学、4年間を過ごした伊地知幸介だ。
彼が詳細を逐一日本に報告していたのだ。
その資料が大佐と旅団長の机の上にうず高く積まれていた。
長岡「二宮くん、見てみなさい」
二宮はむしゃぶりつくようにして資料に飛びついた。
米国人グスターヴ・ホワイトヘッドの滑空機(器)の模型写真。
ブラジル人サントス・ドゥモンの箱形飛行機(器)の模型写真。
今にも飛びそうで、二宮は目が回りそうになった。
大島「もうすぐ世界は航空機の時代になる」
欧州ではではドイツが、フランスが実験機を滑空までいっている。
アメリカは航空機の研究に躍起になっていた。
自転車屋の兄弟が空を飛ぶ研究を始めたとも聞く。
グライダーや気球、飛行船が飛び、世界は航空機時代を迎えていた。
一兵卒だった二宮は知る由もなかったが、上司は確実に情報を得ていた。
そこに飛行機の設計の報を受け、飛び込んできた男がいた。
1881年フランスに留学していた工兵上がりの上原勇作だ。
大島参謀長とは薩閥の頃からの戦友である。
工兵ゆえ技術に詳しかった。
大島「ちょっと見てやってくれんか」
上原「う~むむむ、むっ」
さっそく図面を見た上原が急にうなり始めたのだ。
二宮はさらにいやな汗をかき始めた。
上原「フランスではモックアップ(原寸)を作っている」
「何千回も、実寸模型で風洞実験を繰り返している」
「このままでは無風なら良いだろう」
「だが横風が吹けばバランスを崩し横転する」
長岡、大島、上原は視線をキッと二宮に向けた。
二宮は何も言えなかった、そのとおりなのだ。
山田「ほうほう、アンタが二宮忠八くんやな」
和歌山訛りの中年の男が現れた。
彼こそは、かつてゴム製救命胴衣を発明した男。
今や、円筒型係留気球の発明者、山田猪三郎である。
二宮「エルトゥールル号の奇跡の山田猪三郎殿!」
山田「いや、お恥ずかしい」
彼は気球、飛行船のゴム製気球の気嚢の研究でスカウトされていた。
この日清戦争でも偵察用気球は打ち上げられている。
彼は気球に蒸気機関のプロペラを付けた動力気球の第一人者だ。
既に気球は実用化された唯一の軽航空機であった。
それに比べて、飛行機はまだ海の物とも山の物ともつかぬ新機軸だ。
世界でも滑空機は飛ぶが動力機は成功したことがない。
最初の試作機だけでは飛行機はとうてい安全には飛行出来ない。
何百機も作っては壊しを繰り返す。
無数の試行錯誤の末に、ようやっと理想の形にたどり着くのだ。
それには実機が入るだけの、巨大な風洞実験施設がいる。
そこで、揚力の繰り返し実験が必要なのだ。
羽根の枚数、大きさ、間隔はこの繰り返し実験の結果による。
彼自身も今回が完璧な形状とは考えていなかった。
揚力を生む迎え角はもっといい角度がある筈なのだ。
数式から導き出されるのは概要だけで、実用は実験から生まれる。
その実験の為の施設、準備期間、用地買収etc。
その金額だけで目が回る高額である。
二宮は自分の飛行機の夢が泡と消えるのを感じた。
次回は1889年二宮忠八の飛行機(器)001です。