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日露大戦  作者: 登録情報はありません
18/67

1890年エルトゥールル号

エルトゥールル号は台風に突っ込んでいった。日本の台風は左回りに回転しながら西から進行する。そのため、エルトゥールル号は南風の暴風の中に突っ込んだ形である。それは船を陸に吹き寄せる格好となってしまった。

だが言わんこっちゃない、海は西から荒れ模様だった。

出航した翌日、エルトゥールル号は台風に巻き込まれてしまった。


ドッパアーンッザッパアーンッ!

日本の台風を初めて味わう事となったエミン・オスマン。


エミン「ここはどこだああっ」

水兵「ワカヤマという場所のクシモトの岬です」


なるほど灯台の光が回転閃光しているのが見える。

あれは和歌山南端の樫野埼の灯台だ。


エミン「カシノザキには暗礁が多い!」

「近づいたら座礁してしまうぞ!」


ドッパアーンッザッパアーンッ!

荒波ますます逆巻き、暴風雨ますます激しくなる。


高波が甲板を洗い、乗組員が波にさらわれる危険が出てきた。

気が付くと回転閃光している光が間近に迫っていた。


エミン「どうしたあっ、近づいてるじゃないか!」

強風に煽られたエルトゥールル号は難所「船甲羅(船ゴラ)」に近づいていた。


日本は北半球にある為、コリオリ力の影響で左回転しながら進む。

西から進んできた台風に船は東から突っ込んでしまった。


それは船を陸に向かって押し込む北向きの強風の真っ只中であった。

エルトゥールル号は岩壁に向かって吹き寄せられていたのだ。


潮岬と樫野埼は日本八箇所の条約灯台の中でも難所だった。

樫野埼は風濤(ふうとう)に翻弄されれば、崖下に難所「船甲羅」があった。


そこは「海金剛」とか「髪とぎ岩」とか恐ろしい名前が付いている。

串本町の「海金剛」は切り立った岩礁に荒波が砕け散る景勝地だ。


地磯としても有名で「青物」がよく釣れる。

船ゴラやチョウライなどの磯は凪の日は釣り人で賑わう。


だが一度(ひとたび)悪天候になると荒れ狂う魔神と化す。

水難救済会は石造りの番小屋を建て、万が一に備えていた。


エミン「もうだめだ、そうだ、日本人が言っていたつづらを開けよ!」

そこにはカポック(救命胴衣)が700袋入っていた。


エミン「アバンダンシップ(総員退艦せよ)!」


同日21時、和歌山県樫野崎の直下「船甲羅」でエルトゥールル号が座礁。

機関部に侵入した海水が、蒸気機関の水蒸気爆発を起こし、沈没した。


エルトゥールル号は艦齢26年、木造機帆船で消耗がかなり激しかった。

荒れ狂う海に656人の救命胴衣を付けた乗員が投げ出された。


爆発音は暴風雨にかき消されて聞こえない。

だが閃光は灯台守によって水難救済会に報告された。


水難救済会「何?爆発の閃光?間違いないんだな!」

灯台守「間違いありません、船甲羅に座礁爆発です」


水難救済会A「現在航行中の船は、どこのバカモノだ」

水難救済会B「トルコのエルトゥールル号がたしか!」

水難救済会C「まずいぞ老朽船だ、こりゃあ大変だ!」


詰所から村に伝令が走り、手すきの者は、崖下に降りていった。

暗闇の中、灯台の閃光回転が海を照らす度に、波間に人影が見える。


紀伊大島は紀伊半島から1330m離れた小島だった。

途中に苗我島という孤島をはさんで海峡はあるがまだ橋はない。


台風が通り過ぎ、波頭が収まるまで、誰もこの島に入れない。

大島にはエルトゥールル号遭難を危惧した海軍陸戦隊がいた。


1886年ノンマントン号遭難は国民の誰もが忘れられない海難だった。

場所も同じ和歌山県樫野崎の海上である。


損得勘定無しで、絶対に二度と起こってはいけない海難だった。

そのために明治政府はエルトゥールル号の航海を心配していた。


消耗した老朽木造艦、台風を押し切っての航海・・・・・・。

横須賀(よこすか)鎮守府(ちんじゅふ)仁礼(にれ)景範(かげのり)中将「バッカモ~ン、なんで止めんかあ!」


直ちに和歌山県由良村に常駐する大阪警備府部隊に連絡をとった。

ここは紀伊水道を防備する要港部(ようこうぶ)という部署であった。


陸戦隊A「なんやっ(どうした)」

陸戦隊B「なーんや(そんな話か)」

陸戦隊C「なんや!(よっしゃ)」


中隊長「我々は台風の中、急遽紀伊大島で医療演習する事になった!」

「医療演習にあたっては外科手術も出来るフル装備で出発する」


海軍は勝手に「医療演習だ」と称して、紀伊大島に当日向かった。

樫野(かしの)峰地(みねじ)須江(すえ)の村落に陸戦隊が押し寄せた。


村人「一体何が始まるんです?」

陸戦隊「何も始まらねば、すぐ帰るよ」


だがその願いも空しく、海難は再び起こってしまった。

ただちに詰所から各部隊に連絡が入って、部隊が樫野崎に急行した。

トルコ水兵達は救命胴衣を付けていても、この荒波である。


何回も磯岸壁に叩きつけられたら、バラバラになってしまう。

救助は時間との闘いだった。


機関室水蒸気爆発に巻き込まれた7人は助からなかった。

だが乗組員656人中649人はまだ生存していた。


だが荒波は恐ろしい力で何回も犠牲者を岩に叩きつけた。

海は真っ赤に染まり、ほぼ半数が出血多量で亡くなった。


乗組員656人中生存者は310人程になってしまった。

崖下には水難救済会、日本海軍兵80人ほど集まっていた。


すぐに暴風の中、救助活動が始まる。

荒波逆巻く台風の海に飛び込み、引っ張り上げる者がいる。


引き上げられた者に人工呼吸を施す者。

もげた足を縄紐で縛り止血を試みる者。


「テェッキュル-レル!」「サー-オルン!」

船員たちは盛んに礼を述べているが言葉が分からない。


村人「灯台守のあんたなら分かるんじゃないのか」

灯台守は国際信号旗表を取り出した。


負傷した水兵は旗をなぞって、自分たちの出自を伝えた。

灯台守「信号旗ではturco(ポルトガル語)、トルコ人だよ」


大八車で、担架で、最後は背負って、崖上へ急いだ。

野戦病院が設けられ、重傷者の手術も始まった。

そのほとんどが重度四肢外傷である。


アミノ安息香酸エチル(ベンゾカイン)が1890年に間に合っている。

これは局所麻酔薬で手術には絶対に必要だ。


開放骨折の骨を固定し血管を吻合した。

神経を繋ぎ、筋肉を元通りにした。


ちぎれた皮膚は広背筋皮弁移植で元通りにした。

Z形成術で跡形も残らなかった。


あとでトルコ水兵達は日本の医師は魔法使いだと恐れたという。

傷跡がないので、PTSD発症率は極めて低かった。


多くが生き延びたが、11人が夜明けまでに亡くなった。

乗組員656人中、生存者299名の大惨事であった。


翌日、台風一過というが、海の波頭はまだ高かった。

だが緊急電信を受けて、県の役人が串本港に陸路やって来ていた。


エルトゥールル号遭難のニュースは日本政府に直ちに通報された。

それを聞いた明治天皇は可能な限りの援助を政府に指示した。


紀伊大島には捕鯨船の入港出来る大型港がある。

ここは和歌山捕鯨の大型船寄港地であった。


そこに付近を航行していたドイツ軍戦艦ウォルフが急遽寄港した。

続々と運び込まれる負傷者達で、甲板は目白押しだった。


そこから神戸の救護病院へ怪我人が搬送され手厚い看護を受けた。

そして4ヶ月後、大命により「金剛」「比叡」がトルコまで送り届けた。


イスタンブールに入港すると、大歓迎が待っていた。

トルコに富国強兵を教え、国家倒産の危機から救ってくれた日本。


その日本がまたやった。


事故後の日本人の懸命な救護活動と看護、国民からの義損金の寄付。

その全てがトルコ人の心を打ち、極東の島国との友好関係に発展した。


トルコ人A「トルコと日本は永遠の友人だ!」

トルコ人B「なんて礼儀正しくて親切なんだ!」

トルコ人C「兄弟のような強い繋がりを感じる!」


()捐金(えんきん)を携えた一般人の山田宗有(やまだそうゆう)も大歓迎を受け皇帝に拝謁も許された。

感激した山田はイスタンブールに商店を開き日土友好に尽くしたという。

次回は1889年二宮忠八の飛行機(器)000です。

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