1878年清国弱体化す
眠れる獅子こと清国は西欧列強の食い物にされていた。さらに清国各地では民族紛争宗教紛争が勃発。満身創痍とはこの事だった。そこに北方からロシアが南下してきた。
欧州で日本人が暗躍していた頃、極東は火の車だった。
眠れる獅子こと清国は、西欧の餌食になりかけていた。
19世紀に清国各地では動乱が相次いで発生していた。
1842年アヘン戦争。
1851-1864年太平天国の乱。
1856-1860年アロー戦争。
1856-1873年パンゼーの乱。
1856-1877年ヤクブ・ベクの乱。
1882年壬午事変。
1884年甲申政変。
1883-1885年清仏戦争。
清国は西洋列強との戦争、自国の宗教民族戦争でガタガタに揺れていた。
英国、ドイツ、フランス、ロシアが、そして日本が食指を伸ばしていた。
特にロシアの動きが活発になってきた。
1689年のネルチンスク条約以降は、ロシアは欧州で画策を強めた。
地中海に出ようと欧州で南下策を講じていた。
西欧で南下を断念せざるを得なくなったロシア。
今度は極東アジアで、じわじわと南下を示し始めた。
1848年ムラヴィヨフは東シベリア提督に就任した。
当時シベリアは王政に逆らった貴族や無政府主義者の流刑地であった。
ムラヴィヨフの親類のバクーニンも、革命家で反政府主義者だった。
その彼も逮捕監禁され、流刑でシベリアに流されてきた。
ムラヴィヨフはリベラルな性格だった。
彼を犯罪者扱いはしなかったのだ。
特に拘束や禁固刑にせず、彼をイルクーツクで自由に働かせた。
噂を聞きつけて、彼の元にはこうした流刑者が集まってきた。
その彼らを使って、ムラヴィヨフは私設の探検部隊を編成した。
探検部隊は名ばかりで、その実は「徒党を組んだ愚連隊」だった。
彼らは喜んで、アムール川河口や樺太に探検(略奪)に出掛けた。
そしてそこに住み着いて、前哨都市を構築し入植したのだ。
1689年のネルチンスク条約。
規約によれば、アムール川の航行権はロシアにはなかった。
しかし最下流の河口について、何の記述も無かったのだ。
ムラヴィヨフはネルチンスク条約に「穴」がある事を発見した。
ムラヴィヨフ「よ~し、シベリアにロシアの前哨都市を築くぞ!」
蒸気船に率いられたイカダやはしけが、アムール川河口に殺到した。
先住の女真族を追い出し、あとは略奪暴行とやりたい放題であった。
1853年間宮海峡の港町フヨリをニコラエフスクと改名する。
この地はアムール川河口で、条約の「穴」の部分にあたる。
この身勝手で好戦的な外交に、帝政ロシアは苦い顔をしていた。
帝政ロシアは、欧州での革命機運を抑えるのに手一杯だ。
革命家による皇帝暗殺未遂事件は再三にわたって起きていた。
それを押さえるのに必死でシベリアや極東まで手が回らない。
探検隊がフヨリから追い出した女真族は、清国の始祖の民族だ。
清国を刺激したくない時期にこれはまずかった。
ロシア外交官僚「ムラヴィヨフを解任せよ!」
ロシア外交官僚「前哨都市放棄だ!」
ニコライ1世「余の直任職を愚弄するでない!」
皇帝はムラヴィヨフの好戦的外交が清国に効果的だと見抜いていた。
この時代、件のウラジオストクはどうであったか。
清国の領土であり「ナマコの崖」という小さな港町だった。
1858年清国は度重なる南方での動乱で急速に体力を削がれていった。
ムラヴィヨフは弱体化した清国に武力で詰め寄った。
荒々しい愚連隊を引き連れての外交に臨んだムラヴィヨフ。
ムラヴィヨフ「清国を助け、英国の脅威から守る事こそロシアの真意だ」
清国全権委員で黒竜江将軍の奕山はいぶかしそうな顔をした。
奕山「はて?昨日は貴公から銃撃を受けたような気がするんだが」
探検隊と称するムラヴィヨフ私設愚連隊のしわざである。
だが鉄面皮のムラヴィヨフは眉一つ動かさない。
ムラヴィヨフ「あれが返事を引き延ばそうとする貴方への答えだ」
「いいか、政治工作の類いは、真摯な態度とは受け取らないぞ」
愚鈍で実直なのか、奇抜で雄弁なのか、よく分からないヤツだ。
ムラヴィヨフは、こうして半ば強制的に条約を締結させた。
これがアムール川左側をロシアの領土とする愛琿条約だ。
1860年アロー戦争での天津条約を清国が批准を拒否した。
原因はあまりにも不平等な条約の内容だった。
「回答期限を1年延ばしてやったのに拒否するとは何事か」
怒った英米軍は天津に上陸、北京に進軍し、これを占領した。
清国はロシアに言った「今こそ誠意と真意を見せて下さい!」
ロシア「まかせておきなさい、仲介役を受けて立ちます」
英米の仲介に入ったロシアは、見事な外交手腕で、講和を成立させた。
これが北京条約で、講和を斡旋したロシアは仲介の見返りを要求した。
これが満州沿岸部の広大な領土で、ロシアは不凍港を手に入れた。
そこには、あの「ナマコの崖」の小さな港町も含まれていた。
ロシアは「ナマコの崖」の港町をウラジオストクと命名した。
ついにウラジオストクを手に入れたのだ。
1878年ニコラエフスクから太平洋艦隊が移駐してきた。
これが後のウラジオストク巡洋艦隊の始まりであった。
これにより、清国は日本海への出口を失ってしまった。
日本「ヤバいぞ、この位置は・・・・・・」
ウラジ(vlade)は領地、ボストク(vostok)は東方の意味だ。
ナマコの崖はかわいらしかったが東方の領地はまんまであった。
日本「ここで止まる訳がないぞ」
すでにロシアはシベリア鉄道を全長2万5715kmと算出していた。
総工事費は2360万ルーブルと見積もっている。
資本金はフランスの資本家が共同出資することになっていた。
フランスの外交戦略は、ロシアを強めて、ドイツを弱らせるだ。
日本「満州に鉄道敷設権を求めて来るだろう・・・・・・」
清国はその時どう対処するのだろうか。
伊藤博文は暗澹たる思いだった。
「西欧にはおとぎ話があってだな・・・・・・」
あるところに人間と馬とオオカミが住んでいた。
人間と馬は、オオカミが牧場を荒らすので困っていた。
ある時、馬が切り出してこう言った。
馬「人間さん、協力してオオカミをやっつけましょう」
人「いいよ、背中に乗るから鞍を付けさせてくれ」
こうして馬と人間はオオカミをやっつける事ができた。
馬「ありがとう人間さん、オオカミをやっつける事ができました」
「もう鞍を外してください、必要ありませんから」
人「なにをいうか、この駄馬め」
こういうと「くつわ」まで付けてしまった。
井上馨外相「幼児の頃から外交交渉かよ」
山縣有朋内相「そら、勝てませんわ」
大隈重信大蔵相「今の清国はちょうどそんな感じか」
「くつわ」どころか拍車まで付けられてしまった清国。
日本は南下するロシアと近々一戦交える事になるのだろうか。
次回は1883年海底ケーブルです。