1877年トルコと桂小五郎000
ブルガリアは吉田松陰のおかげで事なきを得た。だが相手側のオスマントルコの方も放っておくワケにはいかない。「ヨーロッパの瀕死の病人」と言われたトルコ。スルタン制度の限界から国家存亡の危機に直面していたのだ。桂小五郎は宰相ミドハトと接触し立憲君主国への道を探る。
19世紀後半、トルコ最後のスルタンが即位する。
アブデュル=ハミト2世である。
欧米の近代化と民主化の波は、オスマン帝国にも及んでいた。
その荒波に抵抗するために立憲君主国になろうとする。
スルタンの伝統的支配は残し、議会制に移行する試みだ。
1876年宰相ミドハト=パシャとともにミドハト憲法を発効する。
上院と下院の設立、5万人に1人の庶民議員の選抜などが主な要項である。
これには一人の日本人の尽力があった。
桂小五郎がミドハト=パシャ宰相の助言役だったのだ。
「ヨーロッパの瀕死の病人」と言われたトルコ。
国力は疲弊し、軍備の刷新もままならない逼迫した状態だ。
国民や植民地から血税を絞り上げる政策は悪手だった。
経済は収縮し、国家破産の危機も既に見えていた。
農業では連綿と続く大地主の制度も、農政改革のネックだった。
だが荒れ果てた大地を開墾し疎水開削が出来るのは大地主だけだ。
実際飢饉で飢えるのは生産効率の悪い中小規模農家なのだった。
効率的で安定的な大規模農業経営は、トルコの風土に合っていた。
桂小五郎はその為、積極的に農業自由化に手を付けなかった。
旧態依然とした貿易のシステムにメスを入れる事にした。
西欧は「カピチュレーション」という不平等条約を結んでいた。
イギリスはこれで大儲けし海洋国家の基礎を築いたという。
フランス、オランダも次々にカピチュレーションを締結した。
外人の特権的通商を認め、トルコでの治外法権も含まれていた。
だがこれは16世紀からの保護主義的な考えであった。
その後英国は自由貿易主義に転向し、全世界への膨張政策をとる。
これらの法は1825年に廃止になっていた。
自由貿易によって英国は生産国から利益をドクドクと吸い上げる。
後進国は輸出で原料を吸い取られ、輸入で製品を売りつけられる。
その輸入品は信じられないほど高額だった。
貿易赤字が増え、国家が破産してしまう。
自分たちで原料から製品を作らねばならない。
それを輸出に回せば、利益になって還元される。
原料輸出国になってはならないのだ。
要は輸入より輸出が勝れば、経済は生き返り、治安は安定する。
加えて欧米が迫る自由貿易を上回る流通とインフラの整備だ。
渋っていた国内市場の開放と貿易港の開港を積極的に行う。
鉄道敷設、道路整備などインフラも積極的に行う。
諸外国のトルコ商館を撤廃して自由貿易を推奨した。
西欧「誰だよ、トルコ商館の撤廃を教えたの?」
西欧「取引や交渉で、商談が平等になっちゃうじゃないか?」
欧米も自由貿易を奨励した以上、平等に条約を結ぶ事になった。
パシャ「英国が協力的なのはなぜだろう」
桂「自由貿易とはそういうものなのです」
トルコは世界の巨大工場となる事を選んだ。
トルコ綿は有名だが、機械化が遅れて、有益な成果が出せないでいた。
パシャ「だが機械を国産で作るほど基礎技術はないぞ」
桂「なら機械自体を輸入して、模造の機械をお作りなさい」
日本から臥雲辰致のガラ紡(紡績機)を輸入し、大いに普及させた。
これは最新の西洋紡績機に比べ、構造が簡単で建設費用が少なかった。
トルコ綿をニットや布帛製衣料品にして西欧に輸出した。
それを自由貿易で、西欧に安価で売りさばいた。
この頃から桂は病弱ゆえ、時々倒れるようになった。
桂「す、すまぬ、頭痛持ちでな・・・・・・」
パシャ「働き過ぎだし、お酒も飲み過ぎです、養生して下さい」
桂「す、すまぬ、ここで倒れるわけにはいかん」
ロシアがこの自由貿易を早速聞きつけてきた。
ロシア「タンジマート(近代化策)に失敗したうつけが偉そうに」
ロシアが難癖をつけようと乗り出してきたのだ。
トルコの産業改革の出鼻をくじくのだ。
ロシア「敵国のアパレルなんぞ誰が買うか」
トルコ「ストール280円ですよ」
当時ストールは20000~60000円のシロモノだ。
トルコは羊毛もとても安いのだ。
ロシア「えっ、こんな値段でストールを?」
トルコ「千枚買うと一枚250円にしときます」
くやしいのでフランス経由で200万枚買った。
奇妙な事にロシアの徴兵可能人数と同数である。
トルコ「寒い所にお出かけですか?シベリアとか」
ロシア「ぬっ!し知らぬわ!」
フランスはコレに気付くと仲介料を上乗せした。
ロシア「ぐぬぬ・・・・・・」
こういった海外からの莫大な注文も楽々こなすトルコ。
ガラ紡による大量生産が手工業の糸車を金の卵に変えたのだ。
コットン(Koton)、デファクト(Defacto)、エルシーワイキキ(LCW)。
後のアパレル三大メーカーの源流はここにある。
戦々恐々だったのはトルコ内の西欧企業や商社である。
今まで好きなように暴利を貪っていたが、もうそれは出来ないのだ。
次回は1877年トルコと桂小五郎001です。