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日露大戦  作者: 登録情報はありません
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1877年露土戦争と吉田松陰

1877年露土戦争が遠因で、ロシアは西欧での南進をあきらめ、極東での南進に切り替えたと言われています。地中海への南進を妨げたい西欧諸国が反対するからです。ここでのカギはブルガリア義勇軍でした。彼らがロシア軍に加勢するか否かが、露土戦争のカギだったのです。

ロシア極東進出の遠因となった露土戦争(1877-1878)。


1877年シプカ峠の戦いは引き分けに終わった。

第一次から第四次まで激戦が続いたが、決着は付かなかった。


日本人がまず遠因であるブルガリア人の四月蜂起の仲裁に入った。

1854年黒船密航で欧州に渡った、かの吉田松陰らである。


英国はなんとしてでもロシアが南進し地中海へ出るのを止めたい。

スエズ運河の筆頭株主であり、エジプト保護国化を狙う英国。


ジブラルタル、マルタ島などは既に英国領である。

地中海に帝政ロシアが出てきてもらっては困るのだ。


その為にはバルカン半島に政治介入しなければならない。

だが英国人が介入するのは余りにも露骨すぎた。


吉田松陰「わたしがやりましょう!」


話を聞いた吉田松陰は仲介役を買って出た。

吉田「日本人の論客なら、警戒心も薄くなる」


桂小五郎もその意見に賛成した。

桂「では私はトルコに行きましょう」


密留学でUCLで学んでいた彼らが活躍する時が来た。

英国としては「渡りに船」とはこの事だった。


第15代ダービー伯爵「よろしく頼むぞ」

英国人として珍しく海外膨張に反対派だったダービー。


彼は首相の息子であり、外務大臣であった。

吉田松陰らはいわば「お墨付き」を得たのだ。


1876年ブルガリア人の四月蜂起が起こる。

首謀者はゲオルギ・ベンコフスキー、革命家だ。


だが彼は日本で保護されていた。

当時、彼はブルガリア人革命家としてマークされていた。


そのため偽名を使って、渡航を繰り返していたのだ。

フランスのパスポートで日本に入国、日本のパスポートでトルコ入り。


こういう計画だったが、吉田松陰は英国からの通報でこの動きを察知。

日本の山口尚芳(やまぐつまさか)外務少輔に通報、彼を港で捕縛した。


彼は最初は偽名で通そうとしていた。

ベンコフスキー「ワタシハ、エラーギントイイマス」


山口「君をオスマン帝国から保護する、ベンコフスキー」

彼は一瞬ビクッとなったがすぐしんなりとしてしまった。


密告+通報+待ち伏せ=逮捕、全てを悟ってしまった。

彼はおとなしく山口らに連れられて、幽閉先に向かった。


彼が幽閉されたのは松山の雲祥寺、後の露軍捕虜収容所であった。

トルコ革命委員会では逃避行中に行方不明と大騒ぎになってしまった。


吉田松陰の暗躍は続く。

パナヨヴォロフ「なに?日本人の吉田松陰?」


日本人が珍しいのか、何の咎めもない。

通された洋館の居間には殺気がない。


だが壁一枚向こうには銃を持った者が待機していた。

洋館の居間は抜き差しならぬ「死地」であった。


吉田<覚悟なきところに真意の披瀝なし!>

そ知らぬふりの鉄面皮(てつめんぴ)で通した。


吉田「貴方を説得しに来ました」


豪奢な事務机の向こうに、ゆったり座る新議長。

革命委員会の議長たるパナヨヴォロフだ。


パナヨヴォロフ「論客か、掛かってきなさい」


彼は理を説くと説得に応じる悪癖があった。

かつて議長の座をベンコフスキーと論戦で激しく争った。


だが論戦の顛末の結果、理を説かれ納得してしまった。

革命委員会でもそれゆえにベンコフスキーに席を譲ったのだった。


吉田は独仏英の勢力の均衡、露土の対立について説いた。

その説得は理路整然として論破の隙を感じさせないものだった。


パナヨヴォロフ「さすが論客だ」


パナヨヴォロフは吉田松陰の説得に応じ、とうとう折れたのだった。

四月蜂起は小規模な小競り合いとなり、トルコ軍の蛮行は起きなかった。


ここで市民4万人の大虐殺が起こるハズだった。

ここでブルガリア人が決起する筈だったのだ。


吉田松陰の政治工作により、大虐殺(四月蜂起)は起きなかった。


日本がブルガリアに対し、さらに政治的接触を続けていた。

ブルガリアはトルコによる屈従的支配を覆そうと悪戦苦闘していた。。


そのためロシアの援助という悪手でトルコ支配を覆そうとしていた。


ブルガリア義勇軍「パナヨヴォロフが屈しても我々は革命する」

「革命は暴力無しには成し得ない」


吉田松陰「西洋人にも大和魂の志士がおったか」

「実直なのは結構だ」


ブルガリア義勇軍は続けた。

「我々が全滅しても歴史は我々の正義を証明してくれる」


吉田松陰「歴史をどうこう言うなら待てる筈だ」

「それなら英仏独の干渉を待ってもよかろう」


「ロシアが地中海に侵攻しようとすれば、必ず干渉するから」


この説得が功を制し、シプカ峠の戦いでブルガリア義勇軍は消沈した。

ロシア軍だけではトルコ軍を制する事はできなかった。


ブルガリア義勇軍の奮闘に頼ろうとしたのもまずかった。

戦闘は引き分けに終わってしまったのだ。


ロシアは地中海への通路確保に失敗した。

英国はロシア勢力圏の地中海拡大に猛烈に反対していた。


地中海沿岸の、特に北アフリカの植民地は覇権が決まっている。

空白は無く、ロシアが来れば既得権の奪い合いになろう。


それは新たなる戦争を意味していた。

徴兵総動員数200万の帝政ロシアとは誰も戦いたくなかった。


欧州勢はそのロシアと様々な裏取引をしていた。

そのために反対も賛成も、公には躊躇していたのだ。


オーストリア・ハンガリー帝国はロシアとの秘密条約を締結していた。

フランツ・ヨーゼフ1世「私は断固として自国の主張をだな・・・・・・」


ドイツのビスマルク宰相「まあまあここは穏便に平和的に生きましょう」

公正な仲介役を買って出たビスマルクはベルリンで会議を開いた。


だがここで決まったのはロシアの南進を阻止する方針だった。

結局ロシアは地中海沿岸の領土取得に失敗した。


南進するロシアの勢いは削がれた。

次回は1877年トルコと桂小五郎000です。

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[気になる点] 吉田松蔭は密出国して20数年何していたんでしょう?
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