1872年苦力の歴史
苦力がシベリア鉄道に動員されて鉄路敷設に貢献しました。その数およそ10万人。ロシアだけでは無く、アメリカも盛んに苦力を輸入しました。ちょうど南北戦争後、奴隷制度が廃止になり、人手不足になっていたからです。
もともとは英国人がインド人労働者を「クーリー」と呼び使役していた。
1938年頃、英国はアフリカ植民地で多くのクーリーを使役していた。
1842年アヘン戦争は南京条約締結により終戦を迎えた。
日本は江戸末期の幕末にあたり黒船来航の10年前に当たる。
その頃から中国人労働者「苦力」の動きが加速した。
1842年のアヘン戦争終戦後、その動きは中国版「苦役」に移っていく。
最初は希望者を募る中国人ブローカー(客頭)がいて労働者を集めていた。
すぐに足りなくなり、半ば強制的に労働者狩りを行うようになった。
適齢者が全くいなくなると、今度は子供を誘拐し始めた。
中国は英国と南京条約を、米と望厦条約を結び立場が弱かった。
列強国のブローカーは誘拐、姦計と手段を選ばず、苦力をかき集めた。
真意をただされると、公然と清国との均等で自由な通商を謳った。
米国への旅費を借金までして、奉公に出した自由移民だ。
自由意志で奉公し、契約期間を過ぎれば、自由になる契約移民だ。
ラッセル、オリファント、オーガスチン、ウェットモーア商会etc。
商社が平然とキューバやラテンアメリカへ苦力を「輸出」していた。
アメリカは苦力貿易を禁止していた為、第三国経由なのだ。
粗末な食事と虐待、監禁は黒人奴隷の代換えの如くであった。
その死亡率は15~45%にも上ったという。
1861年米国で、内戦(南北戦争)が勃発した。
奴隷制度は廃止となり、人手不足が米国を襲った。
この新しい使役奴隷「苦役」に飛びつかないワケがなかった。
黒人が働いていた現場に中国人が入れ替わっただけであった。
おりしもカリフォルニアでは金鉱が発見されGold Rushが始まっていた。
一攫千金を狙う採掘者が殺到して、使役奴隷の苦力が活躍した。
地表に露出した金鉱はあっという間に取り尽くされ枯渇した。
ゴールドラッシュはすぐに収束したのだった。
厄介払いの苦力はさらに苛烈な労働現場に送りこまれてしまった。
それは、アメリカ大陸横断鉄道敷設工事現場であった。
難所シエラネバダ山脈の冬のトンネル工事。
夏の焼け付くようなユタの砂漠の敷設工事。
ついに世界的批判の嵐に、英国は1855年クーリー貿易を禁止。
米国も1862年にクーリー貿易関与を禁止した。
だが南米ペルーでは非合法ながら、クーリー貿易が続いていた。
1872年日本でその事実は露呈する事となった。
1872年横浜に寄港したペルー船籍の運搬船から苦力が逃げ出したのだ。
たまたま横浜港に停泊していた英国軍船がこの清国人を救助した。
これは当時の明治政府が初めて直面した国際問題であった。
ペルー側は主張した「日本は芸妓・娼妓を人身売買してるではないか」
「日本に我々を裁く権利は無い」
そこで明治政府は芸娼妓解放令を出して人身売買を停止した。
次にペルーは国際仲裁裁判所に裁判の無効を訴えた。
第三国の仲裁による国際裁判だ。
だが誰も厄介な奴隷問題に関わるのは御免だった。
そこに欧州の列強が名乗りを上げたのだった。
仲裁国はなんとロシア帝国であった。
ロシア皇帝が裁判長を務め、審議した結果、訴状は却下された。
これでやっと230人の清国人は故郷に帰国する事が出来た。
だがどんな政治的判断にも裏がある。
ロシアは正義と法律の下に鉄槌をくだした訳ではない。
ロシアは後のシベリア鉄道建設の為に多くのの苦力を必要としていた。
その労働力はおおよそ10万人余りである。
そしてロシアは米国横断鉄道に苦力を動員した事を知っていた。
その労働力はおおよそ2万人余りである。
清国に恩を売り、進んで建設に労働力を差し出すよう誘導する。
その為には皇帝さえ手段として使うロシア帝国。
その思惑に気付いていた日本だったがどうする事も出来なかった。
ロシアはやがて露清密約により、東支鉄道の敷設権を手にする。
それはシベリア鉄道を満州に引き入れ、日露戦争の遠因ともなった。
次回は1877年露土戦争と吉田松陰です。




