1842年高橋秋帆000
1639年から250年の間、日本は鎖国を続けていた。その間に欧州はアフリカを占領しインド・ベトナムを植民地に下し、中国に迫った。そして1842年アヘン戦争で極東の巨大国家清国は敗北した。日本はその戦禍に戦々恐々であった。日本を守るべき戦備も兵装も遅れていたからだ。
19世紀前半より日本近海に頻繁に外国船が現れるようになった。
日本近海の伊豆・小笠原-カムチャッカが捕鯨の好漁場であった為だ。
捕鯨船の補給、難破時の救助のため、日本開国を外国は迫った。
特にアメリカ捕鯨船は太平洋極東沿岸に補給基地を求めていた。
米国はアジアに植民地が無いことも手伝っていた。
英国やオランダ、スペインに比べて皆無だったのだ。
1835年米大統領が特使を江戸日本に派遣したが失敗している。
1842年(天保13年)。
幕末(明治元年:1868年)まであと26年。
ここは武蔵国岡部藩(埼玉県深谷市)。
ここに一人の男が幽閉されていた。
その名は高島秋帆。
長崎脇荷貿易で讒訴を受け、遠く埼玉の山奥に蟄居を命じられた。
罪状はいわれのない密貿易の廉であった。
彼が勤めた要職は長崎会所の調役頭取という。
海外のあらゆる情報を得られる立場だった。
オランダ語を出島で学び、洋式砲術を熟知した高島。
諸藩は密かに幽閉中の高島に会い、洋式兵学の教えを請うていた。
高橋門下の三龍もまた、密かに先生の下に馳せ参じていた。
三龍とは下曽根信敦、江川英龍、村上範致の三名だ。
幽閉先の東屋は質素だが、異様な雰囲気に包まれている。
床の間には司馬江漢の地球全図(世界地図)が飾られている。
長崎のカピタン部屋を模した居間には椅子と机が並べられていた。
照明は交流発電機を使用したアーク灯による照明であった。
まぶしいので行灯の形の反射照明に仕立てた。
外見は行灯そのものなので、怪しむ者はいなかった。
交流発電機はフランスのヒポライト・ピクシーが1832年に製造した。
そのものではなく実働模造品だった。
動力は水力で、庭の水車から動力を得ていた。
コイルの導線は水車引きで銅棒から作られている。
1832年に大阪の平川製線が製作した。
絶縁被覆は絹の布糸に漆を含浸させたものを使用した。
すでに整流子が取り付けてあり、電流は直流である。
アーク灯は1808年から欧米で電灯として用いられた。
ドイツではガイスラーが水銀灯の研究をしていると聞く。
英国ではジョセフ・スワンが白熱球研究に取り組んでいる。
どうして日本人は何も発明も発見もしないのか?
長崎会所で南蛮人にそう言われた高島秋帆。
そう言われて何も言い返せない自分がいた。
遅れている、日本は周回遅れ・・・・・・。
次回は1842年高橋秋帆001です。