悪魔の諺
うっそうとした森を抜けると古い日本家屋があった。もう何年も使われていないような廃屋だ。なんとか雨風をしのげるといっても、人の気配はなかった。
メアリー・ノリカ・オルグレンは、木々の隙間から漏れてくる光を一身に浴びて、その前に立ち尽くしていた。恐怖心からではない。純粋な好奇心であった。
ノリカは金髪碧眼の美しい留学生である。
日本の文化に興味を持って、とうとう、この地までやってきたのだ。そうまで駆り立てたのは、彼女の体を流れる、四分の一の血のせいかもしれない。
この春から日本の大学に通うため、ここ、犬北町に越してきた。
犬北は古くから狗神様を祀ってきた小さな町で、のどかな景観と静かな環境は、学問にうってつけであるらしい。そう、案内パンフに書いてあった。
その日は、やわらかい日差しに包まれた、うららかな天気だった。
ノリカは、朝から大家に頼んで自転車を貸してもらった。
すでに生活に必要な付近の商業施設は見て回ったが、この町の歴史や土地柄は全く知らなかった。
東西に伸びた町の周囲をぐるりと回るつもりで、こうして出かけたのだった。
正午に差し掛かって、ノリカの腹の虫がグウと鳴いた。そろそろ昼食を取ろうと思って、ちょうどいい場所を探した。
交通量の少ない道路から、小川の横にある小道に進路をとる。田舎の原風景というのか、一面の田畑に視界を遮るものは、ぽつぽつと点在する民家だけで、遠くには緑の山々が雄大に構えている。
晴れやかな陽気の下、こういった人気の少ない道を進むと、ノスタルジックな気分に駆られて、胸がすく気持ちだった。
程よくして、手ごろなところを見つけた。そこは、森のふもとにある小さな神社だった。
遠くからでもよく見える赤い鳥居に目を引かれ、近づいてみれば、敷地内にはひらけた空間があって、ベンチがいくつか置かれていた。
しめ縄が巻かれた大樹のそばのベンチに腰かけ、リュックから、コンビニで買ったパンとオレンジジュースを取り出した。
先客の老夫婦がこちらを見て、なにやら微笑んでいるようだった。
周囲の木々には、爽やかな光がキラキラと反射している。時折、風に撫でられて、ざわざわと揺れていた。
食事を取りながら、スマホのナビアプリを確認する。このペースなら、十六時頃には家に帰れそうだ。
時間にも余裕があるし、少し散策しようと思い立って、石段を登った先にある社に向かった。
本殿にお参りしてから、元来た道を見渡した。ここは小高い丘になっていて、遠くの方まで視界に入ってくる。
ちらほら豆粒のような車が走っていて、さっき寄ったコンビニも微かに見えた。眼前に広がる田畑を前に、なんとも気持ちのいい空間だなあ、と深呼吸する。
異国育ちのノリカにとって、この空間は独特のリラックスで満ちあふれていた。この場所が気に入った彼女は、引き寄せられるようにその先にある林道にも踏み入った。
かすかな陽光が木々の隙間から差し込み、土の地面にまだら模様の影をつけている。
両脇に生い茂った樹林は、向こう側が見えないほど壮大であり、その歴史を感じさせるほど荘厳であった。
慣れない土地ではあるけれど、ノリカの目に入ってくる光景は、想像していた日本の情緒と呼ぶにふさわしいものであり、夢中になってどんどん歩を進めた。
そうして、かなり深いところまで来ると、さすがに調子に乗りすぎたと焦って、そろそろ引き返そうと思った。
ただ、ノリカは見てしまった。林道から外れた、整備されていない木々の奥深くに、なにやら家らしき建物を発見したのだ。
ノリカは活発な女だった。ここまで来たんだからと、枝葉をさけながら目的地まで分け入ってしまった。
その家は近くで見ると、思っていたよりも相当古びていて、人が住んでいる気はしなかった。どんよりした空気を感じたのは、気のせいだろうか。
「Let me see.(さて、どうしようかな)」
もしこの中に不審者でもいたら、たまったものではない。シカゴ近郊の小さな町に住んでいた頃は、おしえられた通り、こういう危ない場所には近寄らなかった。
でも、ここは日本だ。日本の治安はいいと聞いていた。ここは田舎町だし。何かいたら逃げればいいじゃないか、と。
正直にいえば、その家屋に入って探検したいだけだった。
そうと決まれば早かった。立てつけの悪い戸に指をかけて、力をこめる。固くて重い戸は、ぎゅるぎゅると不快な音を立てて、吹きつける風とともにノリカの侵入を許した。
中はまっくらで、数メートル先も見えない。スマホを取り出して、ライトをつける。その時になって、自分の指が黒く汚れていることに気づいて、嫌悪感と一緒に服になすりつけた。
土足で、順番に室内を探索していく。ぎしぎしと軋む廊下と、外の世界と隔絶したような暗闇に恐れはなかった。
昔から、「You have guts.(肝がすわっている)」と、よく言われたものだ。むしろ、幼少の冒険心を思い出して、ほっこりするぐらいだ。
いろんな部屋を見て回ったものの、だいたいの部屋はがらんどうになっていて、カビくさい臭いが充満し、ホコリが舞うだけだった。
しかし、キッチンにはなにやら生活の跡があって、最近まで誰かが住んでいたようだ。
長い廊下の先にある最後の一室は、ふすまが閉まった部屋だった。ボロボロになって、いくつか穴があいている。
その戸を開けて、中に入った。外から、うっすらと光が差し込んでいる。やはり、何もなかった。
ここで最後か、と残念に思って、その部屋から出ようと振り返った時、とっさに照らした先に何かを発見した。
「これは……『耳』?」
なんと、誰も立ち入らぬこんな場所の、古びた黒い木の壁に、『耳』が取り付けてあるのだ。
「プッ! アハッ」
とっさに吹き出す。
「『壁に耳あり、障子に目あり』、日本の有名なことわざね。ナイスジョークよ」
そう感想を述べて、ツボに入ったように笑っていた。
「楽しんでもらえてよかったよ、お嬢さん」
突然の背後からの呼びかけに、それまでの行動がピタリと止まる。
その声は、まがまがしいと言えばいいのか、この世の者とは思えない、なんとも形容できないものだった。
「最近は諺の遊びにハマってるんだ。諺を実際にやってみたら、面白いだろうなって。そう思わないか? えぇ? じゃあ、さっさと振り向けよ」
背後の「それ」は、軽い口調でケタケタ笑っているかと思えば、急に恫喝的で、威圧的な声色になった。
ノリカは、普段ならそんな冗談に怯える女ではなかった。だが、この状況は恐怖を感じさせるのに十分だった。
意を決して、その声のもとに振り向く。
そこにいたのは、ニヤニヤした面を浮かべた、黒い「悪魔」だった。悪魔と言ったのは、それが一番表現できる言葉だと思ったからだ。
どこまでも深く、濁った真っ黒な体に、二本の角を生やした頭の、化け物がそこにはいた。鼻はなく、目はポッカリと空洞のように黒く澄んでいた。大きな口を歪めて、醜く笑っているようだった。
パニックになって、言葉を発することのできないノリカに、悪魔が近寄ってささやく。
「『開いた口が塞がらない』のか? まさに、『Keep your mouth shut and your eyes open.(口は閉じておけ目は開けておけ)』だな」
悪魔は、ご自慢のジョークが決まったように下品な笑みを浮かべている。
「俺の姿が気になるのか? えぇ? 言葉を司る悪魔、とでも言えばわかりやすいか?」
ノリカはうつむいて、ガタガタ震えることしかできない。フーッと、どす黒い瘴気のような吐息が髪を撫でた。
「それでだ、話を戻そう。『耳』は簡単に見つかった。ここに住んでいた、汚い浮浪者のおっさんだ。そして――」
悪魔はノリカの顎を持ち上げて、その美しい顔を覗き込む。
ノリカの脳裏によぎる。あの耳は、玩具ではなく、本物の耳だったのか。彼女の頬には、すでにポロポロと恐怖の涙が流れ落ちていた。
「『目』も、向こうからやってきた! こんなに嬉しいことはあるかい? えぇ?」
悪魔は、ケラケラと愉しげに笑って、そう問いかけてきた。
このままでは、あの障子に私の目が使われてしまうのは明白だ。きっと、殺されて。
悪魔は、おかまいなしにお喋りを続ける。
「あのホームレスを殺したのは、まずかった。『耳』を切り落としたまではいいが、ついつい楽しくなって、胸を一刺し、突き殺してしまった。死んだ魚のような『目』では、使い物になるまい? 生きたまま、くり抜かねばならんと思うのだ。さて」
悪魔は、先ほどと同じように真剣な声色になって、こちらを見据える。
ノリカは、苦し紛れの命乞いをする他なかった。ガチガチと震える顎を制して、なんとか言葉をつむぎ出した。
「わ、わたしは、アメリカ人です。こ、この青い『目』では、に、日本の家には、あ、あ、合わないと、お、思います」
「ふむ、確かに一理ある」
悪魔は、不気味に顔を歪めて、納得しているようだ。
ノリカは畳み掛けるように、他の言い訳も並べていく。自分の命がかかっているだけあって、すらすらと口をついて出る。
「そ、それに、わたしは今月、来日したばかりで、日本のことわざも、あんまり知りません。あ、あと」
「もういい、もういい。わかった。お前から『目』は取らん。どこへでも行くがいい」
悪魔は、あっちに行けと手を振って、ひどくがっかりしたような声で言い放った。
言葉を次々に用意していたノリカは、肩透かしを食らった気分になりながらも、ほっと胸をなでおろす。その時。
突如として、異質ともいえる機械音が鳴り響いた。静寂の空間を切り裂いた。
ノリカは、ごくりと唾を飲み込んだ。その音に脳内をかき回され、気が気でなかった。ジーンズのポケットから感じる振動に、共鳴するように身を震わせる。
「どうした? 早く、出ろよ」
悪魔は、ニタニタとした表情を浮かべて、なにか面白いことはないかと、楽しむように追い打ちをかける。
ノリカは、震える手で、祈るような気持ちで、電話に出るしかなかった。
「もしもし、こちらは、丘北大学事務局です。『メアリー』・ノリカ・オルグレンさんで、よろしいしょうか?」
同時に、悪魔が思い出したように、ケタケタ笑いだした。徐々に声が大きくなって、ゲラゲラと不気味に鳴り響く。
「アヒャヒャ、アヒャヒャヒャヒャヒャ! やはり、『目』は、あったではないか!」
悪魔は、今度こそ逃がさないとノリカを強く――引きちぎるほど強く、抱きしめた。
「そ、そんな、さっきは帰れって」
懇願するように呻くノリカに、悪魔は優しく、諭すようにささやく。
「言ってなかったが、『目』を手に入れる必要はないんだ……」
悪魔は、もう喜びを隠せないのか、ずっとゲラゲラ笑い続けている。
「今回に限っては、『目』でなくてもいいんだ。えぇ? 『メアリー』、お前を潰して、障子にすればいいんだから」
もはや、その声が、ノリカの耳に届くことはなかった。
「……という短編を書いてきたんですが、どうでしょうか?」
その若者は神妙な面持ちで、ソファーに腰かけた壮年の男に書類の束を手渡した。
ソファーの男は、偉そうにぎしぎしと音を立てて、表題のない原稿用紙を受け取ると、パラパラとめくり始めた。
その空間は張り詰めた空気に満ちていて、紙をめくる音と、時計の針の音だけが静かに響いていた。
原稿を渡した男が緊張しながら待っていると、読み終えた男が僅かに怒気をはらんだ声で言う。
「木村さ、お前さぁ。何年、この仕事やってんだ?」
「えーと、二年くらい、ですかね」
木村と呼ばれた青年は、申し訳なさそうに答える。
「才能ねぇんだよ。やめちまえ」
「すいません、編集長。やっぱり、ダメでしたか……?」
「まずさぁ、タイトルぐらい書けよな。あと、悪魔とか、メアリーとかなんだぁ? ただのダジャレじゃねぇか。俺はさ、ホラー持ってこいって言ったんだよね」
「いやぁ、自分では面白いと思ったんスけどねぇ」
木村の前に座る編集長は、その時になって、目の前の異変にようやく気がついた。
原稿に気を取られていたのか、はたまた、目の前の若造なぞ注意を向ける対象ではなかったのか。
「あれぇ? 編集長、ちょっと顔色、悪いですよ?」
木村はニタニタ笑って、そう言った。
しかし、口はぴったり閉じたままだ。
「おい木村ぁ、驚かせんじゃねーよ。腹話術を練習する暇あんなら、もっと小説の勉強しろよ」
冷や汗を垂らしながら、編集長は声を震わせた。
「はぁ、すみません。ただ――」
木村は真顔のまま、目配せするだけで、どこからともなく声を発する。
「『目は口ほどに物を言う』ってあるでしょう? 面白いジョークだと思いません?」
今度はゲラゲラ笑っている。
編集長は、心配するように声をかけた。
「今日のお前、なんだかおかしいぜ? 変なもんでも食ったか?」
「実はですねぇ、その『メアリー』のモデル、僕なんですよ。僕も、古い民家に取材に行きましてね、そこで――」
「まぁ、いい。次の原稿、さっさと書いて持ってこいよ」
編集長は、一刻も早くこの場を去りたいのか、早口で告げて、ソファーから立ち上がった。
「あっ、待ってくださいよ。言い忘れてました。さっきの話のタイトル、実は考えてきたんですよ」
その目は真正面を見据えながら、顔全体は潰れた粘土細工のように歪んでいる。
木村の視線の先、編集長の背後の白い壁には、はっきりと『耳』が生えていた。
「『人の皮をかぶった悪魔』なんて、いかがですか?」