反省文と非リアの血
物語の世界に憧れた。
子供なら誰しもが抱く、ごくありふれた願い。
しかしそんな世界はあるはずもなく、一切の夢を抱かせる余地もなく、幻想など夢に過ぎず、そして現実はどこまでも現実的だった。
子供たちはそんな退屈な世界で現実を知り、常識を知り、ある者は幻滅し、またある者は幻想を捨てられないまま退屈な大人になっていく。
「ぶっ壊れちまえばいいのに…」
夕日の差し込む放課後の教室で、自身の席に座りそべって天井を見つめながら俺はつぶやく。
「…はぁ」
机の上の作文用紙に目を落としてため息をつく。今日は度重なる遅刻にとうとうブチ切れた担任にこってり絞られ、やれクラスの輪を乱すだとかやれ社会に出た際の遅刻の罪の重さだとか聞き飽きたセリフを延々と聞かされ、ようやく解放されるといったときにこの反省文ときた。なにこれどう書けと…?
通常この手の『自身の非を認めこれからの素行を改め真面目に生きることを誓わされる文』といったものは耳触りのいい言葉を文法などあまり気にせずきれいな字で並べていけばすぐに終わるものなのだが…
「なんでそんなもんを三枚も…」
あの教師(担任)のふざけたところはこういった建前上の罰をガチでやらせるところだ。なけなしのボキャブラリィと改行スキルを駆使して埋まった一枚目と未だ埋まる気配のない二枚の作文用紙を見比べる。どう考えても無理ですありがとうございました…
そうして机に突っ伏して意識を手放そうとしたところで教室の扉が開いた。
「あれ?佐藤君まだいたの?」
そういって俺に…佐藤雄一ことこの俺に話しかけてきた切りそろえた前髪とポニーテールが特徴のこの少女は、机に突っ伏す俺に近づくと頭の上からさらに言葉を続ける。
「なるほどー…さては先生から今朝の遅刻で怒られての反省文なんだね?」
「察しが良くてなによりだ。悪いがあの無駄に熱血な指導者にもう二度としないから許してくださいって伝えてきてくれないか…?」
「弱気だなー…そんなに怖かったの?」
こいつの名前は雛森由佳。同じクラスの女子。今日の日直。
見上げると苦笑いを浮かべるそいつと目があった。着崩すことなくしっかりと着られた制服が彼女の真面目さを表しているようだった。だからこんなに不良じみた素行の俺にも優しく声をかけてくれるのだろうか?
「ほら、あとたったの二枚じゃない、がんばれっ」
だからこんなふざけた数(三分の二)もたった、などと形容してくれるのだろうか?やめて、現実逃避しちゃう。たった二枚くらい欠けててもいいよね♪しちゃう。
「悪い…慣れてないせいでうまくいかなくてな…」
「そんな助っ人に呼ばれたものの結果を出せなくて申し訳なく思ってる人みたいに言わないで…というか反省文に慣れるってのもまたすごい言葉だね」
「意地でも素行を改めようとしないぜっていう強い思いを感じるな」
「馬鹿なこと言ってないで反省文書くっ。あとちゃんと反省しなさい」
ああ、と返事を返して反省文の続きに取り掛かる。彼女と話すと少しだけ楽しい気分になった。孤軍奮闘で独りじゃないと知ったかのようだ。心なしかシャーペンを握る手も軽い。これなら反省分の言葉もスラスラ出てきて…
「由佳、まだなのか?」
その時、教室の扉の方から声が聞こえてきた。
「あ、先輩すいません…居残りの生徒がいまして」
「…?」
声の方をみるとそこには長身の男子生徒がいた。ブレザーの色から彼が3年生の先輩であることがわかる。落ち着いた声と眼鏡から、理知的な雰囲気を感じる。
「そう。ならここの戸締りは彼に任せて君はほかの教室をまわってくれ。」
「は、はいっ!」
雛森はわずかに上ずった声で返すと、
「それじゃあね、佐藤君。頑張ってね」
俺にそう言い残して教室から出て行った。残された俺は急いで出て行ったその背中を追うこともできず、反省文に走り出したシャーペンも止まってしまった。
さて、どう続けよう…考えてシャーペンのノックを額に当てていると、またも声をかけられた。
「反省文かい?相当悪いことをしたんだね」
そういって教室に踏み入ってきたのは先ほど雛森を呼び止めた先輩だった。
「…ただの遅刻っすよ」
「ははは、十分悪いなぁ」
笑いながら、俺の席に近づいてきたそいつは書きかけの作文用紙のおかれた机に、唐突にバン、と手を叩きつけた。…あ?
「いやーさっきの由佳とのやりとり見てたよ~?君相当幸せそうだったじゃないか?」
見上げるとニコニコとした笑顔を貼り付けた先輩と目が合う。
「…そっすか」
「うんうん、由佳は確かにかわいい。話しかけられて嬉しいのもわかるよ。でもさぁ…」
そいつはおもむろに叩きつけた手を握り締め、下に敷かれた反省文を音を立てて握りつぶす。
「勘違いしちゃだめだよ?彼女は『僕のもの』なんだから」
あいつはけらけらと笑って握り締めた紙を背後に放り捨て、教室を出て行った。俺は何も言い返せずに、ただ呆然として床に投げ捨てられたそれを見ていた。
「ああ…そうかよ」
握りつぶされた反省文を拾いに行ってまた席に着く。ぐしゃぐしゃにされたそれを机に広げると用紙になにやら赤い汚れが付着していることに気が付いた。手で拭っても汚れは落ちず、むしろ広がったところで初めてそれが拳を握りすぎて皮膚が破けた己の手から漏れていた血だと気付いた。…爪切らなきゃだな。
「ちくしょう…結局一人かよ」
つぶやいた言葉を聞くものはもう誰もいなかった。窓の外では、沈みかけの夕日が夜の闇と混ざり始めていた。
その後、なんとか反省文を終わらせ、教師(無駄に熱血な指導者で夢を追うことの素晴らしさを熱く語る一方で夢は基本的に叶わないものだという一番重要な点には一切触れようとしない痛い奴)にまたしても説教をくらい、帰路に着くころにはもう日は沈み、街灯が目を覚ましだす頃だった。
夜道を煌々と照らす月を見上げてため息をつく。
「……ぶっ壊れちまえばいいのに」
これが現実。不良はどこまでも独りだし話しかけてくれる女の子には年上の彼氏がいる。なんて残酷…なんて…現実的。これがラブコメだったのなら、あそこから恋にも発展しただろう。雛森は正直に言って凄く可愛い。真面目だし、優等生だし、優しいし…しかし、そんな完璧な雛森だからこそ、彼氏がいないはずがない。ここはラブコメなんかじゃなく、まぎれもない現実の世界だった。夢も希望もない、どこまでも追及されたリアル。そんな世界で、不良もどきがまっとうな恋なんてできるはずがない。
「だからもう…ぶっ壊れちまえよ…こんな夢もなにもない現実なんざ…!」
月に向かって血を吐くように呻く。絶対に手の届かない非現実のそれに手を伸ばす。