⑦ 騒がしい朝
明けて4月6日、早朝。
異世界生活2日目を迎えた俺は、早速ながら、ちょっとした事件を起こした。
地平線から太陽が微かに顔を見せ、夜の陰に包まれていた都を紅く照らし始めた頃合いに、俺は深い眠りから目覚めた。
瞼を開けて霞んだ視界の中に見慣れない天蓋とカーテンが映り込み、背中が程よい温もりに浸っていて、夢か現か暫し分からないでいた。
いっそ何も考えられないまま二度寝の幸せを噛み締めてやろうか、とさえ思った。
一度は開けた瞼が自然と閉じようとしたとき、俺の耳に、奇妙な物音が聞こえて眠気が一気に何処かへ飛んだ。
聞き耳を欹ててみると、物音は部屋の中、しかも隣接した洗面台の付近から響いていた。よもや泥棒か、と俺は身構える。
というのも、此処に来るまでの、つまりは日本での生活においては父親が出ていってからずっと一人暮らしをしていたために、当然ながら眠るときも一人で他人が部屋の中に入ってくるという状況自体があり得ぬものだった。
その感覚が骨身に染み付いていた俺は、寝ぼけていた所為もあってか、その時の状況を緊急事態と認識したのである。
しかも、俺は寝起きで何を思ったのか、人の寝込みに忍び込んで盗みを働く不届き者をとっちめてやろう、などと無謀な考えを脳裏に過ぎらせ、物音を立てないようにベッドから這い出て洗面台に向かってすり足で近づいた。
手には暖炉で使う火掻き棒を握り、こそりと洗面台の様子を伺いつつ、俺は火掻き棒を振り上げざまに叫んだ。
「何をしているんだ! そこを動くんじゃない!」
「きゃぁ!」
直後、俺の耳にか弱い少女の悲鳴が聞こえ、更には大量の湯が盛大に床へ溢れる音も飛び込んできた。
何かがおかしいと思ってよくよく見てみれば、なんとしたことか、白い湯気が立ち込める中、バスタブのすぐ隣でずぶ濡れになったバレッドがへたり込んでいるではないか。
直後、俺は自らの手で顔面を叩いた。
この慌て者めと心中で己を叱責する。
すぐさま火掻き棒をそこらへ放り、彼女に駆け寄って支えになってやりながら立ち上がらせた。
「ごめん、俺の勘違いだ。てっきり泥棒でも忍び込んだのではないかと思って……本当にごめん」
「いえ、アキラ様に非は御座いません。勝手に寝室へ立ち入った私が悪いので御座います。どうかお許しを」
ここから暫く、俺が悪い、私が悪い、と奇妙なやり取りが続き、埒が明かないと思った俺は、何故に彼女が俺の部屋にいたのかを尋ねた。
すると彼女は、俺のために朝の湯浴みの支度を進めていたのだと答えた。
成る程、先程の白い湯気はバスタブに溜めるための湯であったのか。
と、納得した俺はずぶ濡れのバレッドに火傷などはしていないかと慌てて問うた。
彼女は「大丈夫です」とにべもなく答え、濡れたままでは仕事に障りがあるので一旦着替えてくると断りを入れて部屋から出ていった。
せっかくの気遣いを台無しにしてしまったと朝から悶々としている間にも、バレッドは驚くべき手際でバスタブに湯を溜めていく。
湯がたっぷりと注がれた桶を持って往復するのは辛かろうから、手伝うと幾度も言ったが、その度に断固とした態度で断られた。
「アキラ様はどうぞお掛けになってお待ち下さい」だとか、「私の仕事で御座いますので」などと、言葉の裏にハッキリと「手出しをするな」とでも聞こえてきそうな威圧感があった。
使用人には使用人のプライドがあるらしく、主人の手を煩わせることは生き恥に等しいのだと、後日、バレッドから教わった。
そんなものだから結局俺はバスタブに湯が溜まるまで指を咥えていることしか出来ず、なんとも情けないやら申し訳ない気持ちになり、こうなったら彼女の努力に報いるべくしっかりと風呂を楽しんでやろうと意気込んで服を脱ごう……と、思いきや。
「では、お体を清めさせて頂きますので、お召し物を御脱がし致しますね?」
「待った! 待った!」
脱衣する洗面台までついてきたかと思ったら突然そのようなことを言い出す彼女に、俺は大仰に両腕を振って制止する。
冗談ではない。
ただでさえ世話になりっぱなしな上に、体まで彼女に洗われたら俺はこの先、色々な意味で自信を無くしてしまうではないか。
第一、男女が同じ風呂に入るなど、はしたないことこの上ない。
いや決して彼女の職務を否定するつもりも無ければ、彼女のことが嫌いなわけでは断じて無いのだ。
しかしながら、当時の俺ときたら、怪訝な顔を浮かべるバレッドに風呂くらい一人で入れると言い張った。
今にして思えば少し勿体なかったかもしれないが、否々、今でも恐らく同じことを彼女に言うだろう。
とにかく俺は自己の職務に関して巨岩の如き意思を貫くバレッドをなんとか説得し、一人で湯浴みに興じることが出来たのだ。
このときのバレッドときたら、そこまでお一人で入りたいのなら部屋からの退出を『命令』してください、とまで言ってのけた。
使用人魂をここに垣間見た俺はボソリと形式だけの退出命令を出すと、彼女は恭しく一礼し、一時間後に朝食を持って来る旨を伝えた後に凄まじい素早さで部屋から出ていった。
こんなに騒がしい朝は俺の人生史上で初のことで、顎まで湯に浸かった俺は漸く落ち着きを取り戻し、白く染まった天井を眺めて静止する。
眠って目が覚めたら、今までのことは全て夢でした、なんてオチを期待していた。
だが幾度湯で顔を洗っても、頬を抓ってみても、元の世界は何処にも無かった。
嗚呼、いっそのこと、前の世界のことなど一切合切記憶から抹消してくれていれば、よほど楽だったに違いない。
それこそ輪廻転生のように。
過去の記憶は時として自分を縛る鎖となって苦しめてくるものだ。
いや覚えていたほうが色々と便利だという者も中にはいるかもしれないが、俺としては、世界を違えて新たな人生を歩むことになるならば綺麗サッパリ忘れ去って生まれ変わりたい。
熱めの湯の中で思念を巡らせていた俺は気づけばすっかり茹で上がってしまい、少しクラクラしながら洗面台を見ると、いつの間にかバレッドが脱ぎ捨てた俺の服を回収し、代わりの真新しい服を籠の中へ畳んで置いてくれていた。
繊維は全く違うものの、ご丁寧なことに、俺が着ていた学生用の黒ズボンと白シャツに似たものを見繕ってくれていた。
そこへ加えて、剣を佩く金具がついた革のベルトや、柔らかな皮のベスト、温かい靴下に履き心地がよいブーツなどもあった。
ベッドのシーツと同じく肌触りも保温性も抜群で、とても身軽で動きやすい。
解れた四肢を動かしながら髪を乾かしているうちに入浴から一時間が経過すると、寸分違わずバレッドが朝食の皿を載せたカートを押して部屋に戻ってきた。
「申し訳ございません。お待たせ致しましたでしょうか?」
「いや、今しがた出たところだよ。とてもいいお湯だった。色々と面倒をかけてしまったけれど、風呂といい服といい、どうもありがとう」
「い、いえ……使用人として、当然のことなので、御礼なんて……」
面と向かって感謝を述べられたことはバレッドにとって不慣れな体験だった。
使用人は雑務や生活面での補佐が仕事であり、そこに感謝や礼を言われるということは彼女にとって想定外のことだったのだろう。
一瞬、彼女は顔を微かに赤らめて、すぐに元の平静な表情に戻った。
「朝食をお持ち致しましたので、お召し上がりください」
カートから皿がテーブルに移され、皿を覆っていた銀の蓋が外されると、焼きたてのパンやオムレツに似た卵料理に、脂身の少ない肉のソテーなどで白い皿が彩られていた。
また別の器にも、瑞々しい野菜サラダやフルーツなどが盛られ、飲み物として新鮮なミルクが金属製のポットからグラスに注がれていく。
俺は一瞬、この肉や卵が一体何の動物のものなのかバレッドに尋ねようかと迷った。
が、動物の名前を聞いたところで一体どんな姿なのか想像も出来無さそうな上に食欲が維持出来るかも怪しかったので、すぐに思いとどまり、フォークを手に取った。
「給仕は必要でしょうか?」
いつもなら当然主人の側で給仕をするところだが、バレッドは彼女なりに気を遣ってくれたのだろう。
俺が首を横に振ると、無言で一礼して退室してくれた。
窓から差し込む朝日に照らされながら、一人ゆったりと朝食を楽しむなど、一体いつ以来だろうか。
学校の登校時間も気にする必要が無くなった、と考えると言い知れぬ開放感も覚える。
宿題も無ければ試験もなく、しかも専属の使用人付きで空気も綺麗。
至れり尽くせりで、これ以上はない。
なんて自分に言い聞かせ、静かな食事で充実した朝のひと時を過ごした。
空を見れば白い綿雲がぽつりぽつりと浮かんでいる快晴で、ミルクのグラスを片手に窓辺に立って都を見れば、朝から忙しく動き回る民草が一望できた。
程なくしてバレッドが食器の片付けのために部屋に戻り、メイスが俺に話があるので彼の部屋まで来るように、とのことだった。
俺にとっても丁度良かった。
俺も彼に聞きたいことは山ほどあったのだから、部屋でゆっくりと疑問をぶつけさせてもらうとしよう。




