⑥ 占い師
二人して立ち上がり、港からメインストリートへ戻ろうとしたとき——。
「アキラさん、あれ……」
キヌアが俺の袖を引き、何かを指差した。
つられてそちらの方へ目を向けて、俺は一瞬呼吸を忘れた。
月明かりの下、港の倉庫が立ち並ぶ暗がりの中に、月よりも真っ白な丸い光がフワフワと浮遊していた。
俺はすぐにキヌアを背後に下がらせてその光を凝視する。
もしや人魂か何かか、と考えが頭を過ぎったが、すぐにその予感が間違いであることに気づく。
耳に足音が聞こえた。
足音はちょうど白い光の方から近づいており、月明かりに照らし出された白い光の正体は、人間の手のひらにすぽりと収まるサイズの水晶玉だった。
そして、水晶玉を持っていたのは、黒いフードを深く被った人物だった。
彼はその身に丈が長く所々が擦り切れた、古めかしい白と黒の模様が混ざったローブとマントを纏い、フードのせいで表情は見えないが、不思議と俺は彼が微笑を浮かべているように思えた。
歩みを止めたとき、ちょうど俺たちと十歩ほどの間合いがあったので、俺はいつでも動ける姿勢を保ったまま彼を睨む。
「何者だ……俺達に、何か用なのか?」
すると彼は垂れていた頭を上げて、夜の静けさを切り裂くように言葉を紡いだ。
「今日は、とても賑やかな夜だったね。異界の旅人さん。ああ、お嬢さん、そう怖がらないで。驚かせるつもりも無かったし、君たちに危害を加えるつもりもない。僕は見ての通り、流浪の占い師だよ?」
彼は敵意が無いことを示すように、両手を大きく広げてみせた。
なるほど怪しげなローブといい、胡散臭い水晶玉といい、俺がイメージする占い師の造形は満たしている。
だがすぐさま、はいそうですか、と信用することが出来るはずもなかった。
「悪いな、俺は占いの類は信じないことにしている。それにこれから帰るところなんだ。それじゃ、失礼する。キヌア、行こう」
相手に有無を言わせぬように捲し立て、キヌアの手を引いてメインストリートへ一気に抜けようとした俺の背に、占い師の言葉が響いた。
「僕は暫くこの都に留まるから、何か困ったことがあればいつでも来ると良いよ。安くしておくからね」
「ああ、今度機会があれば前向きに善処致します!」
日本人固有の「否」を決めてやったところで、俺達はメインストリートの篝火の側まで移動出来た。
気になって背後を振り返ると、既に港の広場には彼の姿はなく、ただ頭の中に彼の妙に透き通った声だけが残響していた。
「何だか、怖い人でしたね?」
「ああいう手合には関わらないのが一番だ。て、もう月が真上じゃないか。とにかく今日はもう休もう。キヌアも気をつけて」
「はい! アキラさんもゆっくり休んでくださいね。おやすみなさい!」
と、互いに手を振って見送り合い、俺は急ぎ足で城の門へ向かった。
すると門の前にはメイスと使用人の少女が俺の帰りを待っており、俺は息を乱れさせながらメイスの前で頭を下げた。
「はぁ、はぁ、遅くなりました」
「いえいえ。こちらも今しがた出てきたところです。察するに、時間も忘れて夢中で楽しまれたようですね? もしや、キヌアさんと逢引だったのですか?」
「え? あ、いや、その……」
恐るべき鋭い勘に狼狽してしまう。
確かに言われてみれば今までキヌアと過ごした時間は、デートと言うに差し支えが無いものだった。
恋愛というものを経験したことが無い俺はそのことについぞ自覚が無かったが、こうして言われてみると急に気恥ずかしくなって顔が赤らむ。
「ふふ、隅に置けない御方だ。思い出も出来たことですし、あとは夢の中へ参りましょう。アキラ殿の寝室への案内は、彼女にお任せください」
メイスは控えていた使用人に礼をさせる。
「お初にお目にかかります。アキラ様のお世話をさせて頂きます、使用人の【バレッド】ともうします」
バレッドは恭しくスカートの端を摘んで挨拶を述べた。
年下だが大人びた落ち着いた雰囲気で、清潔感のあるエプロンドレスに、肩まで伸びたブラウン色の髪は微かに波打っていた。
「こ、こちらこそ、よろしく……」
「おやおや、アキラ殿。早速目移りですか? 『偉大な人物は酒と色を好む』という格言が我が国の辞書にありますが、アキラ殿は酒が苦手な代わりに女性はお得意なご様子で」
「メイスさん!」
思わず声を荒げると、メイスは白々しく足元をふらつかせた。
「おっとっと。ははは、いや失敬。私もつい飲み過ぎて酔ってしまったようです。ではバレッド、頼みましたよ?」
「承知いたしました。アキラ様、こちらへ」
バレッドの先導に従って城内に戻ると、俺に用意された部屋は城の最上階である四階部分にあった。
そこは普段、他国の大使や王族などが宿泊する国賓用の寝室で、部屋の扉が開けられた先に広がる様相に俺は言葉もなかった。
人間が三人は寝転ぶことが出来る程に大きなベッドには、天蓋から垂れ下がったバラ色のカーテンが掛けられている。
更に、時を告げる振り子時計は素人が見ても職人の技巧が伺える装飾が施され、その他の衣装棚やチェストなども至る所に黄金の飾り付けが目立った。
大窓に近づけば眼下に都の夜景が広がるだろう。
隣接した小部屋には大きな鏡と洗面台、小さいがバスタブもあり、彼女たち使用人に申し付ければすぐに水や湯を沸かして持ってきてくれるとのことだった。
人間一人が寝泊まりするにはあまりにも広すぎる規模の部屋に、俺はバレッドに部屋を間違えてはいないか、と質さずにはいられなかった。
「はい、間違い御座いません。こちらがアキラ様の御部屋で御座います。今後はアキラ様専用の私室として、どうぞご自由にお使いくださいませ」
「ご自由にと、言われてもなあ。広すぎて落ち着か無さそうだ」
「不都合な点があれば私に何なりと仰ってくださいませ。私も婦長からアキラ様専属としてお仕えするように言いつけられました」
「え? 専属?」
「はい。なので、今日よりアキラ様が私のご主人様で御座います」
「ごしゅっ……!?」
現代日本ではメイド喫茶でもない限り聞くことが無いであろう呼び方に、俺の背筋に電流が駆け抜けた。
バレッドはごく当たり前の態度だったが、俺はといえば、脳内で彼女の言葉が反響してまともに彼女の顔を見ることもままならなかった。
我ながら未熟だったと思うが、後頭部を掻き毟って咳払いを一つ鳴らし、茶を濁すようにバレッドの肩をそっと掴んで部屋の外へ軽く押しやる。
「と、とにかく、今日はもう寝るから。それと俺のことは様付けで呼ばなくてもいい! 自分で出来ることはやるから、どうぞお構いなく! じゃあおやすみ!」
「あっ、アキラ様……」
多少強引ではあったが部屋の扉を閉めた俺は深く息を吐いて、その場に座り込む。
まったくとんでもないことになってしまった。
ふと扉に耳を当てて外の様子を伺うと、バレッドは暫しその場から動かず、やがて小さな足音が遠ざかっていった。
狼狽のあまりああいう手段に出てしまったことに少しばかり後ろめたさを覚え、明日にでも謝ろうと心に決め、まずは休もうとベッドに背中から飛び込む。
途端、俺の体が吸い込まれるように沈んだ。
あまりの柔らかさに体勢が崩れ、危うくそのままベッドから転がり落ちそうになる。
「おいおい、なんだよこれ……雲の上に寝るって、こういうことを言うのか?」
改めてベッドの中心で仰向けになってみると、背に一切の硬さを感じ無いことに俺は童心さながらに興奮し、同時に、一日の疲れがどっと全身に押し寄せてきた。
肌触り抜群のきめ細やかなシーツに包まれた俺の瞼が重さを増し、揺り籠で安らぐ赤子の如く、俺は小さな寝息と共に夢の門をくぐった。
時に光歴2790年4月5日のことである。