④ 宴の夜
謁見の後、晩餐会の用意が整うまでの間、俺は国王シクルスの私室に招かれた。
勿論武器などを隠し持っていないか最低限の身体検査は受けたが、生憎と武器はおろか財布すら持ち合わせていないので、すぐにパスすることが出来た。
シクルスの私室は玉座の背後にある。
壁を飾るカーテンで隠された通路を抜けた先には、執務机の上に彼の署名を待ち望む書類たちが山を成しており、部屋の壁という壁が本棚となって様々な書物が並べられていた。
シクルスは俺にソファを勧めてくれた。
直後に使用人が甘い香りが立ち昇る温かいお茶と菓子を持ってきて、そそくさと退室していった。
小国らしいというべきか、国王と来客が一つの部屋で二人きりになるというのも、招かれておいて言うのも差し出がましいが少し不用心に思われた。
今までが何の変哲もない学生でしか無かった俺は、いわゆる王侯貴族の前でどのように立ち振る舞えば良いのかも分からず、ただ彼に勧められるままに座り、茶を飲み、菓子を摘んだ。
シクルスは少し疲れた顔に優しい微笑みを浮かべて俺の顔を眺める。
その視線に気がついた俺が顔を上げると、彼は少年らしくはにかんだ。
「アキラは、どんな世界から来たの?」
恐らく彼は頭の中で考えを巡らせるに巡らせて、やっとのことで純粋な疑問を口にしたのであろう。
俺はなんと答えるべきか悩んだ。
世界情勢でも語ればいいのか、それとも日本の風景や文化を語れば良いのか、はたまた自身の周囲の環境を語ればいいのか。
暫し頭の中で言葉を整えた俺は、静々と唇を開く。
「ええとですね、陛下――」
「待って」
唐突にシクルスが声をあげて俺の言葉を遮った。
「敬語は、使わないで欲しいな。アキラはボクの臣ではないし、ボクのことを陛下と呼ぶ必要も無い。ボクは、アキラと、出来ることならば対等の友人になりたいんだ」
彼は生まれた瞬間から王国の後継者として育てられた。
物心ついた時、既に彼は王子として周囲から最敬礼を受け、誰からも頭を下げられ、自分が高貴な身分であることを徹底的に教え込まれてきた。
シクルス自身、亡き父王の背中を見て王の有り様を学んだ。
だが幾ら肩書や身分があろうとも、シクルスとて一人の人間であり遊び盛りの少年であった。
彼は王国と何の関わりもない世界からやってきた俺に対して、恐れもあり、同時に、導き手として己の願いを叶えてくれるのではないかという淡い想いを寄せていた。
なんと健気なことだろうか。
俺はこの純真な少年の願いをとても無視することはできなかった。
見よ、彼の疲れきった顔を、目を。
王という重圧が常に背や肩にのしかかる彼の苦悩が、俺が友人になることで少しでも和らぐというのなら、断る道理などあるはずがない。
故に俺は、たどたどしく、彼の名を呼んだ。
「シクルス……で、いいかな?」
「……うんっ」
シクルスは年相応の喜びを込めて大きく頷いた。
そして、彼は踊るような足取りで俺のすぐ隣に腰を下ろし、甘い菓子を俺に差し出してくれた。
「これ、とっても美味しいよ? うちの使用人が作るお菓子はボクの自慢なんだ」
「ありがとう。いただくよ」
果物のジャムが贅沢に塗り込まれた焼き菓子を齧ってみると、なるほど彼の言う通り香ばしい生地と甘さ控えめのジャムが絶妙な味わいを奏でていた。
その甘さを温かな茶の香りが一層引き立てて、俺は庶民らしい考えだが、こんな美味しいものを食べて暮らせるシクルスのことを少しうらやましいと思ってしまった。
勿論、彼の苦悩の一片を垣間見た俺は口が裂けてもそんな気持ちは言わなかったが。
シクルスは菓子を一つ平らげたところで、先の質問を繰り返す。
「それで、アキラはどんな世界から来たの? どんな街に住んでいたの?」
改めて問われ、俺はあれこれ言い繕うことを止め、ありのままを伝えることに決めた。
幼少期の思い出、小学校に入ってからの六年間や毎日歩いた通学路の風景、中学に入ってからは部活動と受験勉強に励み、高校に入学したとき父が旅に出たこと。
更に日本の歴史、風習などを掻い摘んで語って聞かせた。
そして、とある日に家ごと大火に飲み込まれ、この世界に図らずも訪れたことも。
言葉を紡げば紡ぐほどに、俺にとっては現実味の無いこの世界と、元いた世界との距離があまりにもかけ離れていることが心に冷たく刺さる。
はじめは熱心に耳を傾けていたシクルスもそれを察してか、話が一段落したときを見計らって、俺に問うた。
「帰りたいと思う?」
できるだけシクルスを楽しませるつもりで語ったのだが、どうやら言葉の内に俺の葛藤が混じってしまったようで、彼は心配そうに俺を見上げていた。
「分からない……今はまだ」
なにせ今日この世界の地を踏んだばかりなのだ。
気持ちの整理すら出来ていない俺はそれだけ答えるのが精一杯で、シクルスは初めての友人たる俺の手をその小さな手で握ってくれた。
「大丈夫だよ? ボクがいる限り、この国でアキラに酷い想いをさせたりしない。だってボクたちは友達だもん。それに、この国も、都も、きっとアキラにとって第二の故郷になるとボクは信じている。必要なものがあったら、何でも言って? どんなものでも用意してみせる」
このときのシクルスの真っ直ぐな眼に、俺は終始圧倒された。
言葉遣いこそ少年の其れだったが、一言に込められた風格はまさしく王者の気に満ちている。
俺が返事に詰まっていると、先刻に茶と菓子を持ってきた使用人が恭しく入室し、晩餐会の用意が完了した旨を俺たちに伝えた。
シクルスは俺の手を取って立ち上がる。
「今宵の宴はアキラが主役だ。ささやかだけど、ありったけの趣向を凝らしたから、是非愉しんで欲しい。さあ、ついてきて?」
玉座の間に戻ると、純白のテーブルクロスが掛けられた円卓が幾つも設けられていた。
その上に種々の料理が盛られた大皿が並び、また琥珀色をした酒と思しき液体が詰められた大瓶が無数に用意されていた。
グラスに酒が注がれ、まずシクルスに、次に俺の手に、その場に集った王国の重鎮たち全員に酒が行き渡ると、杯が掲げられる。
「今宵は我が王国、我が世界の歴史に刻まれる偉大な夜となった。光の使者、次元の旅人の来訪を祝し、彼の為、杯を酌み交わそう。創造神ルミエル様の御慈悲に乾杯、光の民の未来に乾杯!」
このとき、俺は生まれて初めて飲酒を経験した。
学生でありし頃は飲酒と喫煙は二十歳から、という決まりを尊守していたのだが、杯まで渡されてシクルスさえも食前酒として口をつけた以上、場の流れもあってか、俺は舐めるように一口含んで飲み下した。
すると、途端に酒が流れた喉や臓腑がカッと熱くなり、頭がくらりと揺れ、同時に熟成された酒の香りがツンと鼻から抜けた。
どうも俺は酒があまり強くないようだ。
ふと隣のシクルスに目を遣ると、彼も少し口をつけただけで、すぐに市場で食べたポルクを絞ったジュースに手を伸ばしていた。
俺も同じものを真新しいグラスに注ぎ直していると、音もなく背後にメイスが近づいてきた。
「どうです? 愉しんで頂けていますか?」
「え、ええ、まあ……」
「料理も見ての通り山ほど用意しておりますので、どうぞ、遠慮なく召し上がれ。お腹も空いたことでしょう? パンは焼き立て、肉は十分に熟成させ、魚も夕方に港へ上がったばかり。これなんてどうです? 白身魚をミルクソースで煮込んだものです。美味しいですよ?」
メイスは器に料理を盛って俺に渡してくれた。
木製のスプーンを手に取って食べてみると、癖のないあっさりとした味が俺の胃袋を刺激して、空腹であることを思い出させる。
途端に食欲が湧き上がり、熱々のパンを千切っては口に放り込み、燻製された肉を咀嚼し、スープで流し込んでいった。
使用人たちも給仕で大忙しだった。
彼女たちは会話の邪魔にならない上手な立ち回りで空いたグラスに酒を注ぎ、大皿の料理が無くなると直ちに第二弾、第三弾と厨房から新たな料理を運んでいた。
綺羅びやかな服を着た貴族たちは確かに目立つが、俺は彼らよりも先ず額に汗をして働く彼女たちにこそ視線を向けずにはいられなかった。
しかし周囲は俺を放っておくことはせず、年配の男爵やら伯爵家の娘やら、高貴な方々が俺をしきりに取り囲んでは質問の嵐を浴びせかけてくるのである。
しかも質問者が入れ替わる旅に毎度毎度同じようなことばかり聞いてくるのだ。
そんなやり取りが体感的に一時間以上も続くと、流石にうんざりさせられた。
空腹も十分に満たされた俺は、いつしか、どうにかしてこの空間から抜け出せないものかと模索するようになっていたのである。
ふと部屋の窓から城下の都を見れば、どうやら都でも祝いの祭りが盛大に開催されているようだ。
メインストリートに幾つも篝火が焚かれ、その炎を囲った人々が歌い、踊り、酔いしれている。
宴を催してくれたシクルスやメイスには悪いが、俺は息苦しさを覚える此処よりもあちらのほうが余程気軽で楽しそうに思えた。
さりとてこの宴の主役が場を抜け出して良いものかどうか。
窓の前で唸る俺の肩を、メイスの手がそっと包む。
「ご気分が優れませんか?」
「慣れない空気に、少し疲れて……」
「それはそれは。無理をなさらず、ご自由に身体を休めてください。陛下や皆には私から伝えておきましょう。それにしても、都でも楽しげな宴が繰り広げられていますねえ。確か今宵は城の門も解放されているので、誰が出入りしても、兵士たちは気にも留めないかもしれません。なにせ彼らも今頃は美酒に酔いしれていることでしょうから。いや、困ったものです」
と、メイスは含みのある言い方で俺の背を軽く叩き、宴の渦中へ戻っていった。
清廉に見せかけて中々に食えない人物だ。
だがせっかくの心遣いを無碍にもしたくなく、少し我儘とは分かりながらも、俺は自分の気持に素直になって、こっそりと宴の会場から抜け出した。