⑪ 寝室にて
ナイトに「おやすみ」と言って一旦別れ、部屋のドアを開けて中に入ると、そこには女将自慢のベッドが二つ並び、あとは荷物を入れるチェストと花瓶が乗った棚があるだけの至ってシンプルな部屋だった。
カバンとリュックをチェストに並べて収め、早速ベッドに座って寝心地を確かめていた頃合いに、小間使いの男が桶に湯を溜めて運んできてくれた。
「失礼致しますだ。旦那、お嬢さん、ご注文の湯で御座いますだ。タオルと一緒にここに置いておきやすんで、どうぞごゆっくり寛いでくだせえ。火傷はしねえ温度だとは思うんですがね、念のためにお気をつけて下さいまし。湯浴みが済みましたら、そこのベルを鳴らしてやっておくんなさいまし。すぐに駆けつけますんで、何なりとお申し付けを」
「ありがとう。助かるよ」
「へへ、どう致しまして……」
小間使いはニコニコと笑いながら手を揉んで、俺の顔を見つめていた。
俺は何かまだ用があるのかと悩んだ末に、もしや駄賃を求めているのではないかと思いいたり、懐の財布から銀貨を一枚取り出して彼に差し出すと、男は何度も頭を下げて受け取りながら部屋から出ていった。
「俺の国ではチップの文化がないから失念していたよ」
「そうなんですね。わたしも、御礼にあげなきゃって思うときもあるんですけど、あんなに露骨にされるとちょっと困っちゃいます」
「ああ、確かに――って!?」
俺は、しまった、と口を固く結んだ。
湯で身体を洗うということは、つまり、服を脱がねばならぬ。
そしてキヌアは、いやこの世界の住人は、人前で裸になることに全く恥じらいを感じない文化であることをすっかり忘れていたのだ。
キヌアは窮屈だったとばかりに上着もスカートもブーツもみるみる脱いで一糸まとわぬ姿になり、タオルを湯に浸して絞り、未成熟で華奢な身体を拭き始めたのである。
俺は緋煉剣の手入れとかこつけて、キヌアの裸体に背を向けた。
人に限らず、およそ肉を切れば少なからず刃には血や脂などが付着するものだが、この剣は刃がよほど熱を帯びていたのか、賊の頭を斬った際についたであろう血も脂もすっかり蒸発していた。
これに耐える鞘を作った都の職人も大したものである。
などと感心している俺の背に、キヌアの声が飛んできた。
「アキラさん、身体洗わないんですか? お湯冷めちゃいますよ?」
「ああ……俺はキヌアの後でいいよ。先に洗っちゃって」
キヌアは少しの間首を傾げ、やがて俺が裸体を恥ずかしがることを思い出したのか、キヌアは口元を両手で押さえて笑い始めた。
程なくしてキヌアが身体を洗い終えると、次は俺が服を脱がねばならなくなった。
しかしキヌアはジッと自分のベッドに座って、俺の一挙一動を観察していた。
こう見つめられると羞恥心を刺激されて誠に脱ぎにくかったのだが、彼女の言うとおり、せっかく用意して貰った湯が冷めてもいけないので、俺は腹をくくって服を脱いだ。
そこで気がついたのだが、桶に溜められた湯は薄い緑色が混じっており、顔を近づけてみると何とも爽やかな香りが湯気と共に俺の鼻に流れ込んできて、胸がスッと清らかになった。
どうやら薬草かなにかを煎じたものらしい。
タオルをつけて絞り、試しに腕から擦っていくと、自分でもビックリするほどに汚れが洗い流されていった。
皮膚の汚れもすっかり落ちて、代わりに薬草の涼しげな香りが四肢から漂い、また髪の毛も潤いを取り戻して滑らかになった。
身体と髪が乾いた頃合いになって、俺はベルを鳴らして小間使いを呼んだ。
すぐに彼は階段を駆け上がってきて、使い終わった桶を両手に抱え、他に何か要望は無いかと尋ねてきた。
俺は飲み物を注文し、キヌアにも視線を向けて何か無いかと聞くと、彼女は、出来れば服も洗ってしまいたいと言った。
確かに、せっかく綺麗になった身体にまた汗と土で汚れた服に袖を通すというのも憚られた。
そこで小間使いに明日の出発までに服を洗って乾かせるかと質問すると、彼はお安い御用と大きく頷いた。
すぐさまより大きな籠が用意され、そこにシャツやらズボンやら下着やらを入れて、後は宿に任せることにした。
その時になると俺も不思議と裸でいることに抵抗が少なくなり、とはいえなるべくベッドのシーツなどで秘部を隠しながら、キヌアと他愛のない雑談に興じていく。
若い男女が同じ部屋で、しかも互いに全裸で過ごすというのは、何とも奇妙な気分だった。
ひょっとしてこんなことをしているのは自分たちだけではないのか。
他の部屋の旅人たちは、何だかんだ言ってきちんと寝間着などを纏っているのではないか。
いやそうであってくれ。
などと期待して部屋の外の廊下を伺ってみると、屈強な男たちも、また旅の巡礼者らしき女性たちも、決まって裸かそれに近しい姿だったのだ。
裸文化は複雑怪奇なり。
大人の女性は思春期であった男子の目には刺激的過ぎたし、逆に男性の筋骨たくましい引き締まった肉体は多少のコンプレックスも感じさせた。
どいつもこいつも古代ギリシアの彫刻を思わせた。
そこまで考えてみると、自分が元いた世界にも似たような文化があったのではないか、ということを悟ってそれ以上考えるのをやめた。
ついでに白状すれば、全くの裸体で柔らかなシーツに包まれるのが、思いの外、心地よかったのだ。
ただ、自衛のためだったとはいえ、一人の人間を殺めたときの感覚は抜けきれなかった。
あれからというもの、眠る度に悪夢に悩まされた。
会話の中でそのことについて少し愚痴ってしまった俺に、キヌアは言った。
「悪い人たちをやっつけたんですから、そんなに苦しまないで下さい。アキラさんは、善いことをしたんですよ? だって、何の罪もない人を殺したり、荷物を盗ったりして平気な人たちなんて、人とはいえません。きっと光を裏切って闇に染まっていたんですよ」
それを聞いて俺は素直に賛同出来なかった。
人は人だ。
光も闇もない。
むしろ両方あるから人なのではないか。
哲学的なことはよく分からなかったが、キヌアの、いや彼女の言うところはルミエル信仰の教えなのだろうが、とにかく俺の腹にストンと落ちなかったのである。
夜が更けると食堂での喧騒も打って変わって静まり返り、俺はベッドに仰向けになって、天井で揺れるランプを見つめていた。
様々な事柄が浮かんでは消えた。
具体的に何を考えていたのかまでは思い出せないが、きっと、都の面々だとか、隣の部屋で休んでいるであろう占い師のことなどを気にしていたに違いない。
俺は彼のことが気になってならなかった。
ナイトのことだ。
本当にただの占い師なのだろうか。
賊に囲まれたときも、全く動じる様子も無かった。
旅慣れているという言葉は便利だが、果たして、それだけなのか。
俺の感覚としては、占い師よりも、いっそのこと、魔法使いでも名乗ってくれたほうが納得出来たかもしれない。
彼は必要以上のことを喋ろうとはしなかったし、肝心なところをはぐらかす。
表情からも感情を読み取ることが出来ない。
だがここ数日間の旅路を考えて、少なくとも、彼が敵ではないことは明らかだった。
殺そうと思えばいつでも殺れただろう。素手や剣といったものではなく、ミオを蝕んでいた闇の力によって。
勿論、彼が敵の間者だとか、冥王の召使だなんて信じているわけではない。
少なくとも彼は善人のように思えた。
そこで俺は、仲間のことを疑う自分が愚かしくなって、顔を枕に埋めた。




