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⑩ 唄う小鳥亭

 ナイトの導きのお陰で、ヴァルドゥングの古森を抜けたのは4日後の夕方だった。

 暗く湿った森で三日三晩過ごした俺達は、温かく眩しい夕刻の太陽の有り難さを噛み締めた。

 特に前の日は雨が降り、頭上の木々の間から冷たい雨粒が落ちてくるものだから、俺達はそれぞれの外套マントを頭に被って歩いた。

 そこで分かったのだが、バレッドのマントの毛皮には水をはじく油が塗り込まれていたようで、マントに落ちた雨は悉く丸い粒となって弾かれていた。

 故に雨天でも俺の身体はほとんど濡れることはなく、これは気合を入れて彼女に良い土産を用意せねばなるまい、と彼女への感謝を募らせた。


 森から出てすぐに、俺達は偶然にも出くわした商人の一団から、よくも無事に出てきたものだ、と驚かれた。

 これから森に入ろうとしている彼らに自分たちが通ってきた道のりを軽く伝え、彼らが何事もなく反対側に出られることを祈りながら周囲を見渡してみると、森の入口と同じような小さな宿屋が道の脇に佇んでいた。

 森の中で散々に疲れ、身体が汚れた旅人にとって、そこはオアシスにほかならない。

 キヌアは無言で俺の袖を引いていた。

 俺を見つめる視線が、あの宿で身体を洗いたい、と物語っていた。

 全く同感だった。

 女子だろうが男子だろうが、あの湿気と泥と苔の中を三日三晩も歩いていたら、熱い湯に頭から飛び込みたくもなる。

 路銀の倹約も大切だが、使うべき時には使うべきだ。

 しかも間もなく日が暮れる。

 宿を目の前にして野宿などする気にもならない。

 ナイトも、まだまだ先は長く、しかも暫く宿も無いはずだから、身体を休めておくのも悪くないと賛同してくれた。


 ならば善は急げとばかりに、俺たちは急ぎ足で宿の前まで進み、扉を押し開けた。

 真っ先に五感に訴えかけてきたのは、旅人たちが屯する食堂や談話室から漂ってくる、パイプ煙草の甘い紫煙しえんの香りだった。

 葉っぱの種類が違うのか、俺の世界では燃焼剤独特の不快な臭気を放っていた市販のタバコとはまるで違う、さながら部屋で焚いても良いお香のような匂いだった。


 暖炉では火が燃え盛り、天井からランプが吊るされ、幾つもの円卓が並べられた食卓には、旅人の飢えと渇きを癒やすパンや肉、チーズに瑞々しいサラダがそれぞれ大皿に盛られ、そして種々の酒類がグラスに満たされていた。

 カウンターには白いエプロンを着た宿屋の女将らしき中年の女性が場を取り仕切っており、宿に入ったばかりの俺達を見つけるや、ニコリと笑って駆け寄ってきた。


「いらっしゃい、お若い旅人さんたち! 【唄う小鳥亭】へようこそ! 本日はご宿泊? それともお食事? うちのベッドは羽毛たっぷりのフカフカで、しかも朝食もついてるからお得だよ? 昼食と夕食は少し頂くけれど、ご覧の通り、新鮮な食材でおもてなしさせて頂くからね。さあさ、上がって上がって。飲み物を用意するからね」


 女将は俺たちをカウンター席に座らせ、井戸から汲んだばかりの冷たい水を出してくれた。


「あなた達、森を抜けて来たんでしょう?」


 なぜわかったのかは考えるまでもなかった。

 そりゃ服のあちこちに汚れと苔の緑がついていれば、誰でも分かる。

 ともすれば宿に泊まりたいというこちらの考えもすぐに見抜いたようで、女将は幸いにもちょうどベッドが三つ空いていると教えてくれた。

 ただし……。


「悪いけれどね、うちは一部屋につきベッドが二つなんだ。つまり、三人なら一人は別の部屋で寝ることになっちゃうんだけど、それでもいいかい?」


 俺たちは即座に頷いた。ベッドが埋まる前に確保しておきたかったし、部屋割りは後から考えればいい。

 それより食卓から聞こえてくる食事の音や料理の匂いに辛抱堪らず、女将に夕食を三人分注文した。

 ついでに、汚れた身体も洗いたいので、後で部屋に湯を持ってきて欲しいとも頼んだ。

 女将は快くうなずき、それまで気づかなかったのだが、カウンターの奥で芋の皮を剥いている小間使いの男の尻を軽く蹴って湯を沸かすように言いつけていた。

 都のミーテとはまた違うタイプの女傑のようだ。


 だが、旅人の中には荒くれも多い。

 特に金で雇われた傭兵などは喧嘩っ早い連中も多く、そんな者たちが宿泊する場所を仕切るには、女といえども凄みを利かせる必要があった。

 大の男たちが必要以上に大声を出したり乱痴気さわぎを起こさないのは、ひとえに女将の眼光が抑止力になっているように感じられた。

 料理の途中で肉切り包丁を肩に担いで厨房から出てきたときは場が静まり返ったものだ。


 俺達はカウンターから円卓に移り、夕食として、大麦パンや鳥肉とキノコのシチュー、川魚の燻製くんせい、あるいは蒸したイモなどを味わった。

 キヌアは付け合せとして魚に添えられていたクモーネに歓喜し、その強烈な酸味をさも美味そうに吸っていた。

 俺は見ているだけで唾液が溢れそうだったのでナイトの様子を伺うと、彼はパンを小さく千切ってはシチューに一度浸して口に運んでいた。

 また、彼は赤い葡萄酒ワインも嗜んでいた。


 部屋割りについて相談したのは食後にお茶を飲んでいたときで、俺としては、やはり男女で別れるべきだと考えていた。

 俺とナイトが同じ部屋で、キヌアを別部屋にしてはどうか。

 そう提案したとき、ナイトが待ったをかけた。


 曰く、女の子を一人別の部屋にするのはむしろ危うい。

 ここは戦う術を持っている俺とキヌアを同じ部屋にして、自分ナイトが別部屋で眠ったほうが賢明だ、との意見だった。


 成る程。一理ある。

 と、当初は納得したのだが、果たして男と女が同じ部屋で眠るのも如何なものか。

 そこでキヌアにも意見を求めてみると、彼女は特に迷うこともなく、俺と同じ部屋で良いと言った。

 それで部屋割りは落着し、満腹になると旅の疲れも相まって眠気に襲われ、俺達は女将から部屋の鍵を受け取って階段を上がった。

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