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① 白銀の巫女

 閉ざされていた闇の中に意識が戻り、先ず感じたのは、呼吸の度に肺へ流れ込んでくる冷たく新鮮な空気だった。

 半ば無意識のうちに俺は自らの胸に手をわせ、心臓の鼓動があるかどうかを確かめる。

 喜ばしいことに、俺は存命だった。

 何度も何度も深く呼吸を繰り返すと、まざまざと生きている実感が全身に豁然かつぜんと湧き上がる。

 同時に、背中に痛みも覚えた。

 何故なら俺が身を横たえている場所は、温もりも何もあったものではない石床の上だったからだ。

 決して寝心地が良いものではなく、しかしながら痛いということはそれもまた生きている証拠でもあったので、俺はゆっくりと閉じていた寝ぼけ眼を開けて辺りを見渡す。


 どうやら此処は神殿か何かの礼拝堂のようだ。

 木製の長椅子が一定の間隔を開けて整然と並べられ、部屋の中央に敷かれたレッドカーペットの先に、荘厳そうごんな造りの祭壇が設けられていた。

 無数の燭台しょくだいに小さな火が灯り、視線を上方へ向かわせていけば、六対の白翼を広げた純白の女神像が両手を広げ、参拝した者たちに慈悲じひ深い微笑みを振りまいている。


 肝心の俺はといえば、その祭壇の脇にいた。

 あの光の中で垣間見たのは、祭壇の女神様なのだろうか。

 だとすると、せめてあの絨毯じゅうたんの上に寝かせて貰いたかった。

 であれば背の痛みも幾分かマシだったろうに、などと生存確認の深呼吸はいつしか落胆の溜息に変わっており、俺は一先ず起き上がろうと妙に気だるい身体に活を入れ、勢いをつけて上体を起こす。

 が、背に重りをつけているように思うように動かず、なんとか腕で身体を支えて胡座あぐらをかき、にじみ出した額の脂汗を左手の甲で拭う。


 そこで俺は左手の異変に気づいた。

 手のひらに奇妙なあざが出来ている。

 いや、痣というよりは刺青いれずみのように模様が彫り込まれているようだった。

 一見すると波打つ線が根本から幾重にも枝分かれしているようだが、よくよく全体を見てみれば、やがて模様の正体が燃え盛る炎であることがわかる。

 すぐに右手の指でなぞってみるも、別段痛くも痒くもなく、さながら、完全に手の一部であるかのように何の違和感も無かった。

 気味が悪かったが、それはそれとして、俺の脳裏に目下のところ最大の疑問がちらついた。


 果たして此処は一体何処なのか……。


 生きているということはあの世ではない。

 かといって、俺が知る世界なのだろうか。

 少なくとも俺が住んでいた地域にこのように大きな神殿があることなど無いし、決して宗教に詳しいわけではないが、白翼の女神を祀るというのも聞いたことがない。

 石床に座ったままなのも辛いので、俺は手近の長椅子に腰を落ち着けた。

 考えてはみるも、答えなど俺の頭に浮かんでくるわけもなく、ただ時間だけが虚しく過ぎていくことに苛立ちを覚え始めたときのことである。


 神殿の入口たる大きな扉が外から開かれた。

 どきりと俺の胸が一瞬跳ねる。

 ちょうど扉は俺の背後にあり、近づきつつある足音を、俺は背中越しに聞いていた。

 きしみ音が鳴りそうなほどぎこちなく首を回して背後を伺うと、ちょうど俺のすぐ目の前で足音が止まった。


 そして俺と彼女・・の視線が交差する。


 其れは凍てつく氷のようであり、あるいは心臓を貫く矢のようであり、無機質で無表情で無慈悲な彼女の眼光に、俺はすっかり蛇ににらまれた蛙のように固まってしまった。

 しかし、それ以上に、彼女のあまりに清麗とした造形に俺は心を奪われる。

 幼さが残る顔も目鼻もおよそ万人が美人と呼ぶに申し分なく、また彼女の瞳は闇夜に輝く月のような金色であった。出来の良い人形が動いているように錯覚させる程だった。


 彼女を一言で表すならば、専ら白銀の二文字に尽きる。

 雪のような肌はもとより、踵まで伸びた滑らかな銀色の髪は真紅のリボンによって結われ、彼女の華奢きゃしゃな四肢にまとう装束も純白で、腰に巻かれた帯は紅く、背で蝶結びとなっていた。

 細い首には獣の爪のように加工された宝玉の装飾品ネックレスがかけられて、その時の俺は漠然と、彼女はこの神殿に務める巫女か何かであろうと察した。

 暫し互いに見つめ合い、何か言わなければと焦る俺に先んじて、彼女の薄桃色の唇が開く。


「まだ礼拝の時間ではないわ。掃除の邪魔だから、出ていきなさい」


 人に有無を言わさない刺々しく冷たい言葉を彼女は浴びせてきた。

 俺はこのとき、どうしたの? だとか、どなたですか? などといった、多少なりとも慈悲のある言葉が出てくるものと勝手な甘い期待を抱いていた。

 しかし彼女は俺に出て行けと言ったきりこちらを振り向きもせず、そそくさと祭壇の脇にある扉の奥からほうきなどの掃除道具を取り出して、まるで、俺など既にいないものと扱っているように無言で床を掃き始めたのである。


 俺は出しかけていた挨拶あいさつだとか質問だとかがのどの奥へ滑り落ち、只々彼女のしなやかな仕草を見つめるよりほかに術が無かったが、やがて段々と居ても立ってもいられなくなり、身体の気だるさも忘れて歩み寄る。


「ちょっと待ってくれよ!」


 俺が少し声を大きくして彼女の小柄な背を呼び止めると、背中越しに顔を向け、左目でにらんでくる。


「なによ、まだいたの? 出て行けと言ったはずよ」


「そ、そんな言い方無いじゃないか。信じて貰えないかもしれないけど、俺は此処が何処なのかすら分からないんだ。出て行けって言われても、その、困る」


 その時の俺にはそれ以外に言うべき物を何一つ持ち合わせていなかった。

 同時に、我ながら、妙なことを言っているという自覚もあった。

 いきなり見知らぬ男から、ここはどこ、私は誰、などと言われて、はいそうですか、と納得出来る人間を俺は知らない。

 彼女とて例外ではなく、溜息交じりにこちらを向いて、呆れ顔を浮かべた頭の上で指をクルクルと回してみせる。


「貴方が行くべきなのは、どうやらおりつきの病室のようね?」


「待ってくれ、俺は正気……だと思う」


 我ながら自信なく言った台詞に彼女は冷笑する。


「そう。それは良かったわね。けれど付き合いきれないわ。巫山戯ふざけていないで、さっさと家に帰りなさい」


 彼女の対応は今にして思えば至極真っ当であったのだが、若かった俺はつい拳を震わせて、燻っていた感情を弾けさせてしまう。


「だから! 俺には帰る家が無いんだよ! 変な夢を見たと思ったら身体が炎に焼かれて、光に包まれたと思ったらこんなところだ! 死んだのか生きているのかすら分からない! そんな俺に何処へ行けっていうんだよ!」


 突然俺が叫んだものだから、今まで目を細めていた彼女も少しばかり吃驚したのか、瞬きを繰り返す。

 一方の俺はといえば、しまった、と自分が言った台詞を思い返して悔やむ。

 どうして頭を下げて、素直に助けて下さいと言えなかったのか。

 俺はすぐに右手を立てて謝罪の意を示した。


「……ごめん。でも、俺は嘘なんて言ってない。本当に、此処が何処なのか、分からないんだ。お願いします、助けてください」


 時既に遅し、とは思いつつも改めて彼女に助けを乞うと、彼女は少し思案に暮れた後に俺の肩を掴んで椅子に座らせた。


「少し待っていなさい。絶対に動かないで」


 出て行けと言われた後に今度は動くなと命じられ、俺は少々憮然としなかったが、助けられる身なので大人しく長椅子に腰掛けて神殿の外に出ていく彼女の背を見送った。

 再び孤独になった俺は遅ればせながら彼女と言葉が通じ合えたことに驚き、同時に、互いの名前を知らぬままであることにはたと気がつく。


 声を荒げてしまったことも失敗だ。

 目を覆いたくなるほど自省の念に苛まれる。

 しかし、彼女の冷徹な態度は何としたことだろう。

 成る程見知らぬ初対面の男を警戒するのは道理だが、されど、彼女のゴミを見るような目は、警戒というよりは侮蔑にも近い何かを感じさせた。

 人見知りなのか、あるいは人間嫌いの部類なのか、気難しい性格であることは間違いない。

 いずれにしてもその時の俺には彼女しか頼れる存在がなく、これ以上彼女の機嫌を損ねないようにジッと思案を巡らせながら待ち侘びた。

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