③ 依頼
場面は少し変わり、これは後々に本人から聞いた話なのだが、俺が自分のことであれこれ悩んでいる間、城の一室でも文献に埋もれて唸る人物がいた。
神官長のメイスである。
彼はこの歴史的事件の当事者として国王シクルスさえも驚かせるほどのアグレッシブさで城中の文献をかき集め、あるいは机に広げられた原稿用紙にあらん限りの事象と情報を事細かに記録していた。
白い手はインクの黒で汚れ、床には握りつぶしたボツ原稿が散乱していた。
神官として、また学者として、彼はありとあらゆる文献を研鑽し、古人より伝わる聖典、偽典を諳んじてきた。
そんな己が、自らの手で、後世の史家が研究資料となるであろう記録を生み出しているのだと考えるだけで身が緊張で打ち震え、歓喜の涙を目尻に浮かべた。
そんな彼の筆を差し止めている問題が一つある。
ミオの心を蝕んでいた悪霊は、果たして、予言にある冥王アディスであったのか否か。
仮に冥王であったのならあまりにも呆気なく、冥王の召使であったのなら、それを従えるアディスの強大さは計り知れない。
おそらくは後者なのだろう、とメイスは考え、筆を置いたという。
そして、俺がキヌアの家に行ったことをバレッドから聞いた彼は一計を案じ、執務室で書類の山と格闘している少年王の下へ赴いた。
▽
城の衛兵が俺を呼び出す為にキヌアの家に訪れたのは、丁度午後3時くらいのことだった。
メイスから重要な話があるというので、すぐに城へ戻ってきて欲しいとのことで、俺はせっかくミーテが午後のおやつとして焼いてくれた果物のパイを食べ損なってしまった。
せめて一切れ食べるまで待って欲しかったのだが、火急の用件と急かすものだから、名残惜しくも席を立つ俺にミーテはお土産として持って帰れとパイを包んでくれた。
キヌアも家の外まで見送ってくれて、俺は彼女たちに大きく手を振って返礼し、衛兵に続いて急ぎ足で城へ戻った。
兵士が言うには玉座の間まで来いというので、一体何事かと俺の背筋がピンと伸びた。
室内に入ると、玉座には主であるシクルスが腰掛け、その傍らにメイスが直立していた。
「ただいま戻りました。えっと、用件があるって聞いたんだけど……」
「お待ちしておりました。ささ、こちらへ。陛下も細かな礼は無用とのことなので」
シクルスは俺を友として遇し、堅苦しい礼儀は一切省いてくれた。
貴族たちの中には王の権威が損なわれると訝しむ者もいたが、他ならぬ王自身がそう命じたからには従わざるを得ない。
憮然としない視線を受けて、出来ればキヌアたちのもとへ戻りたいと辟易しつつ火急の用件とやらを尋ねた。
「実は、アキラ殿に一つお遣いを頼みたいのです」
メイスが説明するところによれば、この都から北に向かった先にある港町【ルポール】に国王の手紙を届けて欲しいとのことで、つまりは俺にそれを届ける旅に出ろと彼は言った。
メイスとしては、俺の見聞を広めさせたい意図があったようだ。
俺は「ふむ」と唸って考え込む。
俺としても都での生活は楽しかったが、この未知の世界が一体どういうところなのか気になっていたのも事実なので、彼らの頼みを受けることにした。
旅に必要な物品も城の方で用意してくれる申し出もあった。
出来れば自分で買い揃えたい気持ちもあったのだが、なにぶんにも俺が知っている文明の利器が無い世界なので下手に断っては却って危ないと思い、旅に必要な用具は任せることにした。
もっとも、この力があれば夜間の焚き火だとか、夜道の明かりには困らないだろう。
一旦部屋に戻ると、メイスの食わせ物っぷりに呆れ返る。
何と何と、既に部屋の床に旅に必要な物品が纏められていたのだから。
野宿のための寝袋、小鍋、ランタン、雨具、その他にも地図や剣の手入れに使う砥石といった道具が肩掛けの袋に纏められていた。
肝心の親書と食料は当日に手渡されるとのこと。
はじめから俺が受けることを前提で話を進めていたようだ。
出立は明日。
その間に既知たちに旅立つ旨を伝え、個人的に欲しいものがあれば市場で購入しておくように、とのお達しだった。
道中の飢えを癒やす食料は前日に支給されるらしく、ここまで揃っているならば別段必要なものがあるとは思えなかったが、キヌアやミオたちに知らせねばならないのは間違いない。
言い出しっぺのメイスやシクルスは別として、俺の知り合いで最初にそのことを知ったのは、使用人のバレッドだった。
むしろ、これらの物品をものの見事にカバン一つに纏めたのも、他ならぬ彼女であったのだから脱帽だ。
「アキラ様……バレッドめは、寂しゅう御座います。願わくば御旅に御同行し、御奉公を続けたいところですが、御城での務めが御座いますので、叶いません――」
用意された品々の説明を受けた後、バレッドが俯きながら呟き、丁寧に畳まれた一着の外套を俺に差し出した。
生地は柔らかく温かな毛皮で、色は赤く染められ、縁は白であった。
肩に纏って風を受ければ、翻る外套が燃え盛る火のように映るであろう。
「いつかこの日が来ると思い、毎夜編んでおりました。雨露の凌ぎに使って頂ければ幸いで御座います」
「こんな良いものを……ありがとう。着てみてもいいかな?」
「はい、お手伝い致します」
畳まれた外套を広げ、右肩に掛けて左肩の前で金色のボタンを留める。
丈も地に着かない程度でちょうど良く、幅は身体を包むに不足なく、ベルトに剣を佩いても鞘の尻が引っかからず、しかも軽くて動きやすい上に温かい逸品だった。
「如何で御座いましょうか? 御気に召して頂けたでしょうか?」
「勿論! 軽くて、温かくて、俺には勿体無いくらいだ」
「お褒めいただき、光栄の極みで御座います。旅のご無事をルミエル様に祈願し、お帰りをお待ちしております……」
深く一礼したバレッドは足早に部屋から退出していった。
目の端に浮かべた小さな涙は、彼女の無念の表れだったのだろうか。
ともあれ準備は必要だ。
俺はミーテが包んでくれたパイを数口で胃に詰め込み、しっかりと味を覚えて感想を考えながら彼女たちの家に戻ることにした。




