⑦ 緋煉の剣
語り終えたミオは疲れを感じさせる吐息を漏らした。
俺はこの世界で彼女の真実を知る二人目の人間となった。
ミオは俺の顔を見ようとしない。
自身が恐ろしい怪物であることを知られ、恐怖と蔑みを向けられているとでも思っていたのだろうか。
だとすれば心外だった。
俺は彼女を恐れるでも、蔑むでも、ましてや哀れむこともなく、ただ、彼女が誰かを二度と傷つけまいと己を縛り続ける生き方と優しさがあまりにも悲しくて、涙を零していた。
流れ落ちた涙が彼女の頬を濡らすと、ミオの細く白い指が俺の頬を撫でた。
「私の為に、泣いてくれるの?」
俺は言葉に詰まり、無言で頷くことしかできなかった。
こんなのはあんまりだ。
これ以上の理不尽があるものか。
何故彼女が不幸にならねばならなかったのか、何故彼女が苦しまねばならなかったのか。
薬とはいえ、猛毒を飲まねば生きられぬ身体になってしまったミオの心を癒やすには余りに程遠かったが、俺は弱りきったミオの身体を抱擁し、少しでも人の温もりを与えてやりたいと願った。
ミオもまた、俺の思いを感じ取ってくれたのか、両の腕を俺の背に回す。
「貴方は、とても温かい人……優しくて、明ルくテ、火ノヨウデ……」
「ミオ……? ぐっ!」
背に触れていた彼女の爪が食い込み、鈍い痛みに反射して彼女から離れた瞬間――。
「ダから……コノ手で……コロシタイ……」
ミオの金色の瞳が血の色に染まり、白目が虚空へ繋がる漆黒に染まっていた。
愕然とする俺の胸ぐらを彼女の手が掴んだ瞬間、俺は宙を舞い、神殿の正面扉に背から突っ込んだ。
全身が軋み、呼吸が麻痺し、全神経が痛みを訴える悲鳴を上げた。
だが何が起きたのか俺は瞬時に理解出来た。
俺は彼女に投げ飛ばされた。
小石のように、軽々と、人間一人を華奢な少女が、しかも片手で。
俺は呼吸困難に陥りながらも震える足に活を入れて立ち上がり、ミオの姿を求めて祭壇に目を向けて、驚愕の極みに達した。
彼女は両腕を左右に広げた状態で宙に浮かび上がり、全身から漆黒の霧を溢れ出していた。
無定形の霧はやがて収束し、徐々に目に見える形を象っていく。
其れは巨大な蝶の羽だった。
黒い蝶……羽ばたきが死をもたらし、飛膜から無数に伸びる鋭い触手が生きとし生ける物の生命を吸い取り、世界を再び闇に染めんとする、神々しくも禍々しい悪霊の化身。
俺はミオの名を叫んだ。
されど彼女の耳には届かない。
代わりに触手が蠢いた。
薬の力で無理やり抑え込んでいた吸血衝動が開放され、久方ぶりの獲物を前にして、その骨の髄までも吸い尽くさんとしていた。
触手の群れは礼拝堂にある全ての長椅子に絡みつき、俺に向けて異様な唸りを響かせて投げつけた。
咄嗟に身を床に伏せて直撃は免れたものの、唯一の脱出口であった門は破壊され、瓦礫となった長椅子が積み上げられて退路を絶たれた。
あるいははじめからこれが狙いだったのかもしれない。
せっかくの獲物を逃すまいと出口を封じ、あとはゆっくりと味わうつもりだったのか。
俺はもはや逃げられぬと出口のことなど忘れ、腰の剣を抜き払った。
もし、本当にこの身に世界を救う力が宿っているのならば、闇に囚われ、人生の全てを黒に染められた少女を救えないわけがない。
非力な人間が健気にも立ち向かう様を嘲笑うかのように、黒い蝶の羽が小刻みに羽ばたく。
その度に黒い霧が広がっていき、3本の触手が俺に向けて伸びた。
ヴェルド将軍の神速の剣技に比べれば遥かに遅い。
俺は1本目を剣の鎬で受け流し、2本目は身を捻って躱した。
そして3本目を切り払おうと剣を横一閃に振るった刹那、触手の先端が刃にぶつかるや、鋼の剣身が驚くほど簡単に砕け散った。
尖った破片が頭上から降り注ぎ、咄嗟に腕で頭を守ったが――。
「え……?」
視線を下方に、ちょうど自分の腹部に向けてみれば、俺は触手によって身体を貫かれていた。
全身から力が抜け、握っていた剣の柄が虚しく地に落ち、俺は膝から崩れ落ちていく。
身体が氷のように冷たく……視界が霞んで、闇が迫ってくる……これが、死。
朦朧とする意識の中、俺は頭上で羽ばたくミオを見上げた。
間もなく彼女は俺の血も肉体も魂さえも喰らいつくし、やがて神殿から外の世界に出て人間という人間を、光の世界を貪るだろう。
祭壇の女神は何も語らず、俺は間もなく事切れる。
なにせ腹を丸ごと貫かれたのだ。
助かる見込みなどあるはずがない。
俺は光を失った瞳で自分の身体が黒い霧に呑み込まれていく様を眺めつつ、意識を手放した。
その一方で、ミオもまた、俺の最期をしかと見ていたのだ。
肉体を闇に支配され、渇きと飢えに喘ぎながらも、彼女自身の意識は健在だった。
手足を鎖で繋ぎ止められ、幾度叫んでも唇は動かない。
あの夜の惨劇が繰り返される。
その最初の犠牲が、ようやく得た友という残酷な仕打ち。
俺の身体が完全に闇に包まれたとき、無機質な悪霊の人形と化した彼女の目から一滴の涙が溢れた。
冷たい涙は真っ直ぐに地面に向けて落ち、されど、地面に触れて弾けるよりも前に、白い蒸気となって瞬時に消え去った。
ここから先は闇の中で全てを見ていたミオから後に聞いた話しだ。
▽
神殿内に立ち込めていた冷気が一瞬にして熱気に変わった。
俺の肉体を包み込んでいた闇から徐々に激しい火花が散り、やがて漆黒が紅蓮に塗り替わると、巨大な火柱が燃え上がり、神殿の天井を突き抜け、急激に空を覆っていた暗雲を貫いた。
礼拝堂は燃え盛る炎によって朱一色に染め上げられ、炎に触れた闇は霧散し、ミオはその火の中に立つ俺を見たという。
貫かれた腹部から激しい炎と共に溶けた岩が流れ出してみるみる傷口が塞がれ、左手に刻まれた印が赤く輝いていた。
また、黒い蝶を睨む俺の瞳も火に縁取られていた。
そして俺が右手を掲げると、それに呼応するように周囲の炎が右手に吸い寄せられていく。
炎はやがて闇が蝶の羽を象ったように輪郭を浮かび上がらせ、紅蓮の渦が解かれたとき、俺の右手には緋い刃の長剣が握られていた。
緋煉剣――創造神ルミエルが産み給うた四精霊のうち、最強の火が鍛え上げし灼熱の刃。
地を蹴り、火花を撒き散らしながら、俺は黒い蝶に向けて猛然と突進した。
蝶は大きく羽を動かし、全ての触手が俺を阻止せんと襲いかかる。
俺は緋煉剣を両手で強く握り、真一文字に振り抜いた。
刃に触れた触手はたちまち炎に包まれて消滅し、今までとは明らかに違う身体能力を発揮した俺は混沌とした神殿内を縦横無尽に駆け、人知を超えた力を左手に燃え滾らせた。
大気が震え、熱波が周囲を歪ませる中、俺は黒い蝶の眼下に至った。
蝶はその巨翼を一層強く羽ばたかせ、黒い霧を纏ったミオの肉体が腕を振り上げながら、見上げる俺の眼前に迫る。
そのとき、彼女の唇が微かに動いた。
「――タスケテ」
光を喰らい、命を啜る、一人の少女を不幸にした敵に向けて、俺の中で目覚めたあの竜が、鬼が、咆えた。
剣を構え、研ぎ澄まされた鋒が彼女の胸を捉え、凶刃と化したミオの爪が俺の頬を掠めた刹那、炎が渦巻く刃がミオの胸を、ミオに宿った悪霊の核を貫いた。
闇の意識の中でミオの手足を繋ぎ止めていた鎖が砕けていく。
黒い蝶の羽は焼け落ち、彼女の体内に宿っていた黒い霧の塊が口から噴き出ると、吹き荒れる熱波によって散り散りとなり、消滅した。
ミオの肉体から刃が引き抜かれると不思議なことに傷一つ残っておらず、俺はそのまま神殿の床に背から倒れ、ミオもまた、真っ白な光に包まれた意識の中で深い眠りに落ちた。
その後、俺たち二人は駆けつけたキヌアとメイス、そして数名の兵士の手によって救助されたらしいのだが、俺はそれから暫く目覚めることは無かった。




