② 日守暁良
他人の人生におよそどれ程の興味が惹かれるのかは知らないが、この成人にも満たぬ若造がとんでもない運命に遭遇し、その渦中の巻き添えを喰らった極めて特異で不思議な物語を話すことにしよう。
その前に、これから付き合っていただく語り部として少しばかり俺という人間について多少なりとも知っておいて貰いたく思う。
取り敢えず俺のことは【日守暁良】と名乗っておく。
もはやロクに思い出せない程、昔のことだ。
齢18の頃までこちら側の、現代の日本で生まれ育った俺は、我ながらなんとも面白みのない退屈な人生を歩んでいたと言わざるを得ない。
当時の俺は将来に大志を抱いて勉学に熱中するでもなく、かといって一流のアスリートを目指して日々のスポーツに明け暮れるでもなく、はたまた芸術家として大望を描くでもなく、ただただ平々凡々とした学生生活をそれなりに満喫して送っていた。
しかも、幸福なんてものは変化の無い中にこそあるものだ、などと生意気にも小賢しく悟ってみせ、唯々諾々と大学に進学して卒業した後はそこそこの企業に就職してそれなりに年金さえ貰えればいいという、今にして思えば実に怠惰で人生の貴重な時間を無為に浪費していたといってよかった。
別に無理をして人生をかけた壮大な冒険に挑む必要も無かったし、かといって落第だとか留年だとかで苦労するのも癪だったので、人並みか少し多目に努力をするように心掛けていた俺は、そういう意味においては真面目人間の部類であったのだろう。
そのような性分ゆえか、どうにも昔から委員長だとか班長だとか教師なり同窓なりから半ば強制的に押し付けられ、または悪友らから面倒事を擦り付けられ、しかもそれを頑として断るだけの冷徹さは生憎と母親の腹へ置き忘れてしまったらしい。
母は俺が物心もつかない頃に病に斃れ、唯一の肉親たる父はといえば、俺が中学を卒業するのと同時に家を出てしまった。
誤解しないで欲しいのだが、決して俺の養育に嫌気が差したわけではない。
ただ、根っからの流浪癖というべきか、家の中でジッとしているような性分では無かったのだ。
忘れもしない高校一年生となる春のこと。
父は俺に向かって毅然と言ってのけた。
「もっと空を、大地を、風を感じられる場所を見つけたいっ!」
かような奇妙奇天烈な物言いをされてすぐさま理解出来るはずもなく、立ち尽くす俺を尻目に父はそそくさと大きな旅行かばんを引っさげて家を出たのである。
以来、行方知れずではあるが、少なくとも学費を含めて生活に困らない程度の振込はあったので、一体どうやって稼いでいるのかは知るよしも無いが、まだこの世に足を留めているのは間違いなかった。
話を戻そう。
趣味らしい趣味といえば、小学生の頃からはじめた剣道くらいのものだった。
体力もつき、礼儀も学べ、いざという時には身を守れる上に履歴書にも書けるというのだから結果として何年も続けることが出来た。
お陰様で昨年の大会では主将として個人、団体ともに優勝の栄誉に輝けたが、さりとて周りが勧めるままプロの剣士になるつもりは毛頭無かった。
人に言わせれば天賦の才があったのかもしれないが、今の御時世に剣を生業とするのもイマイチ腑に落ちなかったのである。
せめて二百年ほど前の世に産まれていれば真剣に考えた余地もあったのだろうが、学歴だとか社会的地位だとか、そういうものが主流の時代に不幸にも生を受けた。
灰の中に埋もれた小さな火のように、ある程度まで燃えた後には人知れず消えればいい、という具合に考えていた俺が、あのような不可思議で非現実的な体験をする羽目になるとは何ともおかしな話である。
神のいたずら、という言葉があるが、この場合はまさにそれがピタリと当てはまる名文句といえた。
あるいは灰の中の燻りに息を吹きかけて無理にでも燃え上がらせた、というべきか。
ともかくもそれまでの俺はおよそ凡人の域を出ない人間であったのだが、生まれ育った自宅が全焼した日から、俺に仕掛けられた全ての歯車が動き始めたのである。
記憶がハッキリとしているのは、あの白い光に包まれた後からであった。
俺は死んだと思っていた。
あれほどの火勢だ。
きっと今頃体は見事に炭化して、見るも無残な姿になっているに違いない。
しかし、何故か意識だけはしっかりと保ち、地面を踏みしめる感触もなく、ふわふわと宙に浮いているようで妙に足裏がむず痒い。
そこから導き出された答えは、やはり俺は死んだのだ、の一択しかない。
果たして自分が今、いわゆる霊魂のような球体になっているのか、それとも元の人型を残しているのか定かではなかったが、ともかく閉じている目を開けてみようと一大決心を固め、瞼をゆっくりと動かして周囲の様子を伺った。
直後、俺は自分がおかれている状況を理解出来なかった。
なぜなら其処は上下左右の区別なく、どこを見渡してみても、ただ白い光だけが無限に広がるだけの空間だったのだから。
俺はその空間の中で、母親の胎内にいる赤子のように身を丸めていた。
ここがあの世とやらか、もしくはあの世の入り口なのかと勘ぐる。
てっきり綺麗な花畑と三途の川が流れているものと考えていたが、其処はひどく殺風景で面白みも無かったが、それはそれで、自分が死人になったことを改めて認識させるに事足りる情景でもあった。
やがて俺の瞼が熱くなり、頬が溢れ出した涙で濡れていく。
俺の一生はこんなにも呆気ないものだったのか。
我ながら色気のない人生だとは思っていたが、それでも、こんな形で終わりを告げるのはあまりな仕打ちだ。
俺が一体何をしたというのか。身を焼き焦がすほどの罪を犯したというのか。
考えれば考えるほどに、俺の胸は締め付けられていく。
そのとき、俺の両の頬に柔らかく温かな感触が、完全な不意の内にもたらされた。
其れはしなやかな五本の指先、母性溢れる手のひらの温もり。
視線を上げて俺が見たものは、白い光の中に浮かび上がる人型の輝き。
背には六対十二枚の大きな白翼が生え、ぼんやりとした華奢な輪郭が、彼女が女性であることを俺に理解させた。
彼女は天使だろうか。
はたまた、女神なのだろうか。
どちらにしても俺の理解の及ぶ存在ではないことは分かっていたので、ただただ彼女の優しい光に身を委ねていると、彼女の声と思しき穏やかな言葉が脳内に響き渡る。
――異界の子、火を司る者よ、嘆き悲しむことはありません。貴方の命は未だ失われてはいない。いえ、失われてはならぬ命。其の命に宿る火により、やがて再臨する大いなる闇を払い、世に光をもたらしなさい。それが貴方に課せられた使命、貴方が産まれた由縁、さあ、目覚めなさい。光の民は貴方を迎えます。火を宿す者、火をもたらす者よ。世界の灯火となりなさい。光は常に貴方の側に――。
彼女から発せられる閃光は徐々に強くなり、俺は直視出来ずに視線を瞼の裏に隠すと、浮遊感が唐突に失われて深い深い奈落の底へ落ちていった……。
かくして俺の、世にも数奇な物語が産声を上げた。