⑥ 悲劇
カルナイン王国の東部、王都から遥か離れた場所にある小さな農村でミオは産まれた。
両親は畜産家であった。
村の中に設けられた牧場で、家畜を飼いならし、育て、日々の糧となる乳を絞ったり時として肉に加工して生活していた。
ミオはそんな両親の愛情を一身に受け、物心ついたときから大地の恵みに触れて育った。
家畜の背に乗って遊び、乳搾りを手伝い、また出産にも立ち会った。
生命の誕生に早くから触れていたミオは村の誰よりも生き物に対して慈悲深く、将来は父の跡をついで畜産家になることを夢見ていた。
両親も自慢の娘を厳しくも温かく見守り、また村の人々も我が子同然のように可愛がった。
だが……異変は何の前触れもなく起きた。
ミオが10歳の誕生日を迎えた日の晩のこと。
彼女は悪夢を見た。
それは一寸先も見えぬ暗闇の中に閉じ込められ、出口を求めて彷徨い歩く夢だった。
ミオはしきりに両親の名を呼び、女神ルミエルに救いを求めた。
そのとき、彼女の頭に声が響いたという。
地の底から響くような声、身の毛もよだつ冷たい声、彼女に救いをもたらすと囁く声が。
恐怖に怯えるあまり、彼女はその声に救いを求めた。
求めてしまった。
所詮は夢なのだ。
すぐに目が覚めて、両親のベッドに潜り込んで、安らかな温もりの中で楽しい夢を見直そう。
そう考えていた彼女が闇の中で救いを求めると、何処からともなく伸びてきた鎖によって手足を縛られ、痛みと同時に叫んだ直後、彼女は目覚めた。
嗚呼、やはり只の夢だったのだ。
すぐに起きて優しい両親のもとで甘えよう。
そう思い、ベッドから出ようとしたとき、ミオは窓から夜空に浮かぶ月を見た。
血のように紅く染まった満月を……。
刹那、彼女の喉が異様に傷んだ。
幼い手で喉元を押さえ、呼吸すらままならぬ状態で、ミオは両親のもとへ駆け込んだ。
安眠を妨げられた母親は初めは不機嫌だったが、娘の様子がおかしいことに気づくとすぐに彼女の肩を抱き、何処が痛いのか尋ねた。
喉が痛むと訴えるミオを連れてリビングに赴くと、過去に旅の薬剤師から購入した薬を漁り始める。
ミオはその間、焼け付くような痛みに耐えながら母の様子を大人しく見ていた。
そのとき、薬箱の中に入っていた小さなハサミの先端が母の指を傷つけ、咄嗟に手を引いた際に、母の指から流れ出る血が月明かりに浮かび上がった。
ミオは傷口に舌を伸ばし、母の指を咥えた。
はじめは傷口を塞ぐように優しく舐めていたが、母親がもういいと言って指を抜こうとしても、ミオは離さずに傷口を舐め続けた。
それはやがて傷口から溢れ出る血を舐めることに集中しており、母親は娘の変化に恐怖する。
なぜなら月明かりに浮かび上がったミオの顔は雪のように白く、またその両目は金色であったはずが、瞳は紅く、白目は虚無に繋がる奈落のように黒く染まっていた。
指先程度の傷では物足りない。
もっと血がほしい。
その欲求に耐えられなくなったミオは、あろうことか、母親の喉元に喰らいつく。
四角い歯は鋭く尖り、強靭な顎の力で喉を食い破ると、母は絶叫を上げて昏倒した。
ミオは吹き出す鮮血を飲む度に喉の渇きが癒やされていくのを感じ、また同時にそれが快感となって全身に官能的な刺激をもたらした。
手始めに母を貪ったミオは、続いて寝室で微睡む父を牙にかけ、寝静まった家々に入っては男も女も、子供さえも区別することなく殺めていった。
村はたちまち地獄と化した。
異変に気がついた村人たちは、松明と武器となる農具を手に怪物がいる家を囲む。
しかし家から出てきたのは、全身を返り血で染めた白銀の少女だった。
驚愕と混乱で動きが鈍る村人たちの中へ飛び込んだミオは、人間離れした膂力によって大人の腕を引きちぎり、あるいは牙で食い破った。
そして村中の人間の血を残らず飲み干したとき、彼女は自らの行いに気が付き、絶望し、紅い月に向けて叫んだ。
もはや村に生きる者はなく、ただ一匹の怪物だけが骸の山の中で吼えていた。
夜が明けると同時に、ミオは生まれ育った村を去った。
食べ物も持たず、水も無く、かといって自らの手で命を断つことも出来ず、このまま彷徨い歩くうちに渇きと飢えで死ねるものと考えてのことだった。
あるいは夜のうちに獰猛な獣の餌食となることも期待していた。
要するに彼女は自暴自棄になっていたのだ。
誰かが怪物を破滅させてくれると願っていた。
だが、幸か不幸か天はミオを見放してはくれなかった。
野垂れ死にかけたミオを旅の商隊が発見し、保護したのだ。
商人たちは王都カルリースへ向かう途上で、血まみれで痩せ細った少女に初めは警戒したが、仲間の一人が敬虔なルミエル信仰者であったために旅の一行に加えることになった。
与えられた水と食料で辛くも生きながらえたミオであったが、この時、彼女は心を固く閉ざして自らの素性も、あの夜の悲劇も一切口にしなかった。
商人たちは彼女のことを怪しんだものの、かといって捨てていくわけにもいかず、微妙な空気を保ったまま王都に到着したのである。
厄介払いとばかりに早々と荷車から降ろされたミオは、初めて見る都の喧騒に驚き、同時に、またあの夜のようなことがあったらどうしようと恐怖していた。
そんな彼女に手を差し伸べたのが、当時神官長になったばかりのメイスであった。
彼は都の路地裏に身を潜めている少女がいると聞くや、好奇心からか、それとも信仰心からか、彼女のもとへ足を運び、神殿の巫女にならないかと誘ったという。
初めのうちは頑なに拒否していたミオだったが、メイスがあまりにもしつこいので遂に折れ、大神殿の門をくぐった。
ミオにとって僥倖であったのは、当時から神殿に住まう神官が一人もいなかったとのこと。
というのもかつては多くの神官が大神殿に務め、勉学に励んでいたのだが、その多くが年老いて引退するか、あるいは更なる知識を求めて遠方に旅立ったまま帰ってこず、いつしか神殿に残っていたのはメイス唯一人であった。
結果、神官長に就任したメイスには神殿の人事を独断で決定することが出来、彼女を招いた。
当時のミオの推測によると神官長として民衆に模範を示すため、ボロ布同然の自分を救う善行を実践したのだと考えていた。
が、後々になってメイス本人から聞いたところによると、神殿の華となる可愛い看板娘が欲しかったのだと言われたらしい。
とはいえ王国最高の学者たる神官長の下で働くことになったミオは、自身を苦しめる悪夢と、時折襲ってくる破壊的な吸血衝動について何か打開策があるのではないかと期待し、彼に極秘と念押しした上で全てを打ち明けた。
だが賢者といえど明確な核心に至ることは出来ず、ミオは失望のあまり毒を呷った。
このとき彼女が選んだ毒こそ、フィオーレの毒蜜だった。
ミオの身体から、心から、あらゆる欲求が消え失せていく。
自身を苦しめる吸血衝動さえも。
この発見によって、ミオはフィオーレの蜜を調合して作り上げた薬を服用することで自我と理性を保ち、自身もまた神殿に篭って他者との交わりを断つ誓いを立てた。
冷徹な人間嫌いを演じ、出来る限り人々から忌み嫌われ、近づかれないように。
そしてあの日、異界から火の印を左手に刻んだ男が現れた――。




