パッチワーク
1章
旅立ちが遠い過去の話だとして、一体今僕はどんな世界に立っている?
下らないと思いつつ、繰り返す自問自答だった。
馨にとっての旅立ちは、故郷からこの街へ出て来たときの事を指す。
あの頃はまだ希望だとか、そんな下らない幻想を抱いていたっけ。
今じゃこの狭い部屋でアルコールと、少しばかりのセックスだけを楽しみに生きている。
きっと幻滅してしまうのだろうな。あの頃の俺が現在の俺を見たとしたら。
そんな事を思っても何が変わるわけでもない。怠惰に流れる倦怠に似た一日を、どう食い潰すか。
言い方を変えれば、そんな風に留まる事無く流れていく空白をどう埋めるかだけが、
現在の馨にとっては第一に考えなければならない問題だった。
特定の彼女はいない。こんなダメ人間がまともに恋愛など出来るわけも無い、とカオルは思い込んでいた。
心根が腐ってしまっている。つまりはそういうことだ。腐ってしまえば腐臭が不快を振りまく。慣れていなければ耐え難いくらいの、
酷い臭いだ。そんなものを撒き散らしていてはまともな女なんて寄ってきやしないのは自明の道理だった。
同じように腐ってしまっている、名前も無い女とのセックス。一夜限りの交わり。その先に何もなさないような非生産的な生殖行為。
意味なんてないのだ。ただ、刹那の間は現実から放たれた快楽に浸れる。ただ、それだけ。
どうしようもないな。
素面のときには、酷く哀しい。何が?
こんな現実が?
そもそも、全ては自分の選択の末辿り着いたに過ぎないのだ。
それを思うと、哀しいと思う事さえ酷くバカバカしく感じてしまう。
下らないな。こんな現実なんて、下らない。
2章
そこは、まるでノイズの流砂のようにただ存在するという事で耐えようの無い不快感を覚えるような場所だった。
一体何故そんな不快感を感じるのかなんて事はわからなかったけれど、感じている事は事実だ。
ゆっくりと振り返った女の微笑み。100点の笑顔だ。けれど、それはまるで笑顔を作るために作られた表情のように僕の瞳に映った。
偽りの積み重なりが、素晴らしい世界を作るのだろうか。
僕はその微笑にぎこちない微笑みを返し、自己嫌悪に陥った。微笑みの意味などどこを探してもありはしない。
少なくとも、僕にとって。しかし、それは当たり前で普通の事だ。
誰もが生きやすい世界の為には不可欠な要素だった。
孤独は感じられない。つまり、この世界は自分の為のものでなくそこで感じる全ては自分にとって興味の無いものだったからだ。
そう思っていただけかもしれないけれど、何が起こっても、何が奪われも、何が失われたとしても僕はそれを微笑んで見送る事が出来た。
だってそれらは必要の無いもので、そしてそんなものに気をとられている事にさえ意味は無い。
そう思っていただけなのかもしれない。隣の席の男は深い溜息を吐いて肩を落としていた。一体何がそんなに悲しいのだろうか。
僕は彼の隣で、悲しそうな振りをした。振りだけだった。感情が伴わなくても、それは記号として存在するだけでいいのだろう。
ねえ、僕は不適合者なのだろうかと尋ねると美香は笑って言った。
「ええ、そうみたいね」彼女はソファに横たわって錠剤を口に運んでいた。
「眠るならベッドに行けよ」そういうと、彼女は笑って言った。
「だって、私はソファが好きなのよ」
それ以上の言葉は無意味だった。僕が何を言ったところで彼女はベッドになどは行かないのだろう。
そう思うと少し、疲れた。僕は彼女がテーブルの上に置きっぱなしにしていた錠剤を拝借し、水で流し込んでベッドに横たわった。
もう、あと少しで眠りが訪れるだろう。眠りは素晴らしい。まどろみの瞬間は何にも代えがたい位心地よい瞬間だ。
それはこの世界の中にあって、僕が愛する数少ないものの一つだった。
美香の寝息が聞こえて、また「お休み」が言えなかったなと気づく。彼女と一緒に住んでから、まだ一度も言えていない言葉だった。
擦れ違っているのか、そんな必要も無いのか。僕にはその違いさえわからなかった。少なくとも何の問題も無かったと思える。
一緒の夢を見れたらいいのに。そんな事をとりとめも無く考えていると、ゆっくりと鈍い眠気が襲ってきた。
それは僕の意識を灰色に侵食していく。
一緒の夢を見て、それについて話せるのなら世界は少しは素晴らしいものになるだろうな。
一体どこからが現実で、どこからが夢だったのだろうか。
目が醒めると、僕は美香が眠るソファの下で毛布を被っていた。美香の足が僕の横腹を蹴っている。
「痛いって」まだぼんやりとした視界の中にある彼女の足を掴んで言った。
「だって、起きないんだもん」彼女の声はどこか間が抜けている。そして、それはとても可愛らしい響きを含んでいた。
少なくとも、僕にとっては素晴らしい響きを持って耳に届いた。
半身を起こして、部屋の中を見渡すと、まるで強盗が押し入ったような惨状が広がっていた。
それは僕の意識を一気に覚醒させるには十分な驚きを与えるものだった。
「どうしたんだ、一体」
彼女は首を傾げて言った。「あなたじゃないの?」あなたがこんな風にしたんじゃないの、って事だ。
そんな訳が無い、けれどどうして僕はベッドで眠っていたのにソファの下で眠っていたんだろうか?
「真剣な話だよ」
「夢の事、覚えてる?」
彼女はそう言ってまた首を傾げた。もう24なんだから、そんな事しても可愛くないぞと思いながら彼女の「夢」という言葉が引っかかる。
夢?そうだ、夢だ。
僕は昨夜見た夢の事を思い返して、気づいた。
「美香も見たの?」なんて間抜けな事を聞いていたんだろう。どんな夢か、が大切なのに。
それでも彼女は僕の意図がわかったようで、頷いて言った「優が壊したんじゃないの」
朝日がカーテンの隙間から差し込んでいた。それは僕の頬を暖めた。心地よいまどろみ。
覚醒と、まどろみの間。
少しでも長くの狭間を漂っていたいと願っても、叶わない。現実と夢と。その間では生きられないのだなという事を感じた。
とりとめもない思考は僕の意識の殆どを占めていた。重なりもせず、そして失われもしない。繋がって、消えて、また現れて。
そんな風にして僕の生活は送られている。生活。それは実のあるものでもなく、ここから少しでも先へ身を運ぶというだけのもの
なのかもしれない。或いは少しでも長く生きるための術。
僕はベッドから起きると、さっき見た夢の事を思い出して、部屋の中を見渡した。
眠る前と変わりは無い。美香はまだソファに横たわっている。そうだ、何の変わりもない。
一体僕はどうしてあんな夢を見たんだろう。夢の中で目覚める事は、それが夢だと自覚できる事よりも稀だった。
2章
暗闇。
僕はその中で目覚めた。
起き抜けのぼんやりとした頭で現在の状況把握を試みたが、全く、何一つが不明瞭だった。
そもそもここはどこだ?そして、何故私はこんな所で眠っていたのだろうか。
或いは気を失ってしまっていたのかもしれない。
そんな事さえもわからなかった。
僕は暫くの間、ぼんやりと闇を眺め瞳を慣らそうとしたが、あまりにも濃く、深い闇の中では
このままどれだけ時間が流れた所で何一つ見えないままだろうとうんざりした気分になってしまっただけだった。
途方に暮れるた僕は再び身を横たえた。横たえた身体は相変わらず闇の中で、
僕は本当に自分の肉体が存在しているのかさえ疑いかけた。
身体感覚によって規定される私という固体は闇の中にあって、まるで意識だけが拡大されたかのように
不安定に、しかし確実にそこにある。
見えなくても、自分の身体に触れればそこに確かに肉体に触れる事が出来る。
けれど、手を伸ばして、僕の身体以外のものに触れようとしても、そこには何もなかった。
想像は幾つもの可能性を示唆する。そして、現実はどんな事があってもただ一つ。
僕は、幾つか立てた仮説を確かめる事を恐ろしいと思った。
その中には最悪の現実さえも含む。
例えば、僕はもうすでに死んでしまっていて、身体感覚を持つ魂に触れているのかもしれない。
僕は魂になど触れた事は無い。実際に魂が身体感覚を有するものかどうかはわからないけれど、可能性としてはそういう事もあるという事だ。
結局想像は想像でしかなく、そんなものを幾つ並べても現実にはなりはしない。
僕は考える事を止めて瞳を閉じた。
瞼の裏の闇も、私を取り囲む闇も同じものだ。闇は闇。その濃さも、深さも変わりない。
瞳を閉じた後、頬に風を感じた。
確かに、風だった。
僕は頬に感じた風がどこから吹いてくるのかについて考えた。
3章
削り取られたコンクリートの淵から、僕はその瞳を見た。
その瞳は僕にいつか失われる、ただその時が延びただけだということを教えた。
血塗れのコンクリートと、鉄塊の間にしゃがみこみ、僕は頭を抱えて震えていたという。
春の終わりに、僕達は出会った。
僕は彼女に恋に落ちた。あっけなく。
仕事帰りにいつも寄っている食堂に、女が独りで食事をしているのを観た。
客観的に見れば、ただそれだけ。
何故?なんて、無意味な質問に答えは無いのだろう。
ロマンチックさの欠片も無い遺伝子の話を別にして。僕は、ただ彼女を一目見たときに恋に落ちてしまったのだ。
理由なんて解らないし、知りたくも無い。
偶然の恋の始まりだ。その時に偶然重なった時間が次にまた偶然に重なるのかさえわからない。
気付けば、声を掛けていた。
「ここの席、いいですか?」
店の中は7割位が埋まっていたけれど、他にテーブルは開いていた。不自然な申し入れに彼女は少し戸惑いの色を見せた、けれど。
「構いませんよ、煙草を吸わないのなら」
そう言って、ぎこちなく笑った。
僕は彼女の斜め前の席に座って、メニューを見る振りをした。声を掛けたはいいが、次に続ける言葉が思いつかなかったからだ。
彼女は食事を続けた。とても、自然に。
「それ」
彼女の食べていたメニューを指して、僕は言った。
「美味しいですか?」
彼女は口に食べ物を含んでいた為、答えることが出来なかった。最悪のタイミング。
それでも飲み込むと、答えてくれた。
「ええ、割と」
「僕も同じ物にしようかな。ええと、それは・・・」
彼女は少し笑った。
「鳥の照り焼き定食」
「ありがとう」
店員が注文を取りに来て、僕は鳥の照り焼き定食を頼んだ。
それから、彼女は残っていた分を食べ終わる間黙々と食事を続けたので、僕は話しかける事が出来なかった。
その間に、聞きたい事を色々と考えていたけれど、上手く言葉が出てこなかったから、
結局、彼女が食べ終わってしまうまで僕は備え付けられていたテレビをボーっと見ているしかなかったのだった。
「ねえ」
沈黙を破ったのは彼女だった。
「よくこのお店には来るの?」そう言って、お茶を飲んで一息つくと、僕の答えを待った。
「よく来る、常連だって言っても良い位に・・・あなたは?」
我ながら固い答えを返したものだと、呆れたけれど
「私は今日が始めて。前から気になってたんだけど、何だか入り辛くて・・・女一人だと」
確かに、雰囲気は殺風景だし、それは店の外観も変わらない。僕が女だとしても、この店に入るよりは
近くの洒落たカフェバーにでも入って食事したいと思うだろう。
「それが、どうして?」
僕は純粋に何故彼女がこの店に入ったのかに興味を持った。
「特に理由は無いの。ただ、何となく」
「入り辛い店に、ただ、何となく?」
彼女は少し苦笑して言った
「入り辛かっただけで、入れなかったわけじゃないもの。タイミングがあったのね」
「そういうものなんですかね」
その時、店員が僕の頼んだ鳥の照り焼き定食を運んで、置いていった。
「それ、本当に美味しかったわよ。たまたま入って正解だった」
「それは良かった」
それから、彼女は少し間を置いていった。
「何で私に声を掛けたわけ?」
僕は答えに困って、少し黙った。
「・・・後悔しそうだったから、です」
彼女は僕の言いたいことがわかったみたいだったけれど、少しそれについて考えるように首を傾げた。
「つまり、声をかけないと後悔しそうだったって事?」
「はい」
彼女は可笑しそうに少し笑った
「だからって、定食屋さんで声をかけられるなんて思っていかったわ」
僕は少し照れくさくて、鼻を掻いて笑った。
「で」
彼女は帰り支度を始めながら言った。
「折角声かけたのに、このまま帰らせてもいいの?つまり・・・知り合いになれたのに、次に会える可能性とかは極小化されてしまうわよ、このままじゃ」
僕は、慌てて携帯を取り出した。
「もし、迷惑じゃないなら電話番号教えてもらっても良いかな?メールアドレスでも良いし」
「名前も知らない相手に?」
彼女は意地悪く笑った。それがとても可愛いと思った。
「あ、ごめん・・・僕は篠原。篠原馨」
「私は美原美香。改めて、初めましてかな」
そういうと彼女は手を伸ばしてきた。握手を求めているように。
「よろしく」僕達は握手をして、少し笑った。
「こんな人、初めてよ」
「僕も、こんな風に声を掛けたのは初めてだ」
「確かに、慣れてなかったものね。それは信じられる・・・で篠原君ご飯が冷めてしまっても良いの?」
彼女は少し前に店員が置いていった定食を指すとそう言った。
「食事の邪魔しないように、手短にね」
彼女・・・美香さんはメモに番号を書いて僕に渡した。
「常識のある時間に掛かってくる電話なら、取るから」
そういうと、小さく手を振りレジに向かっていった。
僕は、その番号を眺めながら醒めかけた鳥の照り焼き定食を食べていた。
これが僕と彼女の恋愛の始まりの全てだ。
4章
入り口は此処だと、はっきりとわかるのならいいのに。
例えば、ある季節の始まりの瞬間などはっきりと判る事は無いように、それは曖昧なまま始まって、終わりを迎える。
一体どこが終わりなのかさえわからないままに、終わりの次に始まる季節と重なってしまう。
ねえ、君はいつ居なくなった?
春、夏、秋、冬。そのどれもが同じように始まり、そして終っていく。
或いは僕達の人生の中に切り取られたある季節にとっても同じように始まって終る。
けれど、その時わからなかった始まりと終わりが、その時が終った時に改めて判ることだってあるのだ。
例えば、それは今から僕が話す物語にだって同じことで、稀有なわけではない。
始まりも終わりも本来そこにあって、ただ僕達が気付かないでいただけだったという事。
気付かない事は残酷で、それはもう過ぎ去ってしまった季節を懐かしむ時に、思い当たる後悔に顕著だ。
僕が犬を飼っていたとき、いつかその犬が死ぬなんて事は考えていなかった。
実際に死は訪れる事を知っていても、それが明日だとか、今日だとか考える事は無かった。
それは引き伸ばされた日常に永遠を重ねるようなものなのだろう。
重ねられる一秒一秒にどれだけの意味を見出せるかなんて、大げさな事を言うようだけど、実際にその通りだと思う。
一秒なんて、今訪れて、そしてもう去ってしまった。未来であり、過去であったとしても現在としてその意味を認識する事は難しい。
引き伸ばされた時間でしか世界を見れないとしたら、それは当たり前の事なのだろう。
犬は、僕がアルバイトに行っている間に死んで、そして僕は泣いた。ねえ、その時どんな事を考えていたと思う?
「もっと愛情を注いでやれたら」
こんな後悔が一度で済むのなら話は早いのだろう。
学習能力のある人達なら、たった一度の経験で一秒の大切さに気付いて、その後の人生で無駄な時間なんて過ごさないように心がけて生きていけるかもしれない。
けれど、それは理想論じゃないか、なんて学習能力の低い僕は思ったりもする。
実際に、その後に飼ったウサギだって同じような後悔の元で看取る事になったのだから。それどころか、やっぱり僕がバイトをしている時に死んでしまったのだ。
話を元に戻そう。
入り口は此処だとはっきりとわかれば、それは終わりを、出口を想像する事も出来るのだろう。
入り口のある部屋には出口がある。入り口しかない部屋なら入り口と出口が同じ役割を果たしているのかもしれない。
部屋を一周した後には同じ扉から出て行ってしまう。
物事は、須く留まりはしないのだ。幸せも、不幸も同じように訪れ、そして去っていく。
一生の最初と最初ならば僕にだってわかる。生まれて、死ぬだけだ。
どの瞬間に生まれたと定義する?とか意地悪な質問はしないで欲しい。勿論、死についても。
そんなものならば六法全書だとか、裁判所の判例だとかを調べて勝手に納得してくれればいい。
問題はその生と死の間に流れる時間、それ自体に訪れる出来事や出会って去っていく人にどれだけ真摯に向き合う事が出来るか、という事だ。
「いつか」なんて引き伸ばされた感覚では残ってしまう後悔を、どれだけ感じないように出来るかという事だ。
その為には、始まりと終わりを認識する事が必要だ。
始まりに終わりを見る事は、ある意味でとても悲しい事かもしれないけれど。
僕達はあまりに限られた時間を引き延ばしてしまう傾向にあるのかもしれない。若しくは、そんな人間は僕だけなのだとしても。
5章
瘡蓋を剥がしたら、生乾きの傷口にうっすらと血が滲んでいた。
そんな事は当たり前だろう、痛みが追ってくるのをぼんやりと待っていた。
何もかも、ここで失ってしまったのならきっとこんな風に痛みを感じる事もないのだろう。
鈍く痛む傷口は生きている限り付き纏う呪縛のようで心地良かった。
つまり、生きているという事だ。
そんな事は当たり前なのに、笑う事も出来ない位に味気の無い生活の中で
僕自身が殺してしまった自分というものは痛みなど感じる事も出来なくなってしまっている。
体はここにあって、生きていて、そしてそれは当たり前に息をして食事をして排泄をして、
そして眠り、たまに生殖行為に励む。
肉体としてあるという事はつまりそういう事だ。
誰だって肉体としてそこに在り続けるためには肉体の求める欲、本能に忠実に行為を行わなければならない。
行為には結果が伴う。そして、僕にとってその結果はまだ肉体として生き続けているという事に他ならない。
「味気ない考え方ね」
彼女はそう言って笑った。仕方なく、といった風に。
僕は、ただ窓から差す斜陽に照らされた彼女の横顔に見惚れていた。
視線に気付き、彼女は僕の瞳を覗き込むように、言った。
「そんな風に生きて、楽しい?」
答えは簡単だ。楽しいわけが無い。それでも、死ぬ事は怖いから生き続けている。
なんて後ろ向きな人生だろうか。本当に、馬鹿げていると思う。解っているんだけど、
それでも死ぬよりはマシだ。
「下らないわよ、そんな人生は」
彼女はゆっくりと、僕の唇を指でなぞった。いつものように、ゆっくりと、指を這わせる。
僕はただされるままに、彼女を見つめていた。その瞳は暗く深い湖を思わせる。
僕は溺れてしまう事がわかっていて、その美しい湖の中に足を踏み入れてしまうのだ。
たとえ命を失くしたとしても。
これだけ恐れている死すら彼女の前では霞んでしまう。不思議な位、魅かれている。
「ねえ、そう思わない?」
重ねた唇を離すと彼女はそう言った。僕はいつものように、答えた。
「君が、いなければきっとそうなんだろう」
僕達は腐ってゆく事を知っていて、それでもこの場所から動けないままでいる。
始まりは解っている。美香との出会いも覚えている。けれど、それが全てだ。
それはもう終わってしまった恋なのか、それとも未だ続いているのかさえわからない。
結局肌を触れ合わせる時に孤独を忘れられる、それが全てになってしまっている。
だから、本当は君が居なくてもそんな「誰かが」いるなら生きていける。
ねえ、それは正しい事なのだろうか?
正しい事って一体なんなのだろう。
もう、僕にはわからない。
夢も現実も等価に成り下がってしまっている。
きっと、君を失うなら夢の方が素晴らしい世界になってしまうのだろうな。
ねえ、君は本当に側に居る?
目覚めた時に眺めた君の寝顔は僕の夢の中にあったのか、現実だったのか。
それすら、もうわからない。