インタラクティブな試み
詩は高尚に読み手を選びすぎた。ストイックなコアのスレンダーな言葉を理想として。文学はその身の内に悦楽を含む故に、生き延びてきた。現代の詩もそうであるはずなのに、どこか乖離してしまっている。
誰もが言葉での意味付けを求めている。全てに。音楽には歌詞が付けられ。絵画には説明書きが付けられ。動画をコメントが埋め尽くす。
批評はある個人のイメージの提示であるはずが、それが一人歩きして意味を固定化しようとする。誰かの言葉を咀嚼することもなく丸呑みして、一人だけの群れが作り出されていく。
ネットにはチープな言葉が溢れている。人たちはチープな快楽の言葉に束の間の満腹感を得るが、満たされはしない。だから分かり易さだけの時代は過ぎ、ショートセンテンスに含まれる深い味わいこそが求められる時代になった。
今、時代を迎えようとしている詩の復活にとって必要なのは、悦楽を求める感性を深く直撃するイメージである。それは、暗くじめじめとした屈託の承認であるか、または明るくからりとした理想への導きであるか、あるいはどちらもを超越した未知なる地平の広がりであるか、あるいは満たされぬ故の焦燥を落ち着かせる静寂であるか、何かのイメージを脳内に具現化したときに感じる快感のことである。
わたしは言葉の力を見くびっているわけではない。言葉だけで伝えることが相応しければ、それでいいと思う。純化された言葉の列ほどに、真っすぐなものは無いはずだから。
しかしながら現在の読み手には、言葉を受け取る力が未熟な人たちが多いと感じる。だから詩を書くものは、それを想起させるための手段を選ぶべきではない。伝えるための努力を惜しんでいる時ではないだろう。
しかし彼らの感性は、決して鈍いわけではなさそうだ。流行りの楽曲のダウンロード数と、人気動画のアクセス数は膨大であり、次々に生み出されるコンテンツは多品種小ロットを超え、無限なる単品の羅列に近づいている。個人の好みはよりユニークとなり、自分だけの自分を誰もが抱え込む時代は終わろうとしている。
だからといって、拡散する個を捉えようとする必要はない。個は個であることから逃れられない故、孤独を抱えている。埋めきれない他との溝こそが、無限なる固有であり、それこそが言葉を生み出した源泉である。
だから言葉は孤独を含む。詩はそのことを羅列する。
コアを含む言葉を見つけ出し、それをこの世界に明らかにするために。それを己でない他の感性へ届く、あらゆる表現と手段を用いて。そうした個の溝を飛び越えようとする試みが詩であろう。
詩人とは言葉の先駆者である故に、頑迷に他へ歩み寄ることを避けてしまいがちである。しかし言葉の本来持つインタラクティブな性質は現代こそ活かされるべきであるから、もっと詩人は他との交流を持つべきなのだろう。
受け取り手が感じた何かを形にし、それを書き手が受け取り、何かを感じたならば、その時、書き手と読み手は双方向に繋がる。その時こそ、詩とはインタラクティブな活動であることが実証される時だ。
赤ん坊に伝わる言葉があるように、痴ほうの極みにある老人にさえ伝わる言葉があるように、そして彼らから伝わってくる言葉があるように、文字にさえならない言葉たちがある。それらを捉え、それを真空の言葉として羅列すれば、個であれば読み手へ必ず伝わるものがあると、わたしは信じている。そして、そのボリュームを上げてくれるのが、例えば音楽の力であり、例えば画像の力であり、例えば動画の力である。伝えようとする努力を惜しむことは傲慢であれこそすれ、もはや高邁ではない。
伝えたいことの何割かは……書けたかな?と思いますが、さて。