仮面の裏にある記憶③
時代に取り残された町での生活だったが、ウツロは困らなかった。
樹林で狩りを頼めば、町一番の猟師でも手を焼く獲物を捕まえてきた。
猫の手でも借りるつもりで家屋修繕のこどりを頼めば、いつもよりも仕事が捗った。
農作物の害虫被害について悩んでいれば、有効そうな対策を閃いて提案してくれた。
料理、洗濯、炊事など家事全般をそつなくこなしてくれた――むしろ訪れた次の日からは、そんな三面六臂の活躍をした。
一週間も経つ頃には、彼は一躍して噂の的になっていた。
彼の住民の心証が良くなっていくにつれて、その親であるフィオジアンテ夫妻の評判も良くなる。
まだ少し壁らしい感覚も残ってはいるが、これまで町に馴染めていなかった夫妻が、地元育で育った町民とも打ち解けた会話ができるようになる。
ただ町長夫妻にはあまり面白く思われず、余計に目を付けられてしまうことにもなる。
「事情が事情なだけに、俺は碌でもない親父って感じで見られちゃあいるが……でも、俺の嫁さんや息子たちに向けられていた眼差しは、少しずつだが変わってきている。お前が来てくれて良かった」
それでも嬉しさが勝ったホロメウには、そう大いに感謝された。
「いいえ父さん……父さんたちが良い人だって、町の人たちが気づいただけですよ」
それに対して、ウツロは謙遜半分、本音半分の言葉を返した。
まだこれという反応がない。これだけ派手に目立った。さて相手はどう出る……。
この一週間にあった良し悪しは、すべて狙い通り起こしたことである。
これはほかならない、局員がどのように監視をしているのか探るため、相手の対応の早さで資格者という存在の重要性を計るためだ。
相手は一人だけとも限らないし、言ってしまえば敵地の真ん中で叫ぶような行為に等しい。
しかし相手が誰であろうと、どれだけ危険な状況に追い込まれようとも、自分一人だけなら逃げおおせる自信があった。
時に彼は、その自信を確固たるものとする力を持っている。
特殊フォトンの一つとされる未来を見る右目――『未来視のフォトン』。
右目に虹色の輝きを灯して、その宿主に人の未来を見せる力だった。この時点から見て、数年前に彼の身体に発現しており、この事実は主君であるカミュリオスだけが知っている。
能力の発動条件や効果などについては、特殊フォトンに関する資料や言い伝えも少なく、完全に把握できていない。
判明している限りでは、発動条件と効果は次の四つ。
・自分を対象とすることはできない。
・対象のフォトンを感覚して、虹色の瞳で直視する必要がある。
・対象のフォトンが強いほど、鮮明かつ詳細な未来が見える。
・対象の行動に干渉するほど、自ずと見える未来も変化する。
つまりは一般人よりも能力者の方が未来を見やすく、未来に起こる事象に干渉することで、起こり得る出来事を変えられる。現状それだけは判明していて、ウツロはそれで十分だと思っていた。
感情の大フォトンを宿す六人の資格者、特殊フォトンを宿す六人の資格者か……。
監視役の力量が分かるまでは、迂闊に右目も使えないか……。
この能力をもちいて資格者を見極める算段だったが、監視対象に自分も加えられてしまう可能性を否めない手前、まだ実行に移せずにいる。発動できる機会を窺ってばかりいる。
かといって、その間まったく収穫がないわけではなかった。
「ホロロは幼い頃から、たまに気性が荒くなることがあってな」
とある夜にホロメウの晩酌に付き合っていた際に、ホロロたち兄妹が寝静まったあとで、ウツロはその話を聞かされた。彼の静かな語り口を、弱音のようにも感じていた。
「あれは何て言えばいいか……感情が高ぶると人間が変わったみたいに暴れる。しかも馬鹿みたいに力が強くなって、押さえかかる俺をすっ飛ばしたこともある。七歳の時だ。挙句に、その間のことはまるっきり覚えてねぇときた」
手元の酒をあおってから、ホロメウの言葉は続いた。
「都会なんかには置いてやれなかった。なるべく人間から遠ざかった方がいい。でなきゃあいつは、いつか自分に飲まれて誰かを殺しちまう気がする……俺は予防線を張るくらいしかしてやれねぇ」
ウツロは上手い返事を見つけられなかった。
先祖代々宮廷専属の隠密である家系に生まれた彼は、生前から隠密になることを、カミュリオスを護ることを宿命づけられてきた。
親しい身内を持てば心の弱点になる、そんな一族の方針から物心がつく前には両親のもとを離れて、暗躍の手立てを学ばなければならない環境で育ってきた。
どう答えるべきか。思いつく言葉はすべて相応しくないように思える……。
その過程で習得した処世術だけでは、自分の言葉に自信が持てずにいた。
また一週間ほどが経って、その日を休日として過ごす。
町の近くにある芝の丘の、その頂上に植えられた樹木に背中を預けて、居心地のいい木陰で読書に耽る――ウツロはそんな日常を装う。未だに何ら反応を見せないでいる監視を誘き出そうと、あえて無防備になった。
近辺に目立つ障害物はなく、風が吹けば完全感覚も本領を発揮しやすいと考えて、彼はこの場所を選んでいた。
ところが想定外にも、しばらくするとホロロとウララが現れた。
「こ……こんにちは」
少し怖気がある兄妹に、ウツロは柔らかく「どうした?」と笑いかけた。
「あの……ホロロです。こっちはウララ」
「俺に会いに来てくれたのか?」
兄妹が、小さくうなずいた。
「まだ話したこともなかったな……俺はウェダルだ」
この頃になると、強い警戒心を持っていた兄妹と会話ができるようになっていた。
子供が一度そうなったら大人よりも打ち解けやすいらしいと、ウツロは兄妹が見せた笑顔から感じていた。まだ他人行儀な気配こそ残っているが、それ以上に興味を持たれている節がありそうだとも。
とても気性の荒い子供には見えないが……。
だからこそ思わず、聞くよりも大人しいホロロの様子を訝しんだ。
「ウェダルさんは、どうして何でもできるの?」
「何でもできるわけではない。ただ人よりも多く物事を考えて、学ぶ機会に恵まれただけだ」
「僕はどんくさくて、この歳で狩り一つできないから」
「気にやむ必要はない。人間、何か一つ優れたものを見つければいい」
「……僕にもある?」
「それは俺にも分らない。……でも、あるといいな」
ホロロの悩みや弱音を、ウェダルとして親身に聞いた。
「よわくても、いいとおもうよ?」
「ウララ、お兄ちゃんは何だか嫌だよ……」
仲のいい兄妹と話しながら、ウツロは辺りに意識を集中させる。今も監視されているような気配は感じられなかった。資格者の未来を確かめるなら、今しかないと考える。
資格者が辿る未来が見えれば、管理局の目的がわかる可能性も高い……。
ましてや、これだけ強力なフォトンが対象なら詳細に……。
兄妹の目を盗んで右の瞳に虹色の輝きを灯す。ホロロの未来を見ようと試みる。しかし思い通りのことを起こせなければ、彼は少なからず戸惑ってしまった。初めてのことだったのだ。
未来が見えない……?
相手が資格者という存在だからか――そう真っ先に疑い、次いで能力自体に異常が起こっているのではないかと疑う。
不測の事態だったが、怯んでばかりではいなかった。能力に依存しないように、もといあまり信用しないように心がけていたからだ。
右の焦点をホロロからウララに合わせ直して、未来視の対象を切り替える。
――蝶を捕まえようとする彼女が、駆け出す際につまずいて転ぶ。
能力は正常に効果を発揮した。彼女に対して条件を満たした途端に、彼女の数十秒ほど先の未来が右目に映って、そして頭に記憶される。刹那のうちに処理されるため時間はかからない。
ちょうど一頭の蝶が、木陰のそばをひらひらと横切っていく。
「あっ、ちょうちょさんだぁ。わぁい」
「待った」
駆け出そうとしたウララの手を掴んで、ウツロは引き止める。
彼女の足元の地面からわずかに露出していた石を、あらかじめ見つけていた。そのままにしたならどうなるのか知ってしまっている手前、彼は見過ごす気にならなかった。
「幸運を引き寄せるまじないだ。うまく捕まえられる」
懐から青い組紐を取り出して、ウララの片方の手首に軽く結びつける。そうしながら、さり気なく彼女の立ち位置を石から遠ざける。石に注意させるよりも、これが自然な振る舞いだと考える。
「きれいな糸。ありがとう」
「……これでいい。さぁいってこい」
無事に走り出したウララを、ウツロは悪くない心持ちで見送る。
ふと横にいたホロロから「ありがとうございます」と嬉しそうに礼を告げられた。
まじないとして彼女に組紐を与えたことだと思った。暗器として持ち歩いていた組紐の切れ端で、あまり特別なものではなかったし、微々たるものだったから――彼は「構わない」と返した。
「それもだけれど……あのままだったらウララは転んでいたと思うから」
聞いてどきりとする。ウツロはホロロに顔を振り向けた。
「……どういうことだ?」
「ほら、そこに石があるから……気づいたのは今だったけれど、ウェダルさんが何もしなかったら、もしかしたらウララは転んでいたんじゃないかなぁ、なんて思って」
裏表のなさそうな笑みを浮かべて、ホロロがその石を指差した。
未来視に気づいたわけではない、ようだな……。
資格者に対する疑心暗鬼から殺気立ちそうになったが、ウツロはどうにか堪えた。
とはいえ受けた衝撃は大きく、資格者に対して未来視がどう作用をするのか、どんな影響があるのかも定かではない以上、不用意な行動は避けるべきだと思わされてしまう。
「そうか。お前にも優れたものがあるじゃないか」
「え? なんですか?」
自覚のないホロロに、心の緊張を解いて伝える。
「――かもしれない。それで人の無事を喜んで、人に礼を言って、お前くらいの年頃で言えるような奴は少ない。少なくとも俺はできなかった……きっとお前は、人よりも心優しい」
その藍色の髪をくしゃくしゃと撫でつけて、ウツロは笑った。
やがて三か月の時が流れた。
「未だ監視の動きはない。……一年。殿下には見透かされていたのだろうか?」
その日の就寝前になって、ウツロはカミュリオスの言葉を思い返すと呟いた。
まだフィオジアンテ家の長男である役を演じ続けていた。
これまでに時おり、ほんの数秒、自分が何のために演じているのか忘れかけることがあった。自己評価を低めに見積もる気質があった彼は、その原因はすべて自分にあると、否定的にならず素直に受け入れられた。
人の温かさに、どうやら俺という人間は飢えていたらしい……。
このまま夫妻に、兄妹に、町民たちに情を抱き続けては危うい。
そう自覚もありながら、彼らと繋がりを築こうとしている。
そうであるべきだと思う自分がいる。
いずれ断ち切らなければならない――これまで培ってきた覚悟を損ないながら、なお人との繋がりの中で得られる経験を一時でも長く求めようとする自分がいる。
もしかしたら、本当はありえたかもしれない時間……。
そんなものを欲しがる俺は、もとは理想主義な質なのかもしれない……。
考えても仕方がない。もう眠ってしまおう。明日は確か、町の男衆と熊狩りに……。
うとうとと思いやって、彼は深い眠りに入る。
夜が明けて太陽が中天にさしかかる。仰げば青に恵まれた空が広がる。
町の狩場であるハルゼリア大樹林で大熊が目撃された。
その翌日であるこの日は、狩猟経験豊富な男たちが総出で駆除にあたる予定で、今は着々とその準備が進められていた――青ざめたホロメウが現れたのは、ちょうどそんな時だった。
「ウェダル! ウララを見なかったか!?」
猟師たちと準備を進めていたウツロは、そう開口一番に問われた。
ホロメウの隣にはホロロもいて、同じように焦燥をあらわにしていた。ウララの身に何かがあったらしいと察するのは、そんな二人の言動の様子を見ていれば容易なことだった。
「父さん、ホロロ? ウララがどうかしましたか?」
「ウララがいなくなって……少し目を離したと思ったら、どこにも!」
答えたのはホロロだった。
親子の不安は、ウララの失踪が大熊の出没と重なっていることにあった。もし樹林の中に引きずり込まれているのだとしたら、最悪の場合を想像することも容易であるから、なおさら。
反射的に完全感覚での広域察知を試みかけて、ウツロは思い留まった。
どこかには管理局の監視がある……。
「わかった。手分けして探そう。いなくなった場所を教えてくれるか?」
「場所は……」
言いかけるホロロが、どこか一点を見やって口を噤んだ。そこには物陰から遠巻きに様子を窺っている、町長の息子と取り巻き二人がいた。
彼らが浮かべた子供らしからぬ笑みは、何か知っていると思わせるもので、そうでなかったとしても悪意のある仕草に違いなかった。
『やっべ、こっちみたぞ。にげろ』
町長の息子たちが走り去る。間際には面白半分といった調子の声がこぼれていた。
「あのガキどもまさか……シャレにならねぇだろうが!?」
ホロメウの張り上げた声が、ホロロの呟き声に被った。
両方の声を拾ったウツロは、背筋に悪寒が走る感覚を覚えていた。
その明らかに小さい後者の声により強い怒気を感じたこともそう、何よりも、その小さな身体の奥にある得体の知れないフォトンの急速な膨張に、彼は凄まじく威圧されていたのだ。
――殺してやる。
その一言が、ウツロは確かに聞こえた。
一目散にホロロが駆け出す。ホロメウの制止を振り切った足は、およそ十一歳の脚力とは思えない速さで地面を蹴り進む。方向は町長の息子たちが逃げた方向にあたる。
そんな彼の表情は、これまでからは想像もつかないほど、怒り狂ったように歪んでいる。
「ホロロの奴、また……止めねぇと!」
「俺が行きます。父さんたちはウララを探してください」
ウララの捜索をホロメウに任せて、ウツロはホロロの制止を引き受けた。
速い。能力者として目覚めているのか……?
わずかな時間にどこまで走った……?
体気術を使えば追いつくことは難しくもない。しかし例によって自分の素性は極力知られてはならない。とはいえ強制的な制約ではない。
いつでも禁は破れる。それでもできなかった。
使うことで壊れてしまうかもしれない今の生活に、彼は未練があったのだ。
「言えって言っているだろう!? ウララはどこだ!?」
遅れて追いついた先は、町の小さな広場だった。
一人は腹を抱えて喀血している。もう一人は手足があらぬ方に曲がっている――すでに取り巻きの二人が重傷を負って倒れていた。
近くでは、ホロロが町長の息子に馬乗りになり、その胸倉を掴み、ひどく怯えたようにしている相手に向かって激しく問い質していた。
子供が起こしたとは思えない陰惨な現場を前に、ウツロは怯んで割り込めなかった。
「言えないのか!? どうだ!?」
『ごめ、やめ……』
「こいつ……言えないなら!」
その剣幕に圧倒された町長の息子に、答えられる余裕などなかった。対して『面白がって、黙っているに違いない』と早計に決めつけたホロロが、そのまま大きく拳を振り被った。
「何も言わないなら、もう死んじゃえよ!」
そして一縷の躊躇いもないようにして、振り下ろされる。
まずい強すぎる……!?
ウツロはその小さな拳が帯びた力を感じていた。
もはや出し惜しみはできなかった。ホロロに人を殺めてほしくない一心で、形状操作で煌気の糸を放ち、その振り下ろされる片腕を捕らえて、すかさず手繰り寄せる。
果たして、軌道が逸れたホロロの拳は、相手の顔面の横にある地面を叩いた。ドゴンッという鈍い打音を公園広場に響かせながら、一撃は地面に大きな亀裂を走らせた。
生身の人間では耐えられない威力だと、子供の頭にわからせるのも容易い光景だろう。
『樹林の中に置いてきた! 樹林のどこかにいる! 言った、言ったから、い、言ったから!』
恐怖の中から、自白の言葉がひねり出される。
「このっ……あとで覚えていろ!」
町長の息子を突き飛ばしたホロロが、今度は樹林に向かって駆け出す。
「ホロロ!」
やや遅れ気味に、ウツロはそのあとを追った。
大樹林に飛び込んだホロロを追い駆けるまま、ウツロは木々が生い茂る中を奥深くに進んだ。途中さらに奥の方から上がった悲鳴を頼りに、ホロロが転進して、ウツロもまた転進する。
やがてその場所まで駆けつけたホロロが、一足先にウララを見つけた。
腰砕けた彼女の目の前には、2メィダを超える巨体をもった大熊が舌なめずりをしていた。いまに血しぶきが舞っても不思議ではない、ひどく危険な状況だった。
「ウララ! ……ウララに近寄るな!」
その間に身体を割り込ませたホロロが、大熊を相手にして凄む。
そんな勇敢な姿を見たウツロは、不意に魔がさしてしまった。
――資格者が何たるか見極められる、いい機会ではないか?
最後まで追わずに、そこから少し手前で足を止める。即座に気配を絶って近くの茂みに身を隠す。ここに来て、彼は自分がどうしたいのかが曖昧になっていた。
俺なら助けられる。だが力を使うことになる。監視がいれば間違いなく……。
いいや監視を言いわけにするな。お前はただ人並みの生活をしていたいだけだ……。
どうするべきだ……?
ついぞ考えがまとまらないまま、動き出した状況に置き去られる。
大熊がホロロに襲い掛かったのだ。機敏な動きで間合いを詰めて、丸太のように太い剛腕で小さな身体を殴りつける。あわせて、そこには鋭利に尖った爪も立てられていた。
「おにいちゃん!」
ウララの悲鳴が樹林にこだまする。
その一撃にあっけなく弾かれて、そばにある樹木にぶつかったホロロが、頭から血を流して倒れたままになる。意識が飛んでしまっているのか、もう起き上がれそうな気配はない。
どれだけ膨大なフォトンを持っていようとも、戦い道を知らなければ上手く発揮できるはずがない――普段の冷静さを保てていたなら、ウツロは判断を誤らなかっただろう。
「ホロロ!? ……くそっ!」
何をやっている、子供に何をさせるつもりだ……!?
ウララに襲いかかる兆候をもった大熊を見据えて、ウツロは茂みを飛び出した。
大熊に接近しながら、両手十指から形状操作の糸を放つ。それぞれ周囲の樹枝に縫わせるように、また別の角度から大熊に達するように、その十本の糸を迂回させていく。
「ウェダルさん!?」
「伏せていろ!」
ウララに言い放って、ウツロは大熊に肉薄する。
身を強張らせた大熊の眉間に、強烈な膝蹴りを見舞って頭蓋を砕く。怯んだ相手の身体を一躍して飛び越えると、連続して形状操作の糸を操り、四方八方から相手の四肢に絡める。
そして両手十指を一気に手繰り寄せて、まるで巨大な蜘蛛の巣にかけるがごとく、相手の自由を奪い去る。
「この……馬鹿が!」
片手の指を固く束ねたウツロは、大熊の背中に貫き手を繰り出す。
相手の分厚い皮肉を確実に突き破るための、自分自身を叱咤するための気合をかけた。甲斐あって凄まじい威力の発揮に成功して、相手の背中、心臓、胸と腕を貫通させた。
『――――ッ!』
うめくような断末魔が大気を揺らす。やがて命絶えた大熊の巨体は、力なく宙吊りになって、糸が消えれば重力に逆らわず、ゆっくりと大地に沈んだ。
かくして最悪の事態は避けられた。
「おにいちゃん!? おにいちゃんってば!?」
意識なく倒れるホロロに、ウララが必死に呼びかけ続ける――未来視の能力がなかったとしても、それは容易に回避することができた光景だった。
「……すまない。もう少し早く、こうするべきだった」
兄妹に駆け寄っていくウツロは、うまく彼らの顔を直視できなかった。
その日の夜には、近隣の町民がささやかな宴を開いていた。
満天の星のもとで、町の男が起こした大きな焚火を囲み、町の女が用意した大熊鍋に舌鼓を打つ。およそ百人あまりが参加していたが、なかなか鍋底が見えないまま長丁場になる。
どうやって大熊を仕留めたのか、ウツロは町の猟師たちから質問責めにあっていた。まさか本当のことを言えるわけもなく、しかし何か言わないわけにもいかなかった。苦し紛れだったが、
『木にぶつかって倒れたところで、持っていた短刀で仕留めた』
と彼は説明した。
猟師たちには不思議な顔をされる。とはいえ一部始終を見ていたのはウララか、あるいは管理局の監視がもしかしたらというだけで、一応はそれで納得させられていた。
今はそれから、しばらく時間が経った。
見られたか、見られていないか。いずれにせよ長くはいられないか……。
焚き木のまわりに腰をおちつけて、ウツロは誰と何をするでもなく焚き木を見詰め続ける。猟銃も使わずに大熊を仕留めた人間を一般人と言い張るには、やはり難しいだろうと思い直していた。
「ウェダルさん……」
横から声をかけられる。
頭や腕などに包帯を巻いた姿で、ホロロが歩み寄って来ていた。
「起きて大丈夫か?」
「ウェダルさんが手当てをしてくれたおかげで、良いみたい」
近くに座って、小さく続けられる。
「あの、ウララから何があったのか聞きて……」
「まいったな。秘密にして欲しいと頼んでいた」
ウツロは苦笑いする。
「僕がどうなっていたか教えて欲しくて……いい?」
そう尋ねる声は、ひどく落ち込んだものに聞こえた。
「あの時、お前は……」
だから少し悩んだ末に、ウツロはありのままをホロロに伝えた。同様に焚き木を見詰める本人に、自分が何をしようとしていたのか、淡々と――。
すべてを聞き終えたホロロの第一声は、こうだった。
「僕は……どうやったら、ウェダルさんみたいになれる?」
身体ごと向き直って、まっすぐな眼差しで尋ねられる。
今一度、ウツロは耳を傾けた。
「どうやったら、僕は僕のままでいられる?」
「……ここに」
ホロロの胸に指をそえて、彼は言葉を続けた。
「きっと俺たちは、ここにあるらしい人を想う優しさを培うべき、なんだ」
「そうすればなれる?」
「保証はしてやれない。それでもお前には必要だ。自分の中の怒りに優しさで抗え。優しさで本能を律しろ。その力は想いの強さしだいで、いずれ……」
――その時だった。
ウツロは右目に強い違和感を覚えた。未来視のフォトンが勝手に発動していた。それだけでなく、以前は見えなかったはずのホロロの未来を、その虹色の光を灯した瞳に映し出していた。
「ウェダルさん? どうしたの?」
咄嗟に手で右目を覆い隠して、左目でホロロを見る。
「な、なんだ、これは……?」
そしてホロロの未来が、断片的に頭の中へ流れ込んでくる。
――数年後。優しい心を培って怒りに飲まれなくなった姿がある。騎士養成学校にて剣術や能力を学び、その膨大なフォトンも相まって騎士としての高みに立つ。友人に恵まれ、周囲に慕われ、歴代最高の成績を残して卒業すると、そのまま軍人になる。
――連邦と帝国の開戦によって前線に出兵する姿がある。戦場で情けをかけた敵兵の剣で、多くの友人が命を落とす。そうでなくとも激化していく戦いの中で、次々と先だってゆく。しかし力のある自分だけは、どんな戦場でも必ず無傷で生還を果たす。
――鮮血に染まる大地、視界におさめられない数の亡骸を踏んで歩く姿に行き着いた。その身体は血にまみれており、その手は血を滴らす長剣を握っていた。あたりに人影はなく、誰がそんな光景を作りだしたのか、それは確かめるまでもない。
「……大丈夫ですか? ウェダルさん?」
ウツロは言葉を失った。右目に見せられた未来があまりにも心に堪えていた。単なる他人事として見過ごすことはできない――これは、それだけの情が移ってしまったことを意味していた。
ホロロ、お前は本当にこんな未来を辿るのか……?
2018年1月17日 全文改稿。