掴みそこなった手
開会式が終わって間もない大闘技場の周辺には、各国の代表関係者たちや観光客、地元商人などの行き交う姿が多く見られた。今日の時点で、ドラシエラの人口密度は一時的に五割ほど増えていた。
いかに武闘祭が世界の関心を引いているかは、視覚的にも数値的にも表れていると言えた。
並ならぬ経済効果をもたらす武闘祭は、神樹の加護の持続する二十一日間を競技実施期間とする。加護が十二月十一日におろされたなら、効力が失われる前日の十二月三十一日までになる。
この間に今年度の新たな覇者が決められる。あるいは昨年の覇者が変わらず頂点に君臨する。
「ねぇ、ちょっと……次から次にどうなってんのよ?」
大闘技場から退場したウェスタリア代表たちが、教官たちとの合流に向かう。
道すがら、ルナクィンがミュートに耳打ちで苦言を呈する様子があった。
それは二人が知り合って数カ月の中で何度も繰り返されてきた、それはそれで仲も良さそうに思える光景だった――見ていたほかの代表たちが口元を緩ませて、「賑やかな奴だな」とこぼしていた。
その中に紛れて、さらに全体を見ていたホロロはほくそ笑んだ。
「ホロロ先輩、何を笑っているんですか? もしかして……」
やがて意識を移してきたルナクィンから、いつもと変わらない調子で言い寄られる。
誰にだって隠し事や悩み事はある。ミュートさんにそれがあってもいいはずだ。誰かに話さないといけない決まりはないだろうから。時間が解決することもある……。
もしかしたら、そもそも僕の杞憂なのかもしれない……。
「いや……何でも。何でもない」
ホロロはそう思いやって、自分に言い聞かせるように呟いた。
「ホロロ先輩、実は煌気化ができるようになりました。撫でて褒めてくーださい」
「本当に? それは頼もしいなぁ…………あれ?」
頭を差し出してくるルナクィンの相手をしながら、意識を日常に引き戻していく。
しかしそうしていられたのは、ほんの、ほんの束の間のことだった。
彼女が抱えている何かを知るべきだった。彼女が抱えている何かを話してもらうべきだった。彼女が抱えている何かを、諦めずに気にかけ続けるべきだった――今しがた思い感じたことのすべてを、くつがえされた。
ふと歩き方を忘れてしまったように、ミュートが立ち止まる。
代表たちに置き去られて、なおそれさえも忘れたように、どこか一点を凝視していた。目を丸々と見開き、眉間にきつく皺を寄せて、肩で大きく息をする。その握った拳には滴り落ちる血が見えた。
明らかに正常な人間の様子ではない。彼女の形相や仕草はそれほどだった。
「……ミュートさん?」
最初に気づいて振り返ったホロロは、たまらなく嫌な予感がしていた。
遅れて異変に気づいた代表たちが、また足を止めて振り返る。10メィダほど先に置き去りにした仲間に焦点をあわせる。
そこから彼らの視線は、ミュートが何を睨みつけているのかを探り始めて、ほどなく原因らしいものを見つけた。
彼女の瞳が向けられた直線上の、30メィダほど先にあった。
『ギルヴィム教官、私たち頑張りますね!』
『教えてもらったことは全部頭にありますから、期待していてください』
『教官のおかげで俺ら強くなれたし、もしかしたら優勝も狙えますよ』
帝国の養成学校生と思しい代表生徒たちが、一人の大男に群がって笑っている。
薄茶色の短髪に、彫りの深い顔立ち。生徒たちの額がやっと肩に届く筋肉隆々の大きな肉体。その丸太のように太い腕は、人間を片手で掴み上げることも容易そうな力強さを感じさせる。
「頑張ってこい。俺も応援しているからな。あまり調子には乗らないことだぞ?」
相手を威圧しそうな姿をしているが、表情は穏やかでそればかりにも見えない。
「……ギルヴィム=エデルタークか?」
ミュートの記憶の中に、その大男の輪郭は焼きついていた。
その口から確かめるように名前がこぼれる。それがはっきりと大男の注意を引いた。すると彼女の拳は開かれて、腰に下げた長剣の柄に構えられた。あわせて身体は姿勢を低めて練気を始めた。
踏み出すことをためらい、ホロロは「ミュートさん」と呼びかけを繰り返す。
次の拍子、ミュートの中で何かが弾けた。
才能の限りを尽くした練気は、拒んでいた強固な意志を許容することで、凄まじいエネルギーを秘めた煌気と化した。青白い激流に包まれた彼女の身体は、すでに使い方を心得ているかのように、完全に能力を制御していた。
「お前だけは私の手で、必ず殺す!」
その煌気がはらんだ怨念の気配に触れて、これ以上は危ういと確信する。
すかさず手を伸ばすが、しかし届かせるには行動が遅すぎた。ミュートが長剣を抜き放ち、足元の地面を蹴り、神速に達する勢いで大男との間合いを詰める。
手が伸びた先に彼女の姿はない――ホロロは掴みそこなった。
『いゃぁああああ!?』
大男のそばから悲鳴があがった。ミュートが大男の胸を長剣で貫いていた。返り血を浴びようが、相手の吐血を被ろうが、まわりの帝国の代表生徒たちを寄せ付けない迫力で怒鳴り散らしていた。
「私を忘れたとは言わせない! お前にだけは言わせてなるものか!」
「お前は……まさかテ――ぬぐっ!?」
何か口を利こうとした男が、一息に長剣を引き抜かれて怯む。
「呼ぶな! その名前は捨てた、あの日から何もかも捨ててきた! お前だけは私の手で死ね!」
「……そうか。大きくなったな」
血まみれの長剣を頭上に構えたミュートが、膝をついた大男に向かって力をこめる。
ホロロは咄嗟に二人の間に割り込んだ。大男を突き飛ばして入れ替わりに白刃を受ける。肩口からかなり深くまで斬り込まれた彼は、血しぶきを散らして倒れた。
「何やったの……何やったかって、聞いてんのよ!?」
煌気をまとったルナクィンが、茫然自失としているミュートの背後に迫った。両手を組んで彼女の後頭部を殴打する。一撃には、煌気化した能力者を昏倒させるだけの威力が込められていた。
「……シアリーザ教官だ。今すぐシアリーザ教官を探せ!」
「で、でも神樹の加護が……」
「いいえ、加護が効力を発揮するのは明日になるはずです」
「時間が惜しい、みんなで手分けしよう」
ジャンゴが声を張り上げる。ティハニアが焦って言う。ナコリンが冷静に否定する。ワトロッドが全員に行動を促して、ウェスタリア代表たちの何人かが散り散りに走り出す。
「だから、だからさ……あたし言ったじゃない」
気を失ったミュートのそばに座り込んで、ルナクィンが愕然とする。
まだ少し意識があったホロロは、もしも、もしも、もしもと後悔ばかりしていた。しかしどれだけ悔やんでも取り返しはつかなかった。その瞬間はとうに見過ごしてしまったのだ。
あとほんの少し、手を伸ばせていたなら……。
それから先のことを、彼はあまり良く覚えていない。
2018年1月6日 全文修正。




