仮面の隠密
アルカディア三大勢力の一つに数えられる、神聖カルメッツァ帝国。
皇都であるアズ・ラ・ファルエにそびえる宮殿の回廊には、足音が二つ連なった。先を歩むそれはゆったりとした、続くそれはせかせかとした、ばらついた音色を立てていた。
その後者にともなう焦りの声が、いく度も空しく響いては、虚ろに消え失せた。
「兄上! お待ちください、兄上!」
兄と呼ばれたラテリオスは威厳溢れる顔立ちの男で、兄と呼ぶカミュリオスは中性的な美貌をもつ男だった。
兄の短髪と弟の長髪はいずれも朱色に映えている。とはいえ彼らが兄弟の血縁関係にある事実は、聞く者に耳を疑わせるだろう。
兄の大柄な身体と、弟の華奢な身体が放っている存在感は、たとえ同じ髪色だとしても、まったく別ものとしか感じられない。
「そうまで、何を待てと言うのだ?」
あからさまに苛立った調子の声で、ようやく返事がある。
「何ゆえ……何ゆえ今、戦争なのですか!?」
「連邦が衰退している今が好機であるからだ。帝国七十年の雪辱を余が晴らす」
「違います兄上。民は七十年の雪辱に耐えたのです。皇族が民の思いを踏みにじるのですか!?」
「くどいぞ! 余は貴様の兄であるが、それ以前に皇帝である! 払うべき敬意を払わぬか!」
足を止めて振り返ったラテリオスから、険しい面持ちで怒鳴りつけられる。
「……ご無礼をお許しください。皇帝陛下」
「それで良い。余はこれよりアイゼオンへ発つ。時間が惜しい。余の道を妨げるな」
不満げに鼻を鳴らしたラテリオスが、ふたたび歩一歩と足音を響かせる。
対して立ち止まったカミュリオスは、目を伏して悔しげに歯を食いしばった。回廊の突き当たりを曲がって見えなくなる実兄――カルメッツァ帝国皇帝の背中を見送ると、すぐそばにあった壁に拳を叩きつけて八つ当たりをした。
そうでもしなければ、罵声を投げつけてしまいそうだったのだ。
「世襲制の欠点をこの上なく体現している。……何と愚かな」
乱れていた息を整えて、カミュリオスは「ウツロ」と呟いた。
「……ここに」
数瞬のうちに、どこからともなく隠密の男が現れた。
禍々しい模様が描かれた仮面で素顔を隠して、長身に黒い隠密装束をまとう姿をしている。まるで気配を感じさせないその挙動からは、見るからに並の実力者ではないとわかる。
現に、皇帝の弟から陰に控えることを許されるだけの力が、この隠密にはあった。
「すまない。私にはお前の運命を変えてやれそうにない……行くのか?」
「はい……これは俺が抗わなければならないことです。そのお気持ちだけで」
「約束の時が過ぎてしまった。お前は自由だ。書状でのやり取りだったが、右頭もあれで律儀な男に思える。お前も好きに生きてみろ……本音をいえば、もう少し酒を酌み交わしていたかったな」
「俺にとって、貴方は最高の主だった」
「お前が私の兄であったらな……どれだけ良かったか」
「……それでは、これで」
「ああ、ありがとう」
事務的な言葉が選ばれても、その声はどこか惜しげに聞こえた。
まもなくウツロの姿が消え失せる――見届けて深呼吸を一つ、カミュリオスは気持ちを切り替えて歩き出した。後にも先にも、ほかの誰も知りえない別れを終えた。
2018/10/02 全文修正。




