闇を抱えている自覚
『――ゼ、こっちにおいで。テ――』
『待ってよ。お父さん、お母さん。待ってよ――』
両親が呼ぶ自分の名前だけが、決まって聞きとれない。
快晴のもとに広がる野原で、幼い自分が両親の背中を追い駆けている様子を、他者の目から眺めている。その一瞬を切り取って絵画にできたなら、いかにも幸福そうな作品に仕上がるだろう。
ただしモデルとしてはありふれているから、おそらく特別な評価をされることはない。
そんな日常の温かさに触れるような光景は、いつも唐突に赤く染まる。
『俺にそうやって剣を向けるならば、お前も俺の敵ということになるが?』
幼い自分の目の前に、今にも父親の命を奪おうとする大男が現れる。
「やめろ……やめろ!」
静観していられず声を荒らげるが、声はそこまで届いていかない。大男が両親を手にかけるまで、幼い自分も、そうでない自分も、見ていることしかできない。
×
まだ日も昇りきらない早朝に、はっと寝室で目が覚める。
中立国から戻って数日、ミュートは同じ夢ばかり見ていた。ここ数年間、回想をしても夢にまではなっていなかった、決して忘れられない記憶の断片だった。
なぜ今頃になって――その理由には思い当たる節があって、それに違いないとも思っていた。
私にとっての強固な意志というやつは、やはりそれなんだ……。
ほんの半年前までは目に留めていなかった少年の顔が思い浮かぶ。
彼の志に惹かれ、感化されて、救いの手を期待している少女趣味な自分。そんな彼や自分のすべてを否定してでも、いつかは復讐を果たそうと考えている冷徹な自分。それらの対極的な存在を胸中に感じる。
「もし出会ってさえいなければ、こうはならなかったのか?」
答えを出せないと知りながら自問した自分を、ミュートは嘲笑った。
季節は冬に移ろいで、室内の温度も下がりやすくなっていた。悪夢にうなされて寝汗をかいたままでは、身体が冷えて体調を崩しかねない。そうでなくとも冷えてしまいそうな寒気が部屋にはある。
起きて寝汗を拭こうとすると、ちょうど執事のプロイナフが部屋を訪れた。
「そろそろお目覚めかと……湯浴みの支度ができております」
言葉の調子や用意の良さから、ミュートは見られていたらしいと察した。
「やはり私は、またうなされていたか?」
「近頃は……あの少年がここを訪れてからは、お嬢様は良いお顔をされていました。ですが故郷よりお戻りになられてからは、旦那様の養子になられた頃のよう。また思い出されたのですね?」
親身になる調子でプロイナフに尋ねられる。
ここでは何も言わずに、ミュートは彼を連れて浴場に向かった。
脱衣所で汗が染みたネグリジェを脱ぎ、古めかしくも清潔な浴場に入る。かけ湯で一通りの汚れを流してから湯船に浸かる。
身体の芯が温まり、心も落ち着き始めた頃になって、浴場のわきに控えることを許していたプロイナフに、彼女はようやくその返事をした。
「いつからかお前は、自分から私に剣を教えようとはしなくなったな?」
「私も歳です。もうお嬢様の動きには追いつけません」
「本当の理由ではないだろう? 復讐にとらわれる私には、教える気にならないか?」
「……お嬢様には、どうか幸せな未来を歩んでいただきたい」
深々と頭を下げられて、その言葉の切実さは態度でも示された。
「ははっ。答えにはなっていないな」
乾いた笑いを声に含ませて、ミュートは話を変えるように続けた。
「歳とは言うが、お義父様から聞いているぞ。戦時は名の通った騎士だったそうだな?」
「七十年も前のことにございます。それに名が通ったと誇るには、あまりにも狭い」
「一国に知れ渡るでは足りないか? お前の物差しの具合はわからないな」
「……東の剣聖、西の剣帝。彼らほどであれば私も名を誇れましょう」
「なら一国では狭い話だな……お伽話と聞いているが、実際はどうなんだ?」
当時を振り返る間を挟んで、プロイナフがふたたび口を開いた。
「とある山脈を越えて進軍していた時です。当時の元帥率いる大部隊に一騎士として参加した私は、そこで彼を見ました。風をはらんだ純白の髪、凄みの利いた瞳、見慣れぬ黒衣、反りのある片刃の剣……大多数は彼を見ても普段どおりでしたが、私は心の底から恐怖に震えました」
「それはどうしてだ?」
「人間はあれほど悪業を背負える生き物なのかと……彼の内側に闇を感じたのです。まるで悪い気の方から彼に集まっているようでした。逃げなければ、でなければ命はない――予感していましたが、ほどなく正しかったと私は確信します」
ミュートは聞き入って口を噤んだ。
「山脈越えの進軍を読んだ帝国に、山頂付近で待ち伏せされていました。ですがこれは覚悟があったこと……確信させたのは、その中に剣帝がいたことです。そこからは彼らだけの戦場だった」
プロイナフの声に、しだいに怖気がこもっていく。
「剣聖と剣帝は剣を抜いて衝突しました。偶然か、もしくは彼らが気を回したのか、二人の力は横に流れ、そして真一文字に山を割ったのです。衝突の余波に吹き飛ばされるも一命を取り留めた私は、そのまま逃げるように山脈を下りました。必死になって走りました――」
背中に感じる轟音から遠ざかって、当時のプロイナフは驚愕した。
うしろを振り返れば、今しがた下りていたはずの山はなかった。そこには不格好に広がる平地と、凄まじい煌気を迸らせて戦う二人の姿だけがあった。
当時の元帥も、騎士たちも、一般兵たちも――難を逃れた誰もが、その様子を見ていることしかできなかった。
「あの場を生き延びた……これを称賛されたことがきっかけとなって、私は名を広められたのです。ですから私には、どうしても自分の力量を誇ることはできません」
「良くできた作り話のようだな。いや、お前が言うのだから、もしかしたら……」
聞き終える頃になって、ミュートは浴槽を出た。
プロイナフに手渡されたローブに袖を通しながら「何にせよ」と続ける。
「ありがとう。話をしていたら気が紛れた」
「左様にございますか」
純白の髪に、見慣れない服装、片刃の剣とは刀のことか? まさかな……。
特徴から知った顔が連想されたが、ミュートはすぐ否定的になる。七十年も昔の出来事であるし、普通に考えてあり得ないことだと考えた。あるいは、それよりも気になることがあったのだ。
「……プロイナフ。お前が見たその剣聖は、なぜ闇を抱えたのだろうな?」
「知らずとも生きて行けることは、多分にございます」
「そうか。お前らしいな」
日が昇りきって一日が始まる。
冬用の制服に着替えたミュートは、第三騎士養成学校に登校した。
教官であるジョンやネネ、同級生であるホロロ、後輩であるキュステフの双子など、親しみを持ち始めた面々と顔を合わせる。
午前中は座学の授業を受けて、昼食を挟んで、午後には実技訓練を行う――普段と変わらない日常に足を踏み入れて、また普段と変わらない振る舞いをする。
ホロロに泣きすがって以来、彼女は他人が思う自分を装っていた。
これまで誰からも距離を置いて、特別な交友関係を築こうとはしてこなかった。だから隠すことは容易だった。もとい、関心を持たれないから気づかれなかった。
これを寂しいことだとも感じたが、しかし望み通りになったのだからと、彼女は納得せざるをえない。
「ねぇ……あんたさ、なんかあったの?」
それでもいざ気づかれそうになれば、ミュートはぎこちなくなる。
友人と位置付けられる自信はないが、他人ではないと断言できる――ここ数ヶ月でルナクィンとはそう思える関係を築けている。同性で、歳も近く、遠慮のないやり取りができる相手だとも感じている。
人気のない場所を選んだようにして、そんな彼女から気恥ずかしげに気遣われる。
「やぶから棒にどうした? 気味が悪いな」
心苦しく思いつつも、ミュートは明るくうそぶいた。
「気味が悪いのはあんたよ。そんな風に……あぁ、もういいわ」
その明るさが「どこからしく」ないと怪しまれる。
追及はされずに、ルナクィンからは続けて別の話題を振られた。
「それより、向こうでホロロ先輩に変な虫とか付いていないでしょうね?」
「さて、どうだろうな……ないとは言い切れないな」
「くそぅ。この一ヶ月が憎らしいわ。でもホロロ先輩ったら素敵だからモテモテでも仕方がないか。ねぇ、あんた気づいた? ホロロ先輩の身長が伸びているの。成長期かな? それとさぁ――」
意中の少年について語る口は、言いよどむ気配もなければ止まる様子もない。恍惚とした表情で、いつまでも思いの丈を言葉にし続けている。
そんなルナクィンを眺めて、ミュートは物悲しくなるも安堵した。
「……やはり君は、ホロロが好きなんだな?」
「そうよ、あたしはホロロ先輩が大……は?」
ルナクィンが反射的に言いかけた言葉を飲み込んだ。
弾かれたように振り向けられた彼女の顔が、戸惑うような、気を揉んだような、複雑そうな表情をして見える。ミュートはそんな反応をうかがって、彼女の心中を推し量る。
「……あんた、やっぱり何かあったでしょう?」
「私も、そう、かもしれない」
やや勢い任せに告白し合って怯んだが、一瞬のことだった。
「ほっ、ほぉん。し、知っていたわよ、そのくらい。今さらじゃない……そうじゃないわ。あたしが知りたいのは、あんたが腹の中に抱えてる何かよ。別に女同士なんだから、その、話してみれば?」
腕組みして鼻を鳴らすルナクィンに、ミュートは意を決すると切り出した。
「実は諦めようと思うんだ。私では相応しくなれそうにない」
「…………はぁ?」
「近頃は胸の奥がざわつくんだ。予感とでも言うのか。近い将来にもしかしたら……」
「ま、待ちなさいよ。何なのそれ? あんた意味が分かんない。やっぱりおかしいわ」
一杯いっぱいだったミュートは、ルナクィンの声が聞こえていなかった。
「その時が来たら、どうなるだろうか……自分のことだ。きっと抑えきれない」
「おい、ちょっと? ねぇってば?」
「だからそうなる前に、お前が私の分までホロ……」
「聞きなさいよぉおおおお!?」
両手で挟むように頭を掴まれて、ルナクィンに頭突きを見舞われた。
ゴンッという鈍い打音にあわせて額に衝撃が走る。これでミュートはようやく我に返る。
どうやら思った以上に自分の額は丈夫で、頭突きを繰り出した方が痛かったらしい――ルナクィンが地べたをのたうちまわり始めた理由も考えられるようになる。
「ぎにゃぁああああ!? 痛い、痛い、痛い、痛いぃいいい!」
「お、おい、大丈夫か?」
ミュートは珍しくあわあわとした。
「っぅ…………相応しくなれないとかさ、あんたの決めることじゃないでしょうよ?」
苦痛にうずくまった姿勢のまま、ほどなく言葉が返ってくる。
「そういうものだろうか?」
「あたしだって良くわかんない。けれど、きっとそうなのよ」
「私は……」
無理に話そうとして、それはルナクィンに止められた。
「いいわよ、無理しなくても。その気になったら話せばさ。あたしならいつだって聞いてあげる……だから一人で突っ走らないことよ? 心配してくれる人がいるって、わかるでしょう?」
「……そうだな」
「まったくね、武闘祭も近いんだから頼むわよ?」
「するべきことはするさ。……しかし君は良い奴だよな」
自分を心配してくれる人に、ミュートは心当たりがある。誰かには実際に心配された覚えがある。突き離してしまった覚えがある――ルナクィンに飾り気のない言葉をもらって実感が湧いた。
気づかないうちに、意外と私は、人の輪に入っていたのかもしれないな……。
そう思えば、彼女は自然と笑みがこぼれる。
「ひぃいいい!? あ、あんたがあたしにそんな顔を向けるな! 気持ち悪い!」
自分が抱えている闇の正体を、ミュートは正しく理解している。人間が持つべきではない、ほかの誰かを巻き込んではならない、断じて正義などではないと解釈している。
良心と悪心の両方から誘惑を受ける、彼女の心は不安定に揺れ続けていた。
2018/01/02 全文修正