分かち合う理想
宿に戻って、ウェスタリアの代表たちと入浴を共にする。
貸しきられた浴場には水音だけがある。これまでなら男湯も女湯も早々に騒がしくなって、仕切り越しにも会話が飛び交っていたはずである。しかし今日、この時ばかりは誰もが口を閉ざしたまま、物思いに耽る様子で深々と湯に浸かっている。
相変わらず入浴時には姿を見せないキュノのように、誰も話そうとはしなかった。
「僕ちょっと、先にあがるね」
「おぅ、また後でなぁ」
一言そう断りを入れたホロロは、ジャンゴにぼんやりとした返事をもらう。
あと一歩だった。それだけの試合はできていた。嬉しい悔しいはあるけれど、たぶんみんなが考えていることは、そうじゃない気がする……。
これまで張りつめていた気が、抜けちゃって、身体がふわふわして……。
自分を含めて誰もが似た感覚を共有しているらしい――誰かといるとその人の様子が気になって、自分の考えがうすれてしまう性分の彼は、考えるために一人の時間を作ろうとした。
「あれ、何を考えたいと思っていたかな?」
ただ一人になろうと、気の抜けた調子が変わるでもなかった。結局ホロロは、夕食の時間まで何をするでもなく、ぼんやり過ごすばかりだった。夕食を済ませて自由な時間になっても、気づけばまた一人でそれを繰り返してしまっていた。
疲れているのかな? 上手く頭が回らない。身がしまらない……。
明日が訓練もない休養日であれば、自分がそう気の抜け切った状態であれば、いっそのこと眠って明日にしてしまえと、今日は考えることを切り上げた。
「教官たちは『宴会、宴会、宴会!』って、盛り上がっていたなぁ」
酒が入ったネネとシアリーザに挟まれて、困惑していたジョンを思い返す。
彼も当分は部屋に戻ってきそうにない。なら部屋には一人きりになるし、誰にも気を使わず眠れるだろう。高級宿の布団は寝心地も良いから、心身の疲労も取れるに違いなかった。
「あれ何だろう? 大事なことを忘れている気がするぞ? いや……気のせいにしよう」
月明かりが差し込んで、淡く青白く色づいた和室に布団を敷いた。
何かしら嫌な予感がして、しかし眠気もいい具合だったホロロはそれを気に留めない。早々と柔らかい毛布の中にくるまる。目を閉じると、月明かりも気にならなくなった。
あぁ、今日はすごく眠れそうだ……。
まもなく眠りに落ちた。
半刻が経った頃。
布団の中で何かもぞもぞと動く感触に、彼は眠りを妨げられた。疲れていて、何かの気のせいだと彼は放置していたが、しだいに許容できないものに変わった。
もう。さっきから何だろうな、これ……?
僕の布団の中で何かがもぞもぞしてて、妙に生温かくて柔らかくて……。
寝返りを打って横を向いた。いよいよ不審さに我慢ならず、彼は目を開けると確かめた。
「ヒヒッ。……こぉんばぁんわっ」
目と鼻の先、薄暗い視界の中には、ひどく恐ろしい笑みがあった。
見覚えのある表情を持つその少女が、なぜか自分の布団に潜り込み、向かい合うように添い寝している。驚愕に息が止まる、恐怖に全身から冷や汗が噴きだす。身体が硬直して動けない彼は、彼女に粘ついた声で囁くような挨拶をされた。
頭が真っ白になる。
我に返ったのは、鼻の頭をペロリと舐められてからだ。
「いぅぁだぁああああああああああっ!?」
形容しがたい悲鳴を上げる。
眠気など吹き飛んだホロロは、布団から飛び出して壁際まで逃げ転がった。
「あら……失礼しちゃうわねぇ。そんなに驚かなくてもいいのにぃ?」
「き、きみき、きみ、君がなんで!? な、なな、何でここ、何でさ!?」
のそのそと彼女も布団を出る。
名前は知らずとも見覚えはある。言葉を交わしたこともある。精神状態が危うい人間であるとも、逆に忘れることが難しいほど身をもって知っている。
そんな彼女が、自分の布団に入っていたという状況を理解できない。
「あんらぁ。言ったじゃないの。今夜、会いに行くわって」
嫌な予感の正体は、それかぁあああっ……。
痛恨の見逃しに、ホロロは胸中で嘆いた。
「だ、だからって、わざわざ忍び込んで、そんな鼻を舐めなくても」
「えぇ? ……じゃあ、お口の中を舐め舐めした方がよかった?」
聞いて「そうじゃない」と返したくなった思いを飲み込んで、唇を前歯で噛みとめる。顔面蒼白のホロロは、不気味でいかがわしい舌なめずりをする彼女に強く警戒した。
「正直な子は好きよ。ねぇ、ワタシはアイリーズっていうの……少しお話をしましょうか?」
×
「昔ね、暗殺者をやっていたわ」
灯りをともさない部屋の、広縁の席にかけるアイリーズが、月を眺めやり脈絡もなく言う。
部屋の隅に置かれた茶櫃から、茶葉、急須、湯呑を二つ用意する――一応は客としてもてなすべきと思ったホロロは、茶の仕度を始めた。かたわら彼女の声に黙って耳を傾けた。適当な相槌を打てるような間柄でも、ましてや、それほど軽い話題でもないように感じていた。
「両手両足の指を使っても、到底足りないくらいこの手にかけた。世の中のため、人質にされた子を守るため、ほかならない自分が生きるため、たくさん理由を考えて権力の言いなりになっていた……ワタシは最初から、こんな顔だったわけじゃないのよ?」
自嘲ぎみに、言葉は続いた。
「危険な存在だと気づけるように。逃げ延びられるように……ほら、ワタシって見た目は可愛い顔をした女の子だから、場所を選べば暗殺者とさえ気づかれなかったの」
可愛い? この人は何を言っているんだろう……?
ホロロの手が止まる。彼の困惑を気取ってアイリーズが「いやね」と言い直す。
「もう一人のワタシのことよ? アナタも見たでしょう?」
なるほど、あの危ない方の……。
確かに見た目は正直に言って、可愛らしかったけれど……。
納得はしたが、実情を知った今ではあちらの彼女が恐ろしく思えた。逆に、今こうして接している恐ろしい顔の彼女に、ホロロは妙な安心感を覚えてしまった。
「あれ、何だろう? ものすごく周到に懐柔された気がして、ちょっと悔しいや」
「ヒヒッ。面白いことを言うのね?」
淹れた茶を出して、自分も広縁の席にかける。
小さな卓を挟みアイリーズと顔を突き合わせると、ホロロは改まった。
「それで君は、何をしに来たの?」
「お話をしに来たのだけれど、そうねぇ……強いて言えばお願いかしら」
「どんなお願い?」
「その前に、先に謝っておくわ。アナタの志を悪く言ったこと……ごめんなさいね」
アイリーズの考えが見えてこないで、ホロロはまた少し混乱する。
慣れていたことだし、特に気にはしていなかった。むしろ、自分に足りないものを指摘してくれた相手に感謝こそすれども、恨みを返していい筋合いはないと思った。ならばともかくと、その謝罪を受け入れて、彼は言葉を待って口を噤んだ。
「アナタの気持ちは本物だった。それはアナタの言葉や行動に色濃く感じられた。ワタシは、ずっと待っていたの。アナタのような理想を抱く誰かが現れることを。アナタの志は、いつかこの世の中を平和に導くものだと、ワタシは信じている」
やや身を乗り出したアイリーズの、その願いを耳にする。
「ねぇ……アナタの志を、ワタシも志していいかしら?」
「……え?」
視線を重ねる相手が冷やかしで言った風には、感じられない。
それが余計に訝しく思えてホロロは動揺した。自分のそれを理解してくれる誰かがいても、そんなことを言う誰かに出会ったのは初めてだった。自分と同じ道を歩みたいと、面と向かって願う誰かに出会ったのは初めてだった。
不思議と鼓動が早まる。彼は無意識に胸に手を伸ばして、掴むように押さえる。動揺を悟られないようにと表情を作るが、駄作な仮面よりも不格好な表情しか作れないでいる。
「……駄目?」
少し弱腰にも聞こえる声で、確かめられる。
「いや……どうして?」
「ほかならないワタシ自身が、そんな誰の存在を望んでいるからよ?」
「でも、僕のこれは……綺麗事で、ただの理想なのかもしれなくて……」
「……今ある現実も、元々はごく一部の理想から生まれたものよ。人々はいつの間にか、先人たちが叶えた理想を当たり前の現実としてしか見なくなった。そのくせに理想を笑って生きる人もいる……誰かが理想を持たなければいけない。なら、きっと人は多い方がいいわ」
そう聞かされて、ホロロは静かに涙した。
「あら、まぁ大変……ハンカチ貸しましょうか?」
慌てるアイリーズに、ハンカチを差し出される。
そうだったんだ。僕はずっと、誰かにそんな言葉を求めていたんだ……。
これまで無自覚だったものを、今になって自覚する。彼女に「どうなの?」と返事を催促されて、彼は我に返る。そのハンカチを受け取って涙を拭う。
もう何も迷わずに、彼は返事ができた。
「……ありがとう。もらってくれる?」
「ええ。きっと大事にするわ」
互いの素性も明るくないまま、二人は志を分かち合う。
それ以上は交流する必要性を感じず、日付を跨ぐ頃にはぼちぼちと別れた。いざ別れ際になると、何やら心寂しい、話し足りない思いもしたが、話題が尽きては仕方がないとした。
おそらく、それはまた武闘祭で会う時に取っておくべき楽しみだ……。
そう二人は思うのだった。