狂喜乱舞
森林区画、東北側
アイリーズの鉄拳が、自分の顔面を捉える直前。
ホロロは全身全霊の煌気を放出すると、その一撃を越えて相手の身体にぶつけた。両腕を踏まれて身動きがとれない状態では、この方法で対処をするほかなかった。もし相手の一撃が、自分のそれを上回る力でもって繰り出されていたなら、防げなかっただろう。
「まだこんなに力が……本当に底なしねぇ」
アイリーズの煌気が、ホロロのそれと干渉する力で負ける。
そうなると、負けた術者は干渉余波の影響を一手に受けることになる。彼女の身体は弾けるようにして宙へ舞い上がり、緩やかに放物線を描いた。
「なんとか凌げたけれど、次はもうないだろうな」
能力で掴んだ宙を支点に大車輪を一回、体勢を立て直した相手が着地する。
急ぎホロロは立ち上がり、身構えて相手を見据えた。相手の様子に健在ぶりを感じると、先ほどのような不意打ちの防御に二度目はないと、確信を持って呟いた。もしかすれば杞憂やも知れないが、それでも同じ状況に二度陥ることは避けたい思いだった。
15メィダの間合いを開けて仕切り直す。
「ヒヒッ。中途半端にもしぶといから、そんな理想を持ってしまうのね」
「……弱くても、きっと僕は変わらなかったと思う」
ようやく、ホロロはアイリーズに言葉を返せた。
「へぇ。弱いのに守るつもりなの?」
「君は言ったよね? ……もしもその時が来たら、どうなるのかって?」
「ワタシの答えは言ったとおり。それで、アナタの答えはなぁに?」
狂気を思わせる笑みを浮かべたアイリーズが、大きく柔らかに首を傾ける。
「僕はこんなだから、たぶんその時が来ないとわからない。でも来てほしくないから、僕は戦うよ。少なくとも、その時が来るまでは、絶対に曲げたりない……だから、ここで君には負けない」
「……そう。もう言葉は無粋かしら」
激突の前触れを察して、二人が沈黙する。
ふと森林区画に吹き付けた風が、木々を揺らして葉と葉を擦れさす。やがて、ざわざわと鳴るその音さえも失せていく。そうなりきるのを、二人の気持ちが合図として決めつける。
静寂が訪れた。
「全部、終わりにしてあげる!」
アイリーズが空宙を蹴り進んで、距離を詰めてくる一瞬を見計らう。
君の気配が掴めないから、完全感覚が働かない。四神方位が機能しない……。
だから、もう君を探さない……。
呼吸を止めて目を閉じる。なるべく完全感覚を聴力に限定して高める。すぐそばにあった木の幹を木刀で打つ。かつんと乾いた音が周囲に響き渡る。カマザンとの戦いでもちいた反響定位を試みる。
空間を意識すると、頭の中に周囲の景色が浮かび上がった。
一点だけ不自然な箇所が見つかった。
反響する音の波が途絶える空間、不自然な穴が迫ってきている。
見つけた……!
上から押え込むように木刀を構える。同時に二種類の煌気を発動して得物にこめる。けたたましい破裂音を立てる高エネルギーを、やや強引に、その一点に向けて薙ぎつける。
「これは……ぁっ!?」
まとまりのない青白い輝きが、アイリーズの身体を飲み込んだ。
彼女の煌気を吹き飛ばして、なお衰えないエネルギーが相手の身体に激しい衝撃を与えた。すぐに四散して消えた輝きは、彼女を空の彼方にはさらわずに、乱暴に投げ放した。
周囲の木々に、弾かれた空気が突風となって吹きつけた。
――不完全な月影ではあるが、直撃だった。
「あ、当たった!」
たしかな手応えを覚えて、ホロロは目を見開いた。
倒れ伏して、咳き込む度に喀血する相手の姿がある。
煌気を失ったそれには、今まで感じられなかった気配がある。慣れた感覚をこの相手に感じて少し気が楽になる。決して自分のそれが狂ったのではない、確固たる証拠を手に入れたのだ。
「試合だってことを、忘れたのかしら? なんて一撃を」
「あっ僕、手加減を……っ!?」
「ヒヒッ。まるで見聞きした覚えがない技、理想が聞いて呆れる力ね……でも、だからこそ」
「ぅわっ、だ、大丈夫?」
どこか内臓を痛めたのか、かなり体力を消耗して憔悴した様子で――見るに重傷のアイリーズに、ホロロは慌てふためいた。相手が煌気により回復するさまを見て、一旦は安堵した。
「甘いわね。トドメを刺せたのに……これじゃあ、ワタシの負け――」
何かを言いかけて、アイリーズが血相を変える。その口から「あっ」と詰まったようにこぼれる。平常心を失い、その佇まいからは露骨に落ち着きがなくなる。
「……どうしたの?」
「あら、ちょっと……困ったことに……っ」
水色の髪を束ねていた髪紐が、立ち上がる拍子に千切れたのだ。
アイリーズにとっての『髪結い』は裏人格を抑え込み、表人格を定着させる強力な自己暗示として機能している。過程はどうあれ、解ければ裏の人格の出現を許してしまうことになる。
事情を知らないホロロは、唐突に悶え始めた相手を見ているしかない。
「あの、何か様子が変だけれど……ほ、本当に大丈夫?」
「まずい、に……逃げなさい!」
切羽詰まった声で、ホロロは怒鳴りつけられる。しかし手遅れだった。
半端に吊られた糸人形のごとく両肩はだらりと下がり、頭も大きくうな垂れる。苦しげな呼吸は、まもなくして整ったらしい。これまで相手が発していた粘ついた声は、滑舌も良く透明感のあるものに変わり、明るく笑い混じりに聞こえてきた。
「……うふふ、あはっ、ははははっ。表の子ったら自分ばかり……ずるいですわ」
あれ、この背筋が凍るような感じは……。
長髪を下したアイリーズの輪郭に、噴水公園の出来事を想起させられて、ホロロは怖気を覚えた。全身から吹き出すように汗が流れる。身体が重くなったように感じて、足も竦んだ。
「……君は一体、誰なの?」
「あぁ。会えた、会えた、ようやく会えましたわ。あなたの身体を包むその煌気を、ここずっとこの肌で感じたいと思っていた……これです、これなのです。有象無象とは異なる巨大な気配……んっ」
うな垂れていた頭が上がる。
おどろおどろしさが消えて品を含んだ美貌は、恍惚とした笑みに満ちていた。
小刻みに震える自分の身体を、強く抱きしめる。それはどこかいかがわしく思えて、それでいて、得体の知れない邪悪な仕草にも思える。見たままの、天使ではない印象がある。
もしかして、僕は彼女に身の危険を……?
自分が本能的に寒心を覚えていると、ホロロは自覚する。
無理に気を引き締めて構えるが、次の瞬間、あっという間に間合いに入られた。
「あっははははっ! すごいぃいいい!」
風の元素化で生み出した空気の塊を、懐に押し当てられる。
急速な圧縮で熱を帯びる、フォトンとも空気とも呼べない曖昧な高エネルギーを炸裂させられて、ホロロはうしろ吹き飛ばされる。背後にあった木々を何本もなぎ倒し、区画の中央に向かって空宙を舞い、地面を跳ねる。煌気がなければ決して生き残れない衝撃に襲われる。
傷は浅くできる、でも、やっぱり気配がわからないと反撃が……!?
どうにか勢いを止めて体勢を立て直そうとするが、その前に追撃される。強烈な蹴り上げを空宙で繰り返されて、森を上空に抜けるまで撥ねられる。一方的に当て身をもらい続ける。
空中を踏み締められる相手に、そうでない彼は上手く対応できない。
「硬い、硬い、硬い! まるで私の攻撃がとおらない! ちっとも壊れない! あなただけが、私を満足させられる初めての人よ!」
アイリーズの攻撃で、ホロロの煌気を完全に破ることはできない。
どれだけ攻撃ができようと有効打は得られない。どれだけ防御して耐えられても反撃はできない。そんな平行線が続く状況に彼女の心は満たされる。とにかく本気で殴ろうが蹴ろうが技を決めようが――決して壊れない相手との戦いに、新たな快感を覚えて発狂する。
「こ、この人は……っ」
「もっと、もっと、もっと! どうか壊れるまで付き合ってくださいまし!」
前方宙返り気味に繰り出されたかかと落としが肩に入る。激しく地上に叩きつけられる。
この人、絶対ヘンだ……。
間際に聞こえた叫びに、ホロロはアイリーズの精神を危ぶんだ。
「っ……ホ、ホロロ!?」
誰かに名前を呼ばれて、周囲に人がいたと知る。ほかウェスタリア代表の全員である。地に伏した状態を見るなり駆けつけたミュートに肩を借りて、ホロロは立ち上がる。
あわせてそれに確かめた。
「ずいぶん撥ねられちゃった……ここはどの辺り?」
「北より中央だ。四人仕留めたから、これから一気に仕掛けるところだ。それより君は……」
理由を尋ねられて、ちょうど答えであるアイリーズが降って現れる。
相手の視線はホロロから、肩を貸しているミュートに流れた。
「べたべた。可愛い女の子ね……あなたの恋人?」
「えっ、いや……」
「愛あればこそ、そう、これが独占欲……何て苛立たしい!」
アイリーズが空気の塊を発射する。
ホロロは狙われたミュートを「危ないっ」と突き飛ばした。二人の合間をすり抜けた空気の塊が、直線状にあった木を粉砕する威力で爆ぜる。彼はこれを見てごくりと生唾を飲んだ。
「ホ、ホロロ、君はまた知らぬ間に……」
「あれ、待って、僕も何が何だか!」
制限時間いっぱいが刻々と迫る。
ウェスタリア代表優勢だった戦況は、裏人格のアイリーズの出現で狂い始めた。