空を駆ける少女、千里眼の少女
結わえられた水色の長髪が、着地の反動で大きくなびく。肩を落とした前屈姿勢から、ゆっくりと頭だけが上がる。四白眼の据わった目つき、裂けたようにつり上がった口角、見るに恐ろしい形相があらわになる。アイリーズの全身からは濃厚な殺気が放たれる。
ウェスタリア代表たちは戦慄した。
なぜ位置を悟られたのか、なぜこれほど早く接近されたのか、なぜこの少女からこれほどにも身の危険を感じてしまっているのか、どれもこれもひっくるめてだった。
「ヒヒッ。アナタ、ワタシと同じにおいがするわねぇ?」
アイリーズがこぼす。まったく動けないでいたとはいえ、誰も片時も目を離した覚えはなかった。速さなのか、能力なのか、あるいは両方なのか――相手がナコリンの背後に立つまで、ほかの九人はおろか、そうされた本人さえわらなかった。
「でも……自分より強い子とは、あんまり手合わせたことがないでしょ?」
べったりと身体を寄り添わせるアイリーズに、横髪を指で押しのけられる。横顔に首をまわされ、意味深に囁かれて、顎から目元までねっとりと頬を舐め上げられる。味わった経験のない濃密な死の気配に、ナコリンの身体はますます硬直する。
「動け、ナコリン! 止まるな!」
ボージャンが一喝する。彼の精神だけは怯んでいなかった。これによって全員が我に返る。木刀、木剣、斧槍、訓練用の矢をつがえた機械弓、それぞれ構えて臨戦態勢をとる。
しかし反撃をするには手遅れだった。
煌気をまとい、アイリーズは前蹴りを繰り出す。咄嗟の防御も許さずナコリンを一撃する。直撃を与えた相手の身体を大きく弾き飛ばして、直線上にあった大木にぶつける。
「ここでは馬もお邪魔でしょ?」
標的を切り替えて、騎乗するボージャンとゴランドルに間合いを詰める。アイリーズは人ではなく二人を乗せた戦馬を狙う。その足関節を踏みつけるように蹴って、一息にへし折る。いななき倒れる戦馬の鞍から放り出されるさまを見届けて、二人から視線を切る。
「まだ少し、拙いかしら?」
挟撃を仕掛けてくるティハニアとキュノに、すでに気づいている。アイリーズはキュノと相対する形で地面を蹴る。挟撃の時間をずらして二対一ではなく一対一の状況を作る。挟撃にかかった位置がやや開きすぎている、二人の詰めの甘さに付け入る。
煌気を発動したキュノと当て身で応酬する。相手のそれが自分のそれよりも練度で劣ると二、三手交えて感じとる。干渉余波によって削れる煌気の量の違いから、能力者としての力量差も把握する。並行して、挟撃に追いついたティハニアから背後に仕掛けられる。
「失策と知ってなお健気、まぁ可愛らしい」
アイリーズは片手の中に高密度の煌気の球体を作る。その次の拍子、煌気を空気に変質させる――『風の元素化フォトン』の能力によって、その青白い光を無色透明な空気の塊に変質させる。彼女はティハニアの攻撃を避けると同時に、それを放り投げて飛び退く。
「ヒヒッ。……どかん」
呟かれる擬音とは裏腹に、その威力には可愛げなどなかった。
空気に変質して集束力を失う際に、こめられていた煌気の分だけ弾け散る。辺りの木々を根こそぎ薙ぎ倒す、自然災害にも等しい暴風が短時間吹き荒れた。さながら爆弾の爆風を至近距離で受けて、
ティハニアとキュノの身体は紙のように吹き飛んだ。
「……ふざけんなよ。何だって言うんだよ、こいつは!?」
「これがルチェンダート代表の実力かよ……洒落にならないじゃん、まじで」
ジャンゴとブリジッカが警戒を強めて後退りをする。
誰も脱落はしていないが、誰もがはっきりと相手との実力差を実感していた。不測の事態はあって当然と理解こそしていたが、それだけでは足りなかったとも――。もしかすればたった一人を相手に勝てないかもしれない、そう口にしたくもないことが喉まで込み上げる。
それでも、まだ一人は諦めていなかった。
「ワトロッド君!」
名指しした相手に目配せして、自分の意図を伝える。
自己限界の煌気をまとい、ホロロはアイリーズに突進する。ただ速さを求める挙動によって鋭く、避ける隙を与えず身体をぶつける。変わらない勢いで地面を蹴り進み、一騎打ちに持ち込む。
この人はきっと罠だ。ワトロッド君も気づいているはず、とっ……。
九人から引き離すことを考えるあまり、彼は足元が疎かになった。
「ちょっ、ぅわっ!?」
50メィダほど突き進んだところで、木の根に足を引っ掻けた。そしてアイリーズを巻き込んで、ちょうど森の開けた場所に転倒して抜け出る。ふと顔面が何か生暖かく柔らかいものに埋まっているように感じれば、嫌な予感がして、はっとせずにいられない。
そう、そんな風に、偶然とはいえ押し倒してしまっていた。
「……ヒヒッ。可愛い顔をして、意外と強引なのねぇ?」
「ご、ごめっ、わざとじゃ……ぁだっ!?」
慌てて身体を起こした隙を狙われた。仰向けの姿勢から柔軟に後頭部を蹴り飛ばされる。後遺症も危うい一撃であったが、煌気だけは解かずにいたから弾かれるだけで済んだ。
「有利な位置を放棄してまで、そんなに必死になって謝らなくてもいいのにぃ……ねぇ、久しぶりに再会できたのだから、少しお話でもしましょうか?」
「久しぶり? ……どこかで会ったかな?」
倒立して身体を捻る。アイリーズが器用な身のこなしで立ち上がる。
相手と同様に立ち上がると、ホロロは疑い深く返した。
「この髪の色は忘れちゃった? ほら、街の噴水で会ったじゃない?」
「噴水って……あぁ! 僕の鼻を舐めた、あの!」
「……その覚え方は、ちょっと嫌ねぇ」
低姿勢で踏み出したアイリーズが、目算にして15メィダの間合いを詰めてくる。
相手の攻撃の予測をいくらか立てるが、ホロロはそのすべてをくつがえされた。それがあまりにも突飛であり、あまりに見事な動きであったから、思わず見入ってしまい対処が遅れた。
その途中から、相手は空中を踏み締めて駆けてきた。
減速もないまま、時には左右に反復しながら跳躍して、時には宙を掴んで姿勢を変える。長時間、着地もせずに縦横無尽な挙動ができる彼女の能力は、およそ初見の相手には反撃を許さない。
空中を走っている……!?
まさか、あんなにも早く接近されたのは……。
「ねぇ……空中戦って、したことある?」
逆さまに降りてきたアイリーズから、ホロロは当て身をもらった。
×
時間を遡ること試合開始直前。ルチェンダート代表側の防衛拠点。
一発目の花火が打ち上げられたあとで、防衛目的である旗を隠した砦の前に代表たちは集合した。今一度だけ、彼らは今回の作戦を再確認していた。とはいえ頭には十二分に入っているから、大半はもう聞き流す程度だった。
「……で。あたしの目を使って相手を見つける。相手の出方次第でこちらも布陣する。ここまでは、まぁいつも通りね。少し違うのは、本人たっての希望で、アイリーズが奇襲を仕掛けること」
ルチェンダートの指揮を執るロロピアラは、アイリーズに「けれど」と続けた。
「本当に一人で行く気なの?」
「お願い。少し確かめたいことがあるの。わがままを許してねぇ」
普段は人に恐怖を与えるだけの顔に、今はどこか神妙な面持ちが見えた気がした。
「わかったわ。それで……目的は例の男の子だな?」
「ヒヒッ。ばれちゃった」
「そんなに心配はしてないけれど、でも気をつけてね」
試合開始を告げる二発目の花火が打ち上げられた。
ロロピアラは煌気を発動すると、そのすべてを左目に集中させた。左目に宿った特殊フォトン――『千里眼のフォトン』を発動させる対価に、身体の全神経をその一点に注いでいた。
千里眼とはいえども、直接その現場を見る能力ではない。どちらかといえば透視に近い。発動中は左目の視力が上がり、能力者の意志で万物を透視できる。最大有効範囲は視力の届く範囲で、これは練度しだいで上下するために際限がない。現在の彼女の練度であれば、およそ3000メィダほどが有効範囲になる。ならば面積が1000メィダの森林区画を見るには十分だろう。
時に、ルチェンダート代表が神樹教過激派の動きを把握することにも、この力は役立っていた。
「東側から来る。ああ残念、人は分けていないみたい。個別に潰せたのに」
「小さい男の子がいるでしょう? ワタシのお目当てなの」
「ん、小さいの?」
隣で指示を待つアイリーズに催促される。どんな男なのかと、ロロピアラはつい気になって探す。もっとも背丈が低い男を凝視して、彼女は好奇心に祟られる。
千里眼の能力の欠点を引き出してしまったのだ。
「あ……あれはっ!?」
その欠点とは、透視の調節が難しいことである。透視は万物に有効で、当然ながら衣服も例外ではない。力加減を間違えれば、見たい対象まで透視してしまうし、見たい対象の見たくない部分まで、うっかり見てしまうこともある。今回の失敗は後者にあたる。
もっとも、本人が満更でもなければ話は別だろう。
「し、神樹サイズ!?」
ぶっ、とロロピアラの鼻から血が吹き出る。
「ロロピアラちゃぁん。一応聞くけれど、どうしたのぉ?」
「何でもないわ……アイリーズ、あなたって見る目があるのね」
「えぇ? ちょっと何を言っているのかわらないわぁ」
若干、悦に入った表情を残して、ロロピアラは本題に戻る。
「東側から来るよ。全員いるからね」
「そう。なら行ってこようかしら」
聞いたアイリーズが、煌気をまとって跳躍する。一歩、二歩、三歩……段々と空宙を踏み締めて、森を空に抜ける。湿気のない風を切って、緑の海を眼下にして駆けていく。
最後まで見送ったロロピアラは、祈るように呟いた。
「……頑張るんだぞ」




