紅茶の味
異常に高まった熱気が、クリーム色の髪をした幼い少女の色白肌を、真っ赤に焦がしている。
「や、やめて……やめて、お父さんを殺さないでぇ!」
倒壊寸前の燃えさかる家屋の中に、その少女の悲痛な声は響いた。
熱気で喉を焼かれようが、叫ばずにはいられない光景が目の前で起こっていた。見る影を失って、赤々と染まる居間では、心臓を剣で貫かれた少女の母親が、こと切れて横たわっている。
そして、今しがた剣を構えた大男が、少女の父親までも殺めようとしていた……。
「に、逃げなさい……早く!」
「お父さんを離して、お願い、お願いだから!」
大男に首をわし掴みにされた少女の父親が、声を振り絞る。すでに自分の身は諦めたような、娘の安全だけしか考えていないような、必死な顔がそこにはあった。
子供ながらに父親の心中を察した少女は、大男に命乞いをした。これに返されるのが無言と冷たい視線であれば、当惑せずにはいられない。
それでもなんとかしなければ、という思いで父親を助ける手段を探し、足元に落ちていた一振りの剣を目にとめた。
飾り物として屋内におかれていたものだった。
これぞとばかりに、少女は剣を拾いあげ――剣の柄を握った途端、手に激痛を覚えた。
その剣が高熱を帯びていたからだ。
「ぁあああっ……お、父さんをはなせぇっ!」
少女は手放してしまいそうになるのを必死にこらえ、大男に剣尖を向ける。
睨みをきかせて、生まれて初めての敵意を、声にこめて放った。
とはいえ七歳の身体には真剣も重く、ましてやその高熱、かろうじて構えるのが精一杯だった。
「……俺にそうやって剣を向けるならば、お前も俺の敵ということになるが?」
「ぅひっ……」
大男の睨み返しに、少女は震えあがるが、剣は下げない――下げられない。
「そうか……」
次の拍子、大男が父親の心臓を剣で貫いて、まざまざと見せつけるように引き抜いた。刺傷からは少量の血飛沫、あるいは多量の出血がある。
茫然自失となる少女は、大男が手放した父親の身体が、力なく崩れ落ちるさまを見た。
こと切れていた。
「お父さん……?」
「憎いか……俺が憎いか?」
「い……や……いやぁぁぁっ!?」
「帝国と連邦はふたたび開戦するだろう……俺はその時、必ず帝国側の戦場にいてやる、お前がくるのを、待っていてやる! 悔しかったら、お前も戦場にこい!」
大男が泣き叫ぶ少女の胸倉を掴みあげ、あわせて怒声を張りあげる。
少女の目をまっすぐに見据え、決して消えない記憶を刻み込むように、言い放つのだ。
「悔しかったら、その手で俺を殺してみせろ!」
※
六月三十一日。
ウェスタリア国の首都郊外に建てられた組積造の古びた邸宅は、夕暮れ時の日差しを浴びて、茜色に染まっている。二階にあるバルコニー席では、ミュートが味のしない紅茶を舌で転がしていた。
彼女は今朝からずっと、ネグリジェの上に薄手のカーディガンを羽織ったままの恰好だった。
常日頃から人前では凛としていて、身だしなみにも抜かりのない彼女であるが、自宅の中では少しばかりずぼらな一面も持ちあわせているのだ。
「あぁ、お嬢様……今日はとうとう、かような格好のままで……嘆かわしい限りでございますな」
バルコニーの脇で控えていたプロイナフ=キュスタールが、嫌味を言って嘆息した。
襟足を刈りあげてすっきりとした、つやのない黒の短髪。小じわが束なった、糸のように細い目。頬がこけていると、面長の顔はやたらとそう見える。
上向きに癖のついた口髭はいかにも――という印象だろうか。人よりも手足が長い身体には、きっちりと採寸した燕尾服を常衣していた。
たたずまう姿勢もよく、九十歳という年齢にしては若々しい。
そんな彼はミュートの執事であり、彼女の幼少時代の剣術指南役でもあった。
「構うものか、ほかには誰も見ていないのだから。それより茶菓子が欲しいのだが、何かないか?」
「はぁ……これだからお嬢様は、未だにボーイフレンドの一人もいらっしゃらないのでは?」
かさねられた嫌味が気にしていたことだと、口に含んだ紅茶を噴きこぼしてしまいそうになった。否定の言葉も、ミュートは自然と語勢が強くなっていた。
「ひ、必要ないだけだ! いいから何か探してきなさい!」
「かしこまりました」
歯をむき出す主に一礼して、プロイナフが外す。
上級騎士の家の養子として育ったミュートは、昨年に故郷を離れて、ウェスタリアでプロイナフと暮らしていた。
なぜかといえば、ウェスタリアの騎士養成学校に通うため、これに理由は尽きるが、彼女といえば三日前から登校をサボタージュしている。
「何をやっていたんだ、私は。あれでは……あの男のやったことと、何も変わりないではないか」
腰かける椅子の背もたれに、どっかり身体をあずけて、三日前の出来事を思い返した。
己が手にした木剣で、あきらかな善人を感情のままに打った。
この罪悪感もろもろで気が伏せって、引きこもってしまっていた。
謝罪をするにしても、私は何を言えばいい、どう償えばいい……。
そもそも、どんな顔で謝罪をするのか……。
それも自分から打っておきながら……。
人との関わりあいを極力避けて生きてきたために、ミュートはどれだけ考えても、こんな時の振る舞い方がわからない。そうだからこそ、ということでもあったのだ。
少しばかり早すぎるだろうか、プロイナフが戻ってきた。
「お嬢様……お客人がいらっしゃっていますが、いかがいたしますか?」
「……客人?」
「はい。ホロロ=フィオジアンテと名乗る方が」
「……え!?」
ミュートは椅子を鳴らして立ちあがった。
プロイナフに案内させて、客間にホロロをむかえ入れる。
ミュートはこの客間の窓際から、屋外を見やったままだった。完全に背中を向けてしまっているため、ホロロが今どのような顔色をしているのか、彼女にはわからない。
また逆を言えば、ホロロにもわからない。
「それでは……どうかごゆるりと」
含みのある言い方で去り際に残して、プロイナフがそそくさと退室する。
嫌な静けさだ……。
情けない、客人が来たというのに、挨拶一つする勇気がだせない……。
どうしてだ、君は何をしにここへ来たのだ、ホロロ=フィオジアンテ……。
わずかな衣擦れの音さえも聞き取れてしまいそうな静寂の中に、彼女は思った。
沈黙のまま立ち尽くす二人きりの時間は流れて、いたたまれない雰囲気が膨らんでいった。
「えっと、あの……」
「待ってくれ! 先に……先に言わせてくれ」
やがて意を決したホロロが、話しかけようと声を出して――ミュートは反射的に声を張りあげて、その先の言葉を強引に制した。
これまで罵倒や拒絶を恐れて押し黙っていたが、なんとしても自分が先に言わねばならないとも考えていた。
それは、わがままだった。
「……すまなかった!」
ミュートは向きなおると、ホロロに大きく頭を下げて謝罪する。
何と返されてもいいように、覚悟を決めていた。姿勢をそのまま、両目と口を堅く閉じる。仕返しの暴力にも潔く応えられるように、代償をいつでも払えるようにもした。
「……ミュートさんって、自宅だとそんな可愛らしい格好をしてるんだね」
聞き間違いではない。返事は罵声の類ではない、褒言葉だった。
ミュートはこれに面を食らう。うわずってしまった声を強引に飲み込んででも、その真意を尋ねずにはいられなかった。
「き、君は……私に罵声をあびせに来たんじゃないのか!?」
「いや……どちらかというと、仲直りに」
向けられる表情が、怒りとほど遠い微笑みであると、ミュートはますます混乱する。
「しょ、正気か君は、だって……はっ、まさかあの時の打ち所が……?」
「ち、違うよ、ただ心配だったんだ……あのあと学校に来なくなるんだもん」
「心配だと?」
「だってミュートさん……僕を打つ時、すごく不安な顔をして震えてたから」
なんだ、それは……。
怒るでもなく、軽蔑するでもなく、心配した……?
私はどんな顔をしていた、またあの時のように震えていたとでもいうのか……。
ミュートは無自覚に醜態をさらしていたことを知り、そう自分自身に失望した。善人を打ちのめしたにあき足らず、身の内の奥底に隠していた弱さまで露見させていたのだ。
なぜ、君はあんな仕打ちをされて、寛容なままでいられる……?
あれだけ自分の弱さに打ちのめされて、なぜ笑っていられる……?
その心の強さはなんなんだ……。
そう思い遣ると、彼女はホロロに問い質さずにはいられなくなった。
「ホロロ=フィオジアンテ、君は!?」
「ミュートさん!?」
ずかずかと足音を鳴らして、ミュートはホロロに詰め寄る。
床の引っかかりに足元を取られるも、心のおもむくままに進めば、足をもつれさせて然りだろう。この勢いあまって転倒する拍子に、小柄なホロロをあっさりと押し倒してしまった。
それでも体裁に構うことはない。
知りたいという欲求を満たそうと、彼女は彼の胸倉を掴んだ。
「君は……君は、あの時の私を見て、何を考えていた!?」
異性との密着にあわてていたホロロだったが、ミュートのまなざしが真剣なものだとも感じると、すぐに気持ちを改めた。はぐらかそうなどとは、彼も思えなかった。
「――――――って……」
照れ臭そうにホロロが話して、その目と鼻の先でミュートが目を丸くする。
言葉が途切れようと、二人は見つめあって動かない、動けない。
息を殺し、馬乗りになっていることも、あるいは――なられていることも忘れていた。心の内側にある当人たちさえ知り得ない何かが、惹かれあおうとしていた。
「……失礼。お嬢様、お茶をお持ち……やや、お邪魔でしたかな?」
プロイナフが客間にお茶を運んできたのは、ちょうどそんな時である。ノックもなければ、返事の確認もなかった。まるですべてを承知の上であるかのような、さり気ない入室だった。
ホロロの上から飛び退いて、ミュートは「あひゃぁぁぁっ!?」と絶叫する。
我に返って顔を紅潮させると、客間の適当な物陰にうずくまって消沈した。亀が甲羅に引きこもるがごとく微動だにせず、起きあがったホロロから呼びかけられようと、返事も返さない。
「あ、あのぉ……ミュートさん?」
「申し訳ございません。今日のところは、これでお引き取り願えますかな?」
歩み寄ろうとするホロロを、プロイナフが引き止める。
「あぁ……はい、わかりました」
仕方がないと了解したホロロが、プロイナフに見送られて邸宅を去る間際に言い残した。
「明後日は……ちゃんとおいでよ」
客間の窓縁から頭半分だけ覗かせ、小さな背中をぼんやりと見やる。胸の奥で心臓が激しく脈打つ感触をどこか心地よく思って、ミュートは呟くのだった。
「そう……しようかな」
すっかり日も暮れて、空には無数の星が浮かぶ。
ミュートはバルコニー席で物思いにふけっていた。
この三日間に悶々と考えてきたことが杞憂以外の何でもなかったと、そう遅れて実感が湧き、脱力してもいた。
「紅茶をどうぞ」
見送りから戻ったプロイナフが淹れる紅茶に、ミュートは「……ありがとう」と手を伸ばした。
覗き込んだカップの内、カラメル色をした液面に映ったさまから、情けない表情をしていると自覚する。
軽く息を吹きかけて波打たせようと、凪いだところで何ら変化はなく、そうであれば見間違いでもないらしいと諦めた。
今の私は、たぶんどうかしている……。
自惚れを知ったからか、自分の心の弱さを知ったからか、あんなことを言われたからか……。
どうにもわからないな……。
あれこれ考えて紅茶を口に含むと、彼女はすぐにプロイナフの顔を見やった。
「……どうかなさいましたかな?」
「プロイナフ、紅茶の種類を変えたか?」
「いいえ」
「そうか……美味しいな、この紅茶」
2017/4/1 全文改稿。
2018年1月12日 1~40部まで改行修正。