まぼろし
十月十六日。
ホロロは当日の訓練に身が入らなかった。
まったくそれに尽きてしまうわけではない。その笑顔が視界に入る度に、その明るい声が耳に入る度に、今まで見聞きした覚えがない様子のミュートを感じる度に、短い時間そうなった。
決まって一つのことを思い返していた。
昨日の深夜、自室で就寝していた時に、ふと彼女の声を聞いた気がした。同室のジョンは熟睡しているように思えて、一人で確かめに向かった。ほどなく、何か辛そうにしている彼女を見つけた。
煌気化ができなくて、思い悩んでいるのかな……?
近況を観じてそう憶測した。おおむねそのとおりであるが、本当の理由と意味は異なった。唐突にすがりつかれた瞬間、自分がかけた慰めが的外れだったと気づけば、それ以上は言葉が出なかった。自分の甲斐性のなさに呆れると、ならせめてもと、彼女を黙って受け入れた。
「ありがとう。突然すまなかった。もう、大丈夫だ……いつもの私でいるから」
泣き止んで離れたあとは、言葉どおりだった。顔つきも声色も普段の凛とした調子に戻っていた。むしろ何ら屈託もなく、機嫌も良さげで、付き合いが浅い誰かなら、それが普段の彼女だと誤解してしまうほどに――。
交流を持ったのが最近とはいえ、一年生の頃から見てきた。
能力者としての素質も才能も、ほかの生徒たちより頭一つ抜けていた。態度はそっけなく、いつも近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。目上を相手にしても物怖じしない、気丈な性格をしていた。平気で人を痛めつけるような、心に闇を飼っているように感じた。
しかし実際は、年相応の喜怒哀楽を持っている女の子だった。
「あんな風に……笑う人だったかな?」
だからホロロは、ミュートが平常でいると思えなかった。
話しかける機会を何度見過ごしたか、覚えていない。あれほど辛そうにしていた彼女が、無理やり明るく振る舞っているとしたら、何もわからないまま迂闊に掘り返せば、傷つけてしまわないか――彼は恐れていた。それでも彼女を心配する気持ちが勝って、やはり聞かずにもいられなくなる。
訓練を終えて宿に戻ると代表たちは解散する。これから夕食までの半刻は、入浴を済ませるなり、自室で休むなり、誰かと雑談するなり、自由に過ごしても良い時間になっている。
「ミュートさん」
人気のない階段を上っていくミュートを、ホロロは追いかけた。
ちょうど踊り場に差し掛かって、その背中に呼びかける。足を止めてはもらえたが、振り返ってはもらえない。放っておけないから、何か不安だったから、そう何が言いたくて呼び止めているのかも曖昧であると、また言葉が出なかった。
すると彼女の方から、彼は先に言われた。
「……そうだな。君のことだ、いや、こうなるとはわかっていた」
自嘲するような声で前置いて、ミュートが続ける。
「忘れてくれ、というのは無理な話だろうな。でも、身勝手で悪いが、どうか昨日のことについては聞かないで欲しい。君の胸にだけしまっていて欲しい。それで、今までどおりに接して欲しい」
「本当に、大丈夫なの?」
いつか大丈夫じゃなくなる気がする、とホロロは言葉と裏腹に感じていた。
「どうだろうな……正直に言うと、少し自信がないんだ」
「だったら……僕で良ければ何でも言ってくれたって」
「すがったことは事実でもいいんだ。無かったことに、まぼろしだとでも思ってくれ」
「そのまぼろしが現実にならないって、言いきれないんでしょう?」
「……やっぱり君は優しいな。そうやって優しいから、最近は君が少し嫌いでもある」
冗談めかした口調に聞こえても、ホロロは少なからず衝撃を受けてしまった。
思わず「えっ!?」と声を詰まらせた。
「そういうのは、今度ルナクィンの奴にしてやるといい。きっと喜ぶだろうから」
振り返ったミュートが、屈託のない笑顔を見せて言った。
「いつでも、いいからね?」
返事も相槌もないまま、ミュートが場をあとにする。
階段を上る足音が上へ上へと遠ざかった。虚ろに反響していたそれは、やがて屋内の雑音に紛れて消えた。そこから想像できる彼女の足取りは、とても軽いものとは言えなかった。
最後まで聞き届けたホロロは、少し脱力したように後退りをする。背にしていた木壁に当たると、もたれたままずるずると座り込んだ。そして頭を抱えて小さく唸った。
どうしてだろう……。
あの最後の言葉、何だかものすごくひっかかるなぁ……。
なぜなのかは、はっきりと自覚できない。
「何だか良くわからないけど……気持ちが悪いや」




