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お菓子の世界の住人

 

 十月八日の日づけを跨ぎ、しばらく過ぎた頃。


「甘い国からやってきたぞー、虫歯なんて怖くないー、ぼくのせいだけにするなー、虫歯になる時はなるのだぞー、ただし歯磨きは大事だぞー、ルンルルンル、らんららんら……」


 宿の演習場で個人的な煌気化応用訓練を終えて、部屋に戻る途中のことだった。人気のない廊下に奇怪な鼻歌を響かせて、弾むような足どりで歩いている、そんなティハニアのうしろ姿を見かけた。ホロロはその普段の内気な印象を、今の彼女に微塵も感じなかった。


 こんな時間に、あんな楽しそうに、というかその歌って何……?


 一先ず自分のことを棚に上げて、興味を引かれるままあとをつける。道迷いもなく、従業員専用の暗い廊下を進むことになる。万が一に用心して気配を隠すと、彼は付かず離れずの距離間を保った。やがてティハニアが照明のついた部屋に入る――近くに寄ると入り口に『調理室』と案内が下がっているのが見えた。


 待ってもなかなか出てはこず、彼は気になってそっと中を覗き込んだ。


「らんららんら、ららーん、大好物のマフィンちゃんーだぞぉ、卵とお砂糖かき混ぜるぞぉ、今だ、君の出番だぞぉー生クリームゥだぁあああ! ぐぅーる、ぐるぐるぐるぐる……」


 またも奇怪な、歌の音頭にあわせて踊りながら、ティハニアが料理をしていた。


 丸底の鉢に卵、砂糖、生クリームと少量の油を慣れた手つきで投入して、泡だて器でかき混ぜる。それをする彼女の表情は、幸せに満ち足りた、と言い表してもまだ足りないだろう。くねくねと腰を左右に振るさまは、まるで童話の乙女の身のこなしである。


 うわぁ、何かやばいところに来ちゃった! という驚愕をホロロはどうにか胸中に押し止めるが、見てはいけないものをうっかり見てしまった気分で、あまりの衝撃に油断も過ぎてしまった。


「紅茶の茶葉を、ぱらぱらー、チョコレートをぱらぱらー、もう一回だぞぉー、ぐぅーる、ぐるぐるぐるぐる……ああ、世界がお菓子でできていたらいいのになぁ……あひゅっ!?」


 踊りの振りつけで振り返ったティハニアと、ホロロは目が合った。


 彼女がびくりと肩を震わせれば、彼もびくりと肩を震わせる。


「あ……あの、えっと、こんばんは」


「こ、こんばんは……どこらへんから、見ていたの?」


「そ、そんなに見てないよぉ?」


 無意識に目が泳いで、ホロロは嘘を見抜かれる。


「どこから、見ていたの?」


 顔を真っ赤に涙目で追及されると、まさか二度はできない。


「らっ……ららーん、大好物のぉ、マッフィンちゃんだぞぉ? 卵とお砂糖かき混ぜ……」


「ほぼ全部だよぉおおおっ! うぅうぅうううっ!」


 泣いてしまうも、せめて恥の上塗りはすまいと声をこらえる。無理やりに唇を結んで、すると頬はどんぐりを蓄えたリスのように膨む。余計に恥ずかしくなって涙が大粒になる。料理の手は止まっておらず、それが材料の中に落ちて混ざり込む。余計な塩分が加味されていく。


 たしかに、泣き喚かれても困る。


 しかし自分が原因で料理に失敗されても、ホロロは困るのだ。


「ごめん、ごめんなさい! しょっぱくなる!」




 チンッと焼き上がりを知らせる音が鳴る。


 ティハニアがオーブンの戸を開けると、香しい香りが調理室内に充満してホロロの食欲を誘った。彼女が作っていたのはマフィンだった。耐熱容器に小分けにされた色白い生地は、数十分ほど加熱をすると茶色に膨らみ、その容器からはみ出さんばかりの姿で現れた。


 それは彼女の手で仕上げの粉砂糖を振りかけられて、完成した。


「どうぞ……あの、熱いから気を付けて」


 部屋のわきにあった椅子を持ち出し、自然と調理台を挟むように座る。


 焼き上がるまでは終始無言だった。調理台の面積は心の距離だと思えばいたたまれない。それでも夢見がちな少女の震える手がマフィンの乗った皿を差し出すことにより、ようやく静寂は途切れる。焼きたてのお菓子を試食するという、この上ない会話の材料が生まれたからだ。


「ん……おいしいね、これ」


 硬かった頬をほころばせて、ホロロは素直に告げる。


 手に取り、かじり、味わい、喉をとおす。一連の動作を上目づかいに眺められると、気詰まりするような気持ちにもさせられるが、そのすべてを帳消しにする美味しさに感心する。


「本当? あぁ、よかった……今まで人に食べてもらったことなんて、なかったから」


 安堵の息をこぼすティハニアの視線は、まだ少し落ち着きなく右往左往した。


「本当だよ。それにしても、どうしてお菓子作りを?」


「これは、その、精神安定みたいなことで、駄目もとで宿の人に頼んだら許してもらえて……」


 訓練が始まってから一週間が過ぎる。


 大きな変化といえば、ボージャンとキュノが煌気化に成功したこと、ホロロとナコリンが体外での練気に成功する兆候を見せたことである。


 先の二人は、煌気化の訓練に着手していなかっただけで、もともと足りうる実力はあったのだ。ただ前者は力ずくの発動であることに対して、後者は力不足を器用さで補っている節があった。


 力ばかりでは調節の精度に欠けるし、調節ばかりでは力に欠けるだろう。


「強固な意志か……なるほど。俺は漢である、と俺は今まで無意識に考えていたわけか。煌気化してみれば納得だ! そうだな、俺は漢であるべきだ!」


「小難しい」


 強固な意志にせよ、才能にせよ、彼らの煌気化成功は紛れもない事実である。基礎能力の底上げに進歩が見られたことは、チームとしては非常に喜ばしい。それでも、だからこそ、残る四人はさらに重圧を背負い、足枷になる自分を想像すると焦りもした。


 ティハニアはこれが特に顕著だった。


 普段から困り顔でいることが多い彼女は、見た目どおり内向的な性格をしていた。常に否定的かつ消極的な思考を絶やさず、それば病的とも言えた。そこに前途の焦りまで覚えてしまうと、集中力を欠いて練気もままならなくなった。


 そして、それすらできない自分に焦り、繰り返した。


 七回目の煌気化の訓練も、結局は失敗に終わる。


「……十歳の時に親元を離れて、隠密として修行をしていたの。弱虫で才能もなくて、いつも泣いてばっかりいて……唯一の心の支えが趣味のお菓子作りだったんだ。それだけは許してもらえて」


 隠密の家系に生まれた者は、しきたりから隠密としての人生を宿命づけられる。


 マッフィン家もこれに漏れず『里』と呼ばれる隠密養成施設に、当時十歳のティハニアを預けた。連邦政府が運営する施設、退役した隠密が運営する施設、里には大きく二種類あって、彼女が修行を積んだのは後者の施設だ。


 ――読書とお菓子作りが趣味の、ただの少女が一人。


 ある程度は事前に親元で修行を積んでから里に入る、それが通例である。しかしマッフィン夫妻はどうにも過保護だった。娘を隠密にはさせまいと、しきたりに背こうとした。


 ただ娘が親類縁者から白眼視される将来を思うと、夫妻は苦渋の決断をしていた。そもそも里に入れる気がなかったから、事前の修行などあるはずもなかった。


 良かれと思っての過保護が、結局は娘に苦痛を強いたのだ。


 とはいえ悪いばかりでもなかった。隠密としての気構えも実力も皆無だったからこそ、彼女は里の首領の目に留まった。それに言わせると、彼女は純白だった。修行も何も積まず里に送られてきた、まったく癖のない状態で送られてきた、珍しい子供だった。


 ほかの指導者が手出しをしようとする前に、


『あの娘に指導することは許さぬ。あの娘はわしが直々に染め……いや、指導するんじゃい』


 と依怙贔屓も甚だしい宣言がなされて、首領の指導の心血は彼女だけに注がれた。


 いつまでも、本人の意思とは無関係のままに。


「だからなのかな……こんな心の逃げ道を作っているから、いつまでも自分と向き合えない。自分の志がわからない。戦争を止めるために頑張らないといけないのに……頑張りたく、なくなっていく」


 ふたたび落ちた涙は、先ほどとは違う意味がこもっていた。


 それを察したホロロは、どこか自分と似た節のあるティハニアに、身の上を話そうと思い立った。決して悪いことではない、自分のような人間もいる、そう伝えて少しでも励まそうと考える。


「帝国にいるらしい兄さんと、もう一度会うために……最初はそう思っていたんだ」


 いつか連邦と帝国の人たちが仲良くできる世の中を……。


 そう考えて、ホロロは優しい騎士を志したはずだった。


 今は当初の意味を見失いかけている。いかに甘く考えていたのか、いかに途方もないものを目標にしてきたのか、いかに身の程知らずの無知だったのか、この三か月に、特に先日の過激派神樹教との戦いに痛感させられた。


 なぜ自分は相手を殺さないのか、なぜ自分は自分を犠牲にしないのか、なぜ自分は誰も死なせないのか。こうした綺麗事を自分一人が貫いたところで、本当に連邦と帝国が和睦するのか。自分の力が及ばない時があれば、身勝手な理想のために犠牲者を増やすだけではないのか――


 発展途上でも力をつける感触を覚えれば、彼はそう考えるようにもなった。


 一度は理解したはずの志の解釈が、敗北により揺らごうとしている。


「少女趣味だねって僕を笑った妹の気持ちが、今なら少しわかる。でも、まだ諦めたくないっていう気持ちも残っている。宙ぶらりんで、見っともないけれど……ティハニアさんは夢ってある?」


 打ちつけの問いかけに、ティハニアの答えは無意識なものになった。


「お……お菓子屋さんとか、かも?」


「ならきっと今はそれを思ったらいい。受け売りだけれど、強固な意志は場の勢いというか、自分の手が届きそうなものを強く思えばいいんだ。いつか戦争が終わったなら、君一人くらい隠密の道から外れてもいい、そんな世の中になるといいね……もう少しだけ、みんなで頑張ってみよう」


 自分にも言い聞かせるように、ホロロは言葉を結んだ。




 夜が明けて、八回目の煌気化訓練が行われた。


 これまでが嘘のように、ティハニアは自然と煌気化にいたった。


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