兄がつけた名前
自分に名前をつけたのが兄だと知ったのは、五歳の時。
――八年前。
先代の神樹の巫女が亡くなった日の晩、私は原因不明の高熱を出し、病院に運び込まれた。そこで判明したのは、私に樹魂のフォトンが発現した、ということだけだった。
数日すると治まった熱は、生まれつき私のからだに潜在していた力が目覚める、副作用だったのだろう。
この事実を知った両親と兄は、困惑していた。
巫女の条件である深緑色の髪は、たしかに物珍しいけれど、父もそうだったし、兄もそうだった。聞けば国内にはほかにも、たくさんではないけれど、指折り数え切れないくらいには、いるらしい。
だから、私にそんな力が宿っていたとは、親類縁者も思わなかった。
発現から一週間もなかった。
神樹教の人間が、大金を持って訪れ、家の敷居も跨がず、まず端的に言った。
『あなた方のご息女を、どうか我が教団の新たな巫女に……』
私は巫女になった。
唯一、反対を声にしたのが兄だった。しかし言っても、十二歳の少年の意見は、大人にしてみれば子供の駄々としか受け取られなくて然り。
ただ、後腐れがないようにと配慮されたのか、兄は三日の猶予をもらうことまでは、どうにかこぎつけられたらしい。いま思えば、これが、兄に何らかの決心をさせたのかもしれない。
「わたし……こわい。いつか名前も変わっちゃうんだって……」
「……大丈夫。お前の名前が変わったって、みんなが忘れたって、俺だけは覚えてる。なんたって、お前の名前は俺がつけたんだからな。好きな植物でさ、しってるか? いい匂いがするんだぜ?」
「……ほんとうに?」
「もちろん。それにな、俺がお前を一人になんかしやしない。お前がどんなに偉くなったって、そばにいられるように、強くなるから……絶対、なってやるからな」
二人でそう話した夜が明けて、私はゼオンの大聖堂に居を移した。
五年間、巫女の重責を背負えるだけの能力を身につける時間が続いた。
襲名までは、一般人として扱われるため、時には教育が手荒になることもあった。あの夜に兄が口にした言葉にすがることで、私はなんとか挫けずにいられた。
学と芸が世間一般の大人を上回る頃になって達観すると、子供の口約束、自己満足、強がり……だったのではと、そう思ってしまうこともあった。
それでも頑に信じていたから、兄が本当に従者として私の前に現れた時は、嬉しかった。
あわせて、私は自分がなってしまった立場の重さを、痛感した。
「にいさ……」
「……ミルフィント様、これからお仕えいたします、ロイルズと申します」
兄さん、と呼びかけた声を、私は飲み込んだ。飲み込んで、まるで他人のように話した。
あとから聞いた話では、現役の軍人が逃げ出したくなるような、過酷な訓練を受けていたらしい。そして、巫女の兄という身分を疎まれ、妬まれ、謗られ……そんな仕打ちを五年、五年も孤独に……。
――誰のために、何のために、その名で呼んだのか?
そんなことはわかりきっている、だから、わからない。わかりたくもない。
離れていた五年が長かったのか、一緒にいた三年が長かったのか、冷めた主従関係も板について、いまでは、それが当たり前になってしまった。
気づけば、私は兄さんがどういう気持ちでいるのか、私のことをどういう気持ちで見ているのかさえ、感じられなくなっていた。
あんな気持ちでいてくれたら嬉しいと、こんな気持ちでいられたら悲しいと……あんな、こんな、そんな、どんな……想像をするしかない。
このまま一生、巫女のままでもいい。ままでもいいから、もう一度だけ、兄さんに……。
ただ、それだけ、だったのに……。
誰かの言い合う声が、眠っていたミントの意識を刺激する。
50メィダほど離れたミントの耳にまで、その二人が頭をぶつけ合う鈍い音は届いていた。一方の小柄な少年に、もう一方の長身の青年が弾かれて倒れる様子も、彼女の目には入っていた。
一週間ほど前に少しだけ一緒にいた少年、見間違いようもない自分の兄……。
「ロイルズ……それに、あなたは……?」
ミントの微かな声を、ホロロは完全感覚で拾った。一週間、あの物悲しげな声と言葉が耳について離れなかったから、無意識に彼女の声を探していたのかもしれなかった。
「ミントちゃん! 君、大丈夫なの!?」
肩に刺さった直剣を引き抜いて、ホロロは声を届かせる。
「あなたは、そう、たしか……なぜここに?」
「気持ちが伝わらないなんて、そんな悲しいことは言わないで!」
「あなたは何を言って……まさか? たった、あんな言葉の一つを気にして?」
祭壇は石畳から大人二人分ほど高くて、この上にいたなら広場がどんな状態かも一望できるから、ミントにはわかった。だから、なおさらこんな場所まで来た理由がわからなかった。
「そのような姿になってまで、それを言うために、わざわざ? ……馬鹿な話です」
「ミントちゃん、気持ちはちゃんと伝わるんだ!」
「…………やめてください」
「時間がかかっても、どれだけこじれても、ちゃんと伝わるんだよ!」
「もう聞きたくありません、やめてください……」
「相手の気持ちが目に見えたりしないから、きっと人は人を考えて、優しくもなれるんだ! 僕は、君にそれを伝えたかった! だから、どうか人に絶望しないで!」
その言葉は、まるで子供の戯言に聞こえた。
それでいて、ずっと誰かに断言してもらいたかった一言のように聞こえた。
「だまりなさい! そんなもの、都合の良い一面だけの解釈ではありませんか!」
我を忘れたように、ミントが息巻く。
「誰も相手の気持ちが見えないから、人は人を欺いて、人は人を陰で妬んで、人は人の皮を被って、あの親のように人の所業とは思えないことをする……あなたの言っていることなど所詮は綺麗事ではありませんか!? なら……そんな綺麗事を言ってはいけない身分の私はどうしたら、私たち兄妹は一体どうすればよかったのですか? 正直に何もかも口に出来たら、以心伝心などできたら……」
これを、ロイルズが胸の張り裂ける思いで聞いていた。
「巫女のままで良かったんです。私はただ、もう一度、名前を呼んで欲しかっただけだったのに……もう、こんな気持ちさえ伝わらなくなってしまった、もう、あの頃には戻れない……」
「……それでも諦めないで欲しい。諦めたらずっとそのままだ。君のお兄さんだって、こんなことをしてしまうくらいに君のことを思っている。言葉も身振りもなしに、伝わらないのは当たり前だよ、その気持ちは一度に十なんて欲張らないで、一つずつ大切に、素直に伝えていけたらいい」
ホロロはその妹に願い、その兄に訴えかける。
「ミントちゃんは言いました。ほかの誰でもない、あなたの妹が」
「わた、しは……」
「……ロイルズさん」
重たかった口は、ようやく開かれた。
「私はもっと、お前に甘えて欲しいと思っていた……再会したお前を見て、子供らしさの喪失を受け入れたお前を見て、思いは飲み込んだ。五年も待たせたお前に、そんな言葉を言って聞かせることはできなかった。だが、いつか、いつの日か、私には弱音を吐いてくれないかと……それでも、お前は抱え込んでしまった、もう抱え込むことができる人間になってしまっていた」
仰向けの身体を起こして、ロイルズが声を震わせる。
「気丈に振る舞うお前を見ているうちに、思いは麻痺していった。見守るのだと、耳触り良く自分に言い聞かせて、身分のしがらみに自分から囚われて……楽な方に逃げてしまったんだ」
そしてはっきりと、その名前が呼ばれた。
「ミント……すまなかった。お前が許すのならばもう一度だけ、私のそばで笑ってくれ……この先、一体どれだけの時間がかかるか、わからないが……もう一度、兄妹になってくれ」
「……兄さん…………兄さん」
ミントの頬を伝った涙を見れば、気持ちが伝わるか伝わらないかなど、もう確かめるまでもない。ホロロはこの兄妹が交わした言葉を聞いて、すると無性にウララの顔が見たくなった。
何となく近くにいるから、いつも忘れがちだけれど……。
ウララって僕のことを良く見てくれていて、気づいてくれるんだよな……。
帰ったら、ありがとうって言ってやろう……。
今頃ウェスタリアで朝食にしているはずの妹に、彼は思いを馳せた。
「ロ、ロイルズゥウウッ! 何をやっているぅううっ!?」
しかし、話は良い方に転がるばかりではなかった。
「感傷に浸るのは、やることをやってからにしろと言っただろう!?」
怯えと苛立ちのまじった声で、諸悪の根源が水を差した。祭壇上の装置を下の操作卓で制御して、今までミントのフォトンに干渉していたマカノフだった。
連邦と帝国の学生が現れてから、この時点で木人の数も二千を下回る。
中立軍も勢いづいて、守りの要であったロイルズも敗れた。加えて大砲や投石機、防柵など二人の干渉余波が吹き飛ばしたために、陣そのものの攻撃力や防御力も下がった。過激派側の形勢不利は、火を見るよりも明らかであった。
国への反乱である。失敗に終われば首謀者の死罪は免れられない。
「あの人がミントちゃんのフォトンを操って……やめさせてやる、こんなこと!」
煌気をまとい、ホロロはマカノフを睨みつける。
「ひっ……ロ、ロイルズゥウウッ、そいつを止めないかぁああっ!?」
「ここまでだ、マカノフ……私には、もう戦う理由がない」
「ロイルズゥウウッ!? くぅ、役立たずが……こ、こうなったら」
見限られたマカノフが祭壇の階段を駆けあがり、身動きの取れないミントに短剣を突きつける――見せつけられて、ホロロは踏みとどまった。ロイルズも平静を欠いた。
「マカノフ、貴様……!?」
それがいけなかった。彼女に人質としての価値ありと判断したマカノフが、したり顔で哄笑する。
しどろもどろに吠え散らかされる下卑た声が、広場の全域に響き渡る。
「ふひあはぁああははははぁっ、そうだ、近づくんじゃないぞ吾輩に! お、お前らがもし近づこうものなら、この小娘の可愛らしい顔がぐちゃぐちゃにな――」
言いきられないうちに、たちどころに異変が起きた。
突きつける短剣を持った手が、ぽとりと足元に落ちる。神樹の幹から突如として生え出した触手のような細い枝が、禍々しい黒い煌気を帯びて振るわれたのだ。この痛みに悲鳴をあげる寸前、まるでとでも言うように、触手はマカノフの首をはね飛ばした。
真っ赤な血の雨を降らせて、肥え太った身体がうしろのめりに倒れる。
「えっ……駄目、それは駄目!」
間際、ミントが神樹に呼びかけていたように見えた。
無数の触手が折り重なり、彼女の身体を球体状に包み込んだ。触手と同様の煌気をまとう外殻は、何人をも遠ざける怒気を放った。そこに誰がどれだけ声を向けようと、何も聞こえてこない。
もう一つ異変は起きた。うごめいていた二千の木人が、糸の切れた人形のように崩れ落ちた。その脅威が沈黙して訪れた静寂は、さながら嵐の前のそれであった。
果たして、三体の黒い木人が祭壇上に生み落とされる。
樹魂のフォトンが、真なる猛威を振るおうとしていた。




