思うほどに疑心暗鬼
窓から差し込む月明かりが、小ぢんまりとした私室を青白く色づける。夜の管理局施設には警備の局員しかいなくなるため、昼間にある雑音も響いてきてはいない。その時と場所を選び、右頭であるダグバルムは、客人であるイヴァンと密会をしていた。
「……明日にも過激派は国に弓を引くらしいと、そう密偵から報告がありましたよ」
「あの男か……優秀な犬を飼うと円滑だな。とりわけお前の犬は優秀らしい」
珈琲の芳ばしい香りに、室内の空気が満たされ始める。
イヴァンを横目に見て、ダグバルムはぼやくように告げた。当てこすりのつもりが、取り合われず感心されると肩透かしを食らった気分で、思わずため息が漏れた。この男に回りくどい言い方は通じないらしい、そう諦めもした。
「また人の気も知らずに……あなたの思惑がなろうとなるまいと、事後処理をするのは私なのです。未然に防げなかったのかと国民の信頼を失う可能性もある。対岸の火事も、いざ自宅に飛び火したら文句を言うのが人間というもの。特にこの国の民は、身の危険に慣れていない」
「ものは考えようだ。俺の思惑も叶って大衆に危機意識まで植えつけられる。一石二鳥だろう?」
「はて。このような見返りの少ない一石二鳥は、初耳ですな」
納得がいかないと言いたげに、ダグバルムは呆れ顔をする。
「お前もくどい男だ……子供と大人を引きはがす算段はついているのか?」
挙句にはそう話題を切り替えられる。
呑気な態度で珈琲に口をつける客人に、彼は呆れるほかなかった。
「合宿に参加している国・領は全部で三十。その会場区画の使用日程を一部改竄させました。今後の日程調整のために、明日は連邦のウェスタリア国。帝国のルチェンダート領の教官たちが召集されるでしょう。しかし民衆とともに避難するか、中立軍とともに戦うか、それは子供たちしだい。さて、今回もあなたの思惑はなりますかな?」
「なる。間違いない。煌気がなぜ青白いか知っているか?」
「……わかりかねますな」
イヴァンが凶悪な笑みを浮かべて答える。
「生まれ持った強すぎる闘争本能を、落ちつける色だからさ……」
×
九月二四日。
最奥部に舞台を設ける畳敷きの大広間。
宴会場として客をもてなすこの空間には、人数分の食膳が向かい合わせに並んだ。また少し空いたその相中には、エンの気さくな配膳係が忙しなく行き来した。そのため客人がしらけてしまっても、誰かの息遣いが聞こえるほど静まり返りはしない。
当日の訓練を終えたウェスタリアの面々は、ここで夕食に舌鼓を打っていた。
「あらジョン様、盃が空いていらっしゃいます。それにしても、こちらのお料理は本当に美味しゅうございますね。うす味ながら素材本来の味が生かされた品ばかり」
隣に座るほろ酔いのシアリーザから、ジョンは酌をされる。
丁寧な手つきで注がれる純米酒を見た視野の端に、彼女がすっと目を細めたのがわかった。そこに感じられる純粋な厚意を嬉しく思い、彼は「ありがたい」と礼をそえて盃をあおった。
「……ここそのものが、東の文化に強く影響を受けているよう思えます。ウェスタリアにも風呂など東の文化がいくらか取り入れられていましたが、食はあまり定着していないようだった」
過去と現在を思い比べて受け答えをする。
「まぁ。ジョン様は歴史にお詳しいのですね? たしかにウェスタリアに入浴という文化が広まったのは戦後初期、それまでは水浴びや手拭いでからだを拭く、だったそうですが」
「あぁ、いえ、これは受け売りですよ……ところで、シアリーザ殿も盃が空いておいでだ」
はぐらかすように、ジョンは酌を返した。
剣聖が若返った事実を知る人物は少ない。ネネやジル、関与した平和管理局の右頭と、ほか一部の関係者や工作員のみである。例によって可能な限り伏せるべきであるから、信頼のおけるシアリーザとはいえども不必要に知られてはならない。
無論、剣聖の力を与えるとしたホロロであっても――。
これまで誰も何とも言わぬものだから、気が抜けておったようだ……。
今後はあまり歴史関連の話題は避けた方がよいだろうな……。
不思議がられて初めて、彼はそれを失念していたと自覚する。
「あら、まぁ。ジョン様ったら……わたくしを酔わせて一体どうなさいますの?」
顔をほんのり上気させたシアリーザに、潤んだ瞳の流し目を向けられた。艶っぽい声音で囁かれた意味が上手く飲み込めず、ジョンも思わずぽかんとしてしまった。
「……はい?」
「いやですわ、そのような。それは……破廉恥ですわ」
バルパーレイクの一件以来、シアリーザは時おりこんな調子だった。
出会いから興味を引かれたことに始まり、ヨルツェフのしがらみから解き放ってくれた美青年を、憎からず思うようになっていたのだ。ただし相手にしてみれば事情も知らないし、生徒を助けようとしたのが第一だったし、言わばついでとしか思われていない。
だから二人の気持ちが噛み合わないことは、仕方がないことである。
「ジョン、呑み足りないのではないですか? どうですか? 私もお酌をしましょうか?」
もう一方の隣に座るネネから、ジョンはわざとらしい咳払いをもらう。
冷めた目をして微笑む彼女に、得体の知れない威圧感を覚えた。見ればもう酒瓶は構えられているから、欲していなくとも断りづらい。あまりを飲み干して盃を空け、そそくさと酌を受ける。
「う、うむ、ではいただこう」
「ジョン……ジルも言っていましたが、へぇ」
含みがある調子でネネがこぼす。
「はて、どういうことか?」
「まぁ冗談はここまでにして。生徒たちの様子をどう思いますか?」
耳打ち気味に尋ねられ、ジョンは向かい側で食事をする生徒たちに目をやった。
配膳される料理を黙々と口に運んでいる。たまに会話があっても二言三言で、面識ある兵科同士か学校同士でしか交わされていない。それは仲違いをして見えずとも、決して打ち解けても見えない、まるで他人同士の集まりに感じられた。
「私も良いとは思わぬよ。だが初日にすべてわかったし、伝えるだけのことは伝えてある……あとはあの子たちの心しだい、何か交流が深まるきっかけでもあればな……」
アイゼオンで合宿が始まってから七日が経つ。
これまでの日程は、予定どおり兵科ごとに分かれて各区画で調整訓練が行われた。日没後に入浴と夕食を済ませて以降は基本的に自由だった。交友を深めようと思えばそれなりに時間もあったのだ。
しかし生徒たちの間には壁があった。
開戦の危機の報をもたらされた騎士養成学校は、連邦政府と繋がりが深い、信頼のおけない第一と第四騎士養成学校を除いた六校である。第三と同様にほかの五校は、特別教官を雇うなどして教育の強化を図った。甲斐あって六校は、剣術と馬術の兵科がある第一、体術と弓術の兵科がある第四――二校の独壇場であった選抜大会を勝ち抜いた。
つまり、目論みどおり事情を知った者たちで代表の結成が叶っていた。
しかし、そうだからこそ――。
使者は連邦の各国で動いているから、極論を言えば武闘祭も人任せにできた。しかし誰もがそうであったなら、もう連邦には未来がないだろう。そして、これは誰にも確かめる術がない。
確実に開戦を止めたいなら、ただ一度の敗北も許されない……。
味方はどれだけそう思っているのかと、その気持ちが強いほど生徒たちは疑心暗鬼になっていた。現状で信じられるのは、自分と、実際にその証拠たりえる力をもって戦った相手のみだった。
「やはりですか……それでも代表や補欠に第一と第四の生徒が選ばれなかったのは幸いです。背中を気にするようなことが起きる確率は、ぐんと減りましたから」
「ネネ殿とピコニス殿は、本当に優秀な教官を集めたようだな。特に第八のイクサ殿は素晴らしい。過去にも完全感覚を持った者はそういなかった。暇があれば手合せでも願いたい」
「今回の局員の仕事は一報をもたらして、要望があれば教官人選の助力をすることでしたから。私がジョンやシアリーザさんを口説いたように、ピコニスも上手く口説いたのでしょう」
「思えば、ネネ殿には感謝してもしたりぬ……死ぬような目にはあったがな」
「いや、あれは、その、私も実際の効能を知らなくて……ほらどうです、もう一杯?」
はぐらかすように、ネネがふたたび酌をしようとする。これがちょうど被っていた。
酒瓶を片手にジョンの袖をつまみ、シアリーザも「いかがですか?」と気を引いていたのだ。
「あら……そう、まぁ、うふふ、ふふふ、ふふっ」
ねぇ、譲ってくださいませんか……?
酒乱気味な麗人の顔には、そう言わんばかりに剣呑な笑みが浮かべられていた。童顔の女に反抗を許さず酒瓶を戻させるような、元ウェスタリア王の末裔的な貫禄に溢れて見えた。
酔ってるんじゃないですか、大丈夫ですか……?
今にも殺しかかってきそうな目をしていましたが、大丈夫ですか……?
怯える童顔の女をよそに、主導権を握った麗人がしおらしく酌をする。
「……いやはや、本当に至れり尽くせりですなぁ」
「時に、そう……ジョン様には心にお決めになられた方が、いらっしゃいまして?」
ジョンは「いいえ」と返す。シアリーザの口元が緩むさまを横目に見るも、彼女が何故そうなったのかは詮索しなかった。尋ねられて想起したとある記憶に、彼は意識を奪われていたのだ。
心に決めた者は、もうこの世におらぬ。失ってようやく気づかされた……。
心とは難しいものだ。たとえばお主なら、この生徒たちを見てどう思うのか……。
盃に注がれた純米酒に溺れ、若返った剣聖はひそやかに故人を偲んだ。




