亡き人々を偲んだ孤軍奮闘④
――十年前。
連邦と帝国の停戦協定締結から六十年が経った。
世界の情勢に大きな変化はないまま、復興に当てられていた力が未来に向けられるようになると、やがて人々はさらなる安寧を期待するようにもなった。
次々と新しいものが生まれる中で、世代交代ごとに人々の価値観も様変わりを繰り返す。穏やかな時代に生まれ、穏やかな時代に没する。戦時中であるとは知りながらも戦時である意識は薄い。
いつ起こっても不思議ではないことに、多くは想像が及ばなくなっていた。
それだけ人々の暮らしは豊かであり、そして、仮初であっても確かな平和の中にあったのだ。
ここ十年で民衆から多くの支持を得て、中立国ではダグバルムを右頭とする政権が発足していた。ひとえに国家の利益を損なわず、なおかつ民衆に寄り添おうとする仁政のたまものだった。
中立国の大多数は彼の就任を喜び、潔白であることを信じて止まなかった。
民衆の目にはそういう風に映っている。
その一方で、中立国の政治家たちは彼を恐れていた。
支持を集める彼の存在を邪魔に思ったとある大物政治家がいた。彼を事故に見せかけて殺そうとしていたが、しかし彼がかすり傷一つ負うことはなく、逆に大物政治家とその背後にいた暴力組織が皆殺しに遭った。
そんなことがあった。
彼が何をどうやったのか、それは誰にもわかっていない。
彼が何を隠し持っているのかわからない、だからこそ、である。
ダグバルムの右頭就任から数日。
『こちらに……』
歴代の右頭に仕える一族の当主に案内されて、ダグバルムがドラシエラ郊外にある官邸に向かう。新しい右頭はそこで前任の右頭から引き継ぎを受ける、という伝統があった。
政治に関連したものはすでに引き継いでいるし、ならばほかの何かと考えられるが、その何かは知らされていない。
ダグバルムの希望もあって、ガディノアは彼に同行していた。
古めかしい外観ながら、現代要素が取り入れられた邸宅。その壁から床から天井までの大部分は、フォトンストーンによって生成された超高硬度の強化石を主材とする。
300メィダ四方の敷地には緑豊かな庭があって、外側からでは上手く覗き込めない造りになっていた。
ほどなく、厳重な警備が敷かれた邸宅の、その中に隠された怪しい地下通路へと通される。
そこは警備にも知らされていない場所で、最奥部には歴代の右頭か、右頭に仕える一族の人間か、あるいはそれにかかわる者しか踏み入ることが許されない。
長い直線の通路を照らしているのは、フォトンストーンの照明ではなく、足元の隅に並んだ蝋燭の火だった。大人が二人並べる程度の狭い空間で、誰かが通れば風立って、火がゆらゆらと不規則に揺れる。
うす暗い中に誰かが落とす影の形は、いつまでも定まらない。
『ここからは右頭、鍵の担い手であるダグバルム様のみお進みください』
最奥部に当たると思しい、荘厳な雰囲気のある扉の前。
そこまで来たところで、ガディノアは一族の当主に立ちふさがられた。
「どうした理由なのですか?」
先に進みかけた足を止めて、ダグバルムが引き返してくる。
『この先にある秘密は守られなければなりません。踏み入ることを許されている者は鍵の担い手か、鍵の王、あるいは鍵を選定する資格者のみとなります。ですから――』
一族の当主が言葉を繰り返そうとして、ちょうど扉の奥から届いた声がさえぎった。そのかすれた声を聞けば、向こう側にいる誰かはかなりの高齢の男性であると察せられる。
「構わないから、通して差し上げなさい」
『しかし、それではご先祖様の掟に背いてしまいます』
声の主の意図に納得できずに、一族の当主が否定する。
「いいや背きはしない。そこにいる彼は『オルティメアの慈悲』なのだから」
『なんと……御身は感情の資格者であらせられましたか。これは大変ご無礼をいたしました。では、先へお進みください。霊前でもありますため、どうか慎みをお持ちくださいますように』
道を開ける一族の当主に、それまでよりも敬う様子で頭を下げられる。ダグバルムのあとに続いて扉の奥に進んだガディノアは、そこに何やら儀式めいた装いの洞窟空間を見た。
空間を照らす灯りが一つだけあるが、それはあきらかに普通ではなかった。
蝋燭の火でもなければ発光系のフォトンストーンでもない。奥にある巨大な結晶のような何かがぼんやりと輝いている――さらに言えば結晶の中には、この世の者とは思えない、女の形をした『何か』が瞑目している。
また洞窟内には古めかしい壁画が描かれてあった。
何か一つの存在を多くの人々が崇めている、そう見て取れる様子だろうか。
「彼女の訪れこそが、すべての始まりだったのだ」
結晶のそばに杖を突く男が一人、壁画を眺めながら言った。
その百二十歳を超えている老人こそは、大戦時に中立国政権を担ってきた右頭ガスパールだった。これまでに三人ほど右頭になった男がいたが、いずれも『引き継ぎ』は受けていない。
もとい本当のものではないだけで、挨拶や贈り物などで形式的には済まされている。
真の右頭として相応しいと認められなければ、決してここに招かれることはないのだ。
「まさか、ご存命でいらっしゃるとは……ここは何です?」
その筋では伝説とされるガスパールに、ダグバルムが恐る恐る問いかける。
「前任の彼も、その前の彼も、これを見るにはあまりに未熟だった。知れば我が物にせんとするか、他の国にひけらかす態度をとるか、ともかく良くなかっただろう。私はそのような人間に彼女の身を託したくはない。彼女あってこそのアイゼオンなのだから」
二人が言葉を交わすかたわら、ガディノアは結晶の中の女に既視感を覚えていた。
「俺のことをどうこう言っていたな?」
「あなたが扉の前に立った時、結晶の輝きが優しくなった」
「先ほどから奇妙な感覚がしている。何の関係があるのか話せ」
「ああ、オルティメアの慈悲よ。あなたの天命は人々に救いをもたらすことだ。しかし誰かを救った時には誰かを見捨てている。どれだけ願おうと、すべての人々に救いをもたらすことなどできない。あなたはその感情を克服しない限りは、そうした矛盾の中で苛まれ続ける」
まだガディノアはうまく理解できなかった。
「時にあなたとは対になる、オルティメアの薄情とされる存在がいる。その者の天命は人々に破滅をもたらすこと。そこに心を持つことは許されない。それまで積み重ねてきた己の罪に気づいた時に、大きな後悔に襲われるのだから。これを克服できる者はごくまれだ」
ガスパールがそのまま言葉に付け足す。
「喜怒哀楽と二つを持ち合わせたからこそ、彼女は聖女たりえたのだ」
「これが引き継ぎなのですか? 私にどうされたい?」
ダグバルムが顔つきに緊張を持たせて、本来の話を進める。
「オルティメアの伝承を聞いた覚えがあるかね?」とガスパールが結晶に目配せする。
「それは人並み程度です。闇に落ちたアルカディアを救った存在としか覚えがありません……まさかこの結晶の中にいらっしゃる方が、そうだとでも?」
「まだ人が拙かった時代。アルカディアに瘴気が蔓延していた。人にとっては毒であり、人ならざる存在にとっては養分。人と人ならざるものと共存するには、アルカディア大陸は狭かった。……北の極地より彼女が現れたのはその時だ――長い時の中で、ここまでなら嗅ぎつけた者もいる」
「アイゼオンは何を秘匿してきたと?」
「彼女は神樹の苗を持っていた。やがてアルカディアの地に根付いた神樹は、その無限のフォトンで世界を包み、蔓延する瘴気を中和していった。これこそが、彼女が人に与えた最大の救いであって、あるいは最大の破滅でもあった。そう、人がフォトンという力を持ってしまった」
ガスパールがダグバルムに向き直って告げる。
「彼女は希望と絶望の狭間で揺れていた。だからアルカディアに鍵を残して自らを封印した。人々を試しているのだ。人が手を取り合って鍵を集めるか、鍵の力を私欲のためにもちいるか、五千年後に目覚めた時に見定めると言い残して……暦ではあと二十年ほどか」
あまりに突飛な内容を受けて、ダグバルムが眉間を揉んで考える。
「お前に一つ問いたい。……六十年前、なぜ連邦と帝国を講和させなかった?」
それまでのガスパールの語り草を聞いて、ガディノアはそこに疑いを持ってしまった。
「当時は意味のないことだった」
こともなげに返ってくる。
「……何だと?」
「争いは人の営みの一部だ。オルティメアの慈悲よ、今の世を見たまえ。線を引いたままだったからこそある。アイゼオンは、人々がオルティメアを受け入れられるまで待つ必要があった。
それまではいくら講和を結ぼうが歴史を繰り返したに違いない。そうでなくとも誰かは開戦を企てるのだから、せめて大国が動かなかっただけでも良しとするべきだ」
ガディノアは暗躍し続けてきた五十年間を想起する。
「俺たちが戦っていた意味はなかったと、そう言いたいのか?」
「すべてがそうとは言わない。ただ、その場しのぎの救いでは足りないと言っているのだ」
「それはお前の身勝手な理論ではないのか?」
ガディノアは殺気立ってガスパールを睨みつける。
「もう止そうではないか。水掛け論になる」
怯まずに話を切ったガスパールが、ダグバルムに意識を向けなおして続けた。
「さぁ新たな右頭よ、鍵の担い手として賢明な判断を期待する」
引き継ぎを終えたあとだった。
「私は右頭になった。アイゼオンの意思は尊重しなければなりません」
「……それがお前の結論なのか?」
ガディノアはダグバルムと見据えていた未来を違えた。
連邦と帝国の講和を、単なるアイゼオンの悲願を果たすための手順として考えるか、それとも――その後も協力関係を続けたが、ガディノアは違和感を覚えずにはいられなかった。
数年して帝国皇帝が開戦を企てていると報が舞い込んだ時、ダグバルムからそれを利用する計画を聞かされた時、その違和感ははっきりとした形をもった。
それは人間という生き物に対して抱いた、大きな絶望にほかならない。
「今回もまた、力をお貸しいただけますか?」
だからダグバルムに力添えを求められた際には、ガディノアはこう答えていた。
「神樹の雫というものがあったな? あれを用意しろ。それから大陸のどこかに白と黒の双剣があるはずだ。どこにあるか、そのありかを探してこい。……話はそれからだ」
いつになく、ひどく獰猛な笑みを浮かべて――。




