亡き人々を偲んだ孤軍奮闘③
連邦と帝国の停戦協定締結から五十年が経った。
締結から三十年目に軍備管理の制限が解かれるも、しかし両勢力共に自分から緊張を高めるような挑発行為をしなかったため、未だ世界には安寧が維持されている。
軍備の増強が認められたことで人員も増やせはするが、軍人として活躍する場所は減ってしまい、彼らの役割も『来るべき時に備える』『内戦を鎮圧する』が主になった。
その現状では将来的に報酬を支払い切れなくなる可能性が浮上すると、やがて軍は民間からの依頼の募集を始めた――一定以下の階級にある騎士や兵士たちは、完全歩合制で依頼者からのみ報酬を受け取るようになった。
無論のこと、安定した収入を得られない誰かは軍を離れていくのだ。
ただ、いつまた開戦するかわからない限りは、そうでもして最低限の人員離れは防がなければならなかった。
この頃には管理局をいくらか信用していたが、安寧が維持されているのは和平が結ばれたからではないと、そればかりは連邦も帝国もわきまえている。
とはいえ、人件費を民間からまかなえる、それだけ世の経済が回っている証拠でもある。
技術者たちが安心して研究に専念できる環境が生まれたことは、アルカディアに更なる技術革新をもたらすと、人の暮らす環境をより良いものとした。
特に天才博士マジョリヨによって生み出される従来の常識に囚われない発明の数々は、著名な研究者に『彼女がいなければフォトンストーン研究は百年遅れていた』と言わしめた。
時に、世界から戦争の記憶が薄れていく中、人々の多くは笑顔であった。
――二十年前。ダリアロード州・シルフィライン。
中立国では第二の首都と呼ばれる地で、ガディノアはとある男と出会った。それは雨が降りしきる夜の繁華街に隠れた、街灯りもぼんやりとしか届かない路地でのことだ。
容姿を見るに年の頃は三十歳前後で、どこかやつれた顔立ちをしている。細めの身体にくたびれた中立軍の制服を身に着けている様子からは、まず騎士ではないだろうと憶測できる。
さらに言えば、一般兵は一般兵でも、あまり腕は立たなそうに感じられる。
「お爺様。そんなところでどうなさった? 宿なしですか?」
路地の陰に座り込んでいたところ、そう男に声をかけられたことが始まりだった。
七十歳を超えてからは体力の落ち込みも著しく、ガディノアはすっかり身体の切れを失っていた。
その剣帝の力をもって、これまではどんな開戦の企ても未然に防いで来られた。しかし、いつからか解決するまでの効率が悪くなって、管理局に足取りを掴まれそうにもなっていった。
そして、この日は初めて防ぐことに失敗していた。もとい管理局が同じ案件を捜査していなければ解決できていない、そういった風にしか事を運べなかったのだ。
もはや一人ではどうにもできない、そんな、いつか訪れる自分の限界を悟ってしまい――。
「……少し疲れただけだ。放っておけ」
軽く頭をかいた男が、しゃがみ込んで目線を合わせてくる。
「こちらも警備などをやっている手前、放っておくわけにいかないのですが。……こんな巡回をするために軍に入ったわけではないのに。まったく、いやお互いに上手く行きませんな」
「お前に俺の何がわかる? 一緒にしてくれるな」
「中立軍上級兵のダグバルムです。お爺様のお名前はなんと?」
それ以上は見向きもしなければ、ガディノアは答える素振りも見せずに黙り込んだ。そうしている内に諦めて引き上げるだろうと考えた。
いくら心に余裕をもった中立国の人間であろうと、あるいは任務の一環であろうと、ある種の親切心にまで邪険に返されては気分も良くない。
ほどなく一つ大きなため息を吐いて、ダグバルムと名乗った男が立ち去っていく。
「なぜ人間は壊したがる? なぜ容易く開戦という判断を受け入れられる?」
ある時は元武器製造業者が、ある時は小国の元首が、ある時は宗教団体が、ある時は民衆たちが、開戦を企てて、開戦するべきと唱えていた。
自分の利益のために、国家の利益のために、恐怖の中で信者を募るために、虐げられていた過去の恨みを晴らすために――例を挙げれば切りがない。
いつだって開戦を企てるような人間の言葉は気まぐれで、幸福に満たされていた人間には刺激的に聞こえるし、間違いを間違いではないと錯覚した人間には共感を得る。
言葉に惹かれた彼らは徒党を組んで増長すると、いかにも自分が正しいとして振る舞い始める。そんな彼らには彼らなりの正義があって、その中には中途半端な思いで開戦を唱えていない者も確かにいる。
これまで暗躍を続けてきたが、ガディノアは自分のやってきたことの意味がわからなくなった。
すべてはヴェルン=スミシィの願いがもとにある。愛する彼女の望んだ世界を護るために五十年の歳月を捧げてきたが、捧げても捧げても終わりが見えてこない。
それどころか時間が経つにつれて、世界の方から壊れていくのだから、余計にわからなくなった。
それでも、いつになっても、人間という生き物を信じることを止められない。
「お前の言葉が呪いになってしまったようだ。……違うだろうに」
ぽつり呟いていれば近くに人影が落ちた。先ほど立ち去ったはずのダグバルムが戻ってきたのだ。その手には、どこかの露店であしらえただろう珈琲の注がれた木製の器が持たれている。
「ここで雨に打たれるままでいては、ご老体に障ってしまいかねませんよ」
ふたたびしゃがみ込む彼から、その湯気の立つ器を差し出される。
「お前も、何か俺の知らない心の動き方をする」
乱れた黒髪の隙間に覗かせて、ガディノアは視線を仰いだ。
「これで少しは温まると良い。……ああ、これは失礼しましたな」
両腕の事情に気づいたダグバルムが、それを飲ませるような素振りをして見せる。
飲ませる「必要はない」と拒んだガディノアは、形状操作によって煌気の片腕を生やし、その手で器用に器を受け取って口まで運んだ。横目には驚いているダグバルムの姿が見えていた。
「そのうち物取りにでも襲われるのではないか危ぶんでいましたが、どうやら優れた能力者のよう。これでは心配して損でしたな。それでお爺様のお名前は?」
「……ガディノアだ」
誰かにそう名乗ったのは、停戦からは初めてだった。
出会ってからしばらく。
ダグバルムに招かれるまま、ガディノアは彼の家を訪れていた。
シルフィラインでも一般的な貸家で、目を見張るものもなければ、特に心配になってしまうものも見当たらない。いくらかある部屋の中はすっきりとした印象で、無駄な調度品もなく片付いている。
それでいて確かに生活感はあって、わびしさを覚えてしまうことはなかった。
「お帰りなさい。出掛けに言っていたよりも遅かったわね? あら……そちらの方は?」
玄関を開けてすぐに、一人の女がそそくさと出迎えに現れた。彼女の腕には、黄色い髪をした二歳前後の女児が抱えられていた。
どちらも二重の目つきが特徴的で、親子と思しい。
「いや姉さん。いろいろとありました」
その見た目や会話の様子から、ダグバルムと親子の関係を察する。
家に上がったガディノアは、まずは用意されていた風呂まで通された。ずっと雨に晒され続けて、身に着けた古いコートは濡れ切っていたし、身体も冷え切って見える。
ただ乾いた手ぬぐいを渡して済ませるよりかは、そうした方が心配もない、そう彼らには思われたのだ。
ほどなくその湯船に浸かって――ふと完全感覚で風呂の外にある声を拾った。
「あのお爺さんはどうしたの?」
「道端で拾いました。あのまま放っておくのも何か気が引けてしまって」
どちらも潜めた調子で、女の声から男の声と続いた。
「何かただならない雰囲気のある感じだったけれど、まさか危ない人じゃあないでしょうね? 今はここにネネだっているんだから、そこのところは本当に大丈夫?」
「ほとんど勘ですが、まぁそれは心配ないかと思っています。そもそも姉さんがドラシエラの実家を出奔などしなければ良かったのに。また今度はどうした理由なのですか?」
「お父さんったらひどいの。俺の跡目としてネネを政治家にする、なんて言ったのよ。うちの旦那はお父さんに頭が上がらないし、もうこうやって飛び出して抗議するしかないじゃない」
「また相変わらずですね。……いいや、これは私のせいでもありますか。私が意地を張って父さんを拒んでしまったのが原因だ。こんな私に務まるはずがないでしょう、などと言ってね」
「そんなつもりで言っていないわよ。もう、またそうやって卑屈になる」
そこまで聞いたところで、ガディノアは完全感覚を閉ざした。
風呂を出たあとは食卓にも招かれた。もう先に済ませていた親子とは別に、ダグバルムと二人での食事になった。
用意された料理はどれも簡単なものばかりだったが、その料理にこもる温かさには、どこか人間がもつ心の温かさに似た何かが感じられていた。
「どうか遠慮なさらずに。何かあれば申しつけください」
料理に手をつけていたダグバルムが、言って小さく首を低める。
「……なぜ軍人に?」
彼と食事の早さを合わせながら、ガディノアは問いかけた。
「聞こえていましたか。お恥ずかしい限りで……軍人になったのは世の中を知るためでした。民間の依頼を受ける、これはすなわち民衆の悩みを知ることだと考えたのです。誰かが得をした時は誰かが損をした時でもある。この平和に思える中立国でも依頼は絶えない」
言葉は小さくため息を挟んで続いた。
「しかし私には人々の悩みを引き受けられる力がなかった。これまで軍人になってわかったことは、自分が無力であることと、人の悩みは尽きないことと、その程度なのですよ。これではとても政治家などにはなれません。なっても人々の足かせになるばかりだ」
「お前は何を願っている?」
「今はせいぜい身近な人の幸せでしょうか。それ以上は背伸びになる」
食卓のある部屋に隣接した居間で、賑やかに戯れる親子へ目配せをする――そのようにして語ったダグバルムの口調には、何か自分の将来を諦めている気配が垣間見えた。
「背伸びでもいい。言ってみたらどうだ?」
「……そうすれば力をお貸しいただけますか? 剣帝ガディノア=リュミオプス様」
視線を戻したダグバルムが、確信めいた様子で目を細める。
「やつは死んだはずだが?」とガディノアは一応までにはぐらかした。
「名前を聞いた時から考えていました。あなたをそうと見るのは根拠のない勘になりますが、もしも彼が存命だったなら七十代後半で、まぁ最低限の辻褄は合います。……歴史は得意分野でして」
「だから家まで招いたわけだな?」
「意地の悪いお人だ。そこまで見損なわないでいただきたい」
「……悪かったな。いやわかっている。これでも人を見る目はある方だと自負しているのだ」
その皺だらけの顔にさらなる皺を増やして、ガディノアは笑みを浮かべた。
誰かにそんな仕草を見せるのも、停戦からは初めてのことだった。




