Ⅸ
野営地に戻ったのは翌日の夜だった。
「経験はあるが、……人を弔うにはどうしたらいい?」
どよめく兵士たちをよそに、アランはファジニオを探して言った。
その腕には大事にヴェルンを抱えていた。山脈西側の中腹にある滝から、彼女と再会した場所から夜通し歩いて連れ帰ったのだ。
まだ事情を飲み込めていなさそうに、ありのままを見て悲しそうに、ファジニオには絶句される。そこに自分から話しかけるような気力はなかった。
「ともかく準備するから、お前は待っていろよ」
その時間が少し続いたあとで、アランは慮ったような返事をもらった。
近隣の街まで荷馬車を走らせて適当な木材を集める。野営地から少し離れた場所で木材を組んで、腰丈ほどの台座を立てる。台座の下に薪を詰める。
ファジニオが準備する半刻ほどの間、眠り続けるヴェルンを視界の片隅にして、アランは待つことしかできなかった。
剣聖たちが誰かを弔おうとしている――遠巻きに眺めるばかりで、ほかの兵士たちが手助けにくるような気配はない。
しかし、これは当然のことだっただろう。
これまで残忍という言葉も生易しく思える行いを重ねて、何千何万という人命を呼吸するがごとく奪ってきた、それが、今さら人間らしい振る舞いを見せたところで同情など買えるはずがない。
「そこに、……最後だからな」
ファジニオの目配せに従って、アランは台座にヴェルンを横たわらせた。
彼女の黒髪を手櫛で整えながら、彼女の安らかな表情を網膜に焼きつける。まだ名残惜しさを心に彼女のそばを離れる。これから何をどうするのか、台座の様子を見ると想像はついていた。
「……気が変らない内に頼む」
言って、まもなくファジニオが台座の薪に火をつける。
生まれた炎は白煙を立てて燃え広がり、やがてはすべてを覆いつくした。月夜の暗がりに火の粉が舞い上がり、どこかに消え失せては、また新しい火の粉が舞い上がる。
眺めるアランは、彼女が眠ったあとを思い返した。
「……俺たちは生きろと願われた。だが俺たちは、どちらかの死をもって決着をつけねばならない。そして生き残った方が、この腐った戦乱の世を終わらせなければならない。俺たちはそれだけの命を背負った。その義務がある。……次は必ず決着をつける。逃げれば殺しに行くぞ」
ガディノアが去り際に言っていた。
これからどうするべきか、アランはわからなかった。
すべてはヴェルンを取り戻すための戦いだった。
そのために連邦の駒となって、何万もの命を手にかけてきた。
それがいつしか戦う目的をはき違えて、帝国の打倒に傾向して、ようやく認識の誤りを自覚できた矢先になって、何もかもを唐突に失ってしまった。
だからわからなくなった。
生きなければ彼女の願いは叶わない。生き残るならば義務を負うらしい。
何もかも投げ出して逃げることは、今すぐにでもできる。逃げてしまいたいという気持ちもある。それでも、なかなか一歩を踏み出せないでいる。
誰かを失う悲しみを、誰かに強いてきた――誰かを思いやる心を、彼女の眠りから無自覚に感じていた。
「しばらくかかる……何があったか俺にはわかんねぇけど、今は独りになるな。誰かほかに人がいる場所にいた方がいいって、そんな面をしているよ、お前……」
ファジニオに連れられるまま、アランは仮設された酒場に足を運んだ。
それまで騎士や兵士が馬鹿騒ぎしていた場所は、それと同時にしんと静まり返った。これを見れば誰が水を差したのかは一目瞭然の様子だった。とても歓迎する雰囲気とは言えなかった。
「何か強いのを二つくれるか?」
怯える兵士たちのそばを横切って、カウンターに並んで腰かける。
雇われの店主にファジニオが注文して、それぞれ手元に酒が用意された。粗末なグラスに注がれた酒はアルコール度数の高い銘柄で、やけに香りが強いという特徴のあるものだった。
「ヴェルンは病に侵されていた。何一つ、何一つ気づかなかった」
一息に飲み干して、アランは口ごもった声でこぼした。
「お前に何も言わなかったのか?」
「……ああ」
「隠していたんじゃないのか? あの子の身体をちらっと見たけど、あれってたぶん、不治の病とか言われていたやつだ。きっと言えなかったんだ。なら仕方がないってこともある」
「よくわかるな? お前は私の知らないことを知っている」
「違う、違うさ……わかったって自慢になんかなるか。お前が人並みじゃないだけだ。大抵はガキの頃に大人の背中を見て、ああするこうするって何となく物事を知って、いつか自分の考えを持って、それで自分なりに物事に区別をつけるようになるんだ」
「……それが正しいことなのか?」
「さあな。それは俺もわかんねぇ。でもそれが一番ありふれていることでさ、本当ならきっとお前もそうなっていたはずだった。だったのにさぁ、こんな……くそ」
「どうすれば大人になる? 大人とはなんだ?」
「そいつは自分の意思で考えて、苦労なり努力して見つかるモンだ」
「考える、考える、考える。お前も……ヴェルンも言った。なぜ教えてくれない」
「知ったところで自分のものにならないからさ」
ファジニオと言葉を交わしていれば、ふと誰かが横に立った。
アランは横目にちらりと見る――逆立った茶色い短髪の女が、そこで「おい」と拳を振りかぶっていた。そこから振り下ろし気味に突き出された一撃が、まったくの無抵抗だった横っ面に入る。
彼はファジニオのすぐうしろを通って、地べたに激しく倒れ込んだ。
「お、おまっ……いきなり何すんだよ!?」
ファジニオが怒鳴りつける。
「なんでそんな白けた面で飲んでだ、ああっ?!」
対してひどく酒気を帯びた女からは、それと同等の語気で言葉が返った。
「剣聖とか何とかってあんただね? ……ここにいる奴らは、どいつもこいつも、あたしも含めて、明日死ぬかも知れないって思って飲んでいるわけだ、なぁ!?
おおかた剣聖様は命が危なくなったこともないだろうに、その癖に死人みたいな面をあたしらの前に晒しやがってこの、化け物の分際でふざけんじゃないよ!
こっちゃあ楽しく飲みたいってんだ、っおらぁ!?」
なぜ咎められているのかと思った。剣聖とは悲嘆に暮れることも許されないのかと疑問に感じた。いつも自分たちばかりが不幸になると、そう誤解すれば憤りを覚えた。
アランは静かに立ち上がって、苛立ちに身をゆだねる。
その場にいた誰しもをも震えあがらせる、罵られた通りの化け物の気配を放った。こいつを殺して少しでもこの気が晴れるなら――女を相手に凄みを利かせる。
「これはどういった騒ぎだ?」
ちょうど、その時になってベンジャミンが現れた。女にとっては非常に運のいい偶然だった。彼が来たからには丸く収まると踏んで、騎士や兵士たちも安堵の息を吐いた。
「あ……いえ何でもありません。ただの酔っぱらいのじゃれ合いですから。な? ……アラン、もうあの子のところに戻ってやれ。どうもその方がいいらしい」
弁解するファジニオに「悪かったな」と囁かれる。
「……お前が謝ることじゃない」
アランは高ぶる気を静めて思い留まった。結局のところ、そうやって思い留まれる程度の怒りしか持つことができない。そんな自分に嫌悪感を抱けば、どうにもいたたまれなくなる。
ファジニオにことを預けて、彼はヴェルンのもとに引き返した。
翌朝になる。仰げば青く澄み切った空模様が広がる。
「……人が人のために持つべき真心、優しさ」
独り火葬場で呟いて、アランはそれについて考えを巡らせた。
「ひどく汚れた路地裏だった……お前は出会ったばかりの俺の手をとった。妙な奴だと思いながら、拒む気にならなかったことを覚えている。……あれがそうなのか?」
ヴェルンと出会った頃のことを思い返してみる。
「ゾルディフさんの目を盗んで短剣を打って、見つかって殴られて……工房から飛び出したお前は、ひどく不満そうな顔をしていたかと思えば、すぐに笑った。……あれは違うだろうか?」
ヴェルンがどうだったかを思い返してみる。
「俺の買った恨みで血の雨が降った……お前は後悔していると言った。どこにも行くなとも言った。安心して、不安になった。しばらく胸が気持ち悪かったのは、そんな矛盾のせいか?」
ヴェルンから感じたことを思い返してみる。
「ヤマの国まで旅をした……あの頃から、お前は少しずつ変わって見えた。いいや、もしかすると、お前が変わって見えるように、俺が変わっていたのかもしれない」
ずっと見習ってきたヴェルンが、もういない。
それが正しいとしてもわからない。それが間違いだとしてもわからない。その何が正しくて、その何が間違っているのかわからない。自分の心境をどう解釈すべきかもわからない。
「それでも考えろとお前は言うだろうか?」
焼け跡から遺骨を一つ一つ拾い集めて、両手に少し余るほどの木箱に納める。これには結晶化して焼けずに残ったものも含んだ。彼にとってはそれも彼女にほかならない。
山脈を挟んで睨み合いが続いている前線には、墓を作って埋めてやる気にはならなかった。
戦争の影に左右されて、時には逃げるように各地を転々として生きていた彼女だから、せめて生まれ故郷に連れて帰ってやりたいと納骨をしながら感じていた。
ヴェルンを故郷に帰したい――であれば、生き残らなければならない。
「まだ、俺には戦う理由がある」
答えが出ないまま考えを切り上げて、アランは自分に言い聞かせる。
やがて納骨を終えて火葬場に立ち尽くしていた時、誰かからうしろに立たれた。まだ離れた場所に足を止める相手がベンジャミンだとは、直接その姿を見ることなく気がついた。
黙っていれば先に、彼の方から後ろめたそうな調子で声を掛けられた。
「ファジニオ隊長に命令して、事情を教わった。このような結果に終わって残念に思う。もっと早く君をここまで導けていたら……どうか不甲斐ない私を許してくれ」
そこには嘘偽りのない同情、後悔と謝意がこめられている。
アランは素直に受け取れなかった。
お前が残念がる理由はどこにあるのか、元から急務とは考えていなかっただろうに、許してくれも何も謝罪など求めていない――そもそもベンジャミンには関心を抱いていなかった。期待していなかった。
互いに利用する関係とだけ認識してきた。
何より終わったと決めつけるような言葉に、この上ない不快感を覚えている。
「まだだ」とアランは振り返った。いつになく濁った瞳を送りつける。何かを感じ取ってはっとした顔をするベンジャミンに、彼はひどく冷めた声で宣言した。
「剣聖として、剣帝と雌雄を決する」
三日後になる。ベンジャミンの放っていた斥候が戻った。
その報告によれば、ブリテナ国を東西に隔てる山脈の、南北の迂回路に設けられた砦は、帝国軍の主力部隊と思しい一団で固められていた。
また最新鋭のフォトンストーン兵器により防衛能力が高められた様子が見受けられた、などの情報がもたらされた。
因みに、その最新鋭の兵器とは『棘のついた極太の鎖を投擲する』というものだった。よく隠密が暗器にもちいる分銅鎖を巨大化させたものと表現できる。
非常に単純でありながら、全長5メィダの不規則変形する鉄塊が回転気味に射出されることで、一般兵は即死する勢いで撥ねられて、能力者は超重量に自由を奪われるのだ。
頑強で破壊は難しく、有効範囲も広いため回避は難しい。
ここ半年では剣帝に変わって、これがもっとも連邦軍兵士の命を奪っていた。
何はともあれ『砦としての機能は想像を超えて高められている』という報告である。
「――山脈を越える」
果たして、これが報告を受けたベンジャミンの結論だった。
作戦にあたって連邦軍の主力部隊は三つに分けられた。
秘密裏に山脈を越えて進軍をする部隊が一つ。これには元帥の彼が剣聖を率いて参加する。ほかの部隊と比べれば、行軍を読まれていた場合の生存率はもっとも低い。
山脈を南に迂回する部隊が一つ。山脈を越えて西側を南下した部隊と時間を示し合わせ、東西から砦の挟撃にかかる。山脈越えの部隊が失敗すれば、これも生存率はかなり低い。
山脈東側に残存する部隊が一つ。北側から帝国軍の攻撃があった場合を想定して布陣する。二つの部隊が壊滅するようなことがあれば、悲惨な撤退戦は免れられない。
「この国には剣帝がいる。次は何があっても引かない」
ベンジャミンが大博打に近い作戦を立案した背景には、そんな剣聖の言葉があった。
もっともこれまで常に大博打だった。
剣聖を討たれたならそれまで、連邦軍は総戦力の半分を失うことに等しい。たちまち戦線も押し返され、戦況も剣聖が台頭する以前まで戻っていたはずなのだ。
それで今日まで剣帝率いる軍勢と渡り合えたのだから、むしろ保身を唱えることは今さらである。
剣聖は剣帝と決着をつけるとも言った。
つまり何をしようとも次で連邦軍の明暗は分かれる。
ベンジャミンも考えられる最善を尽くすべくして、この作戦を立案した。
夜明け前になる。もう半刻もすれば日が昇る。
元帥率いる連邦軍三千が、木々の生い茂る道なき道を進む。鬱蒼として足場の悪い急勾配に体力を奪われる。一様に口を閉ざした緊張感が伝搬して、それぞれの肌をひりつかせる。
なるべく低くなる道程を選んでも標高は2000メィダあって、登頂が困難な標高には違いない。尾根を越えたなら後戻りはできなくなる。
読まれて、あえて誘い込まれている可能性も否めない――そうとも思しい不気味な静けさを感じていれば、なおのことだ。
アランは部隊の先頭をベンジャミンと並んで行軍していた。一度越えているということもあるが、一番は完全感覚による五感で行き先の様子を確かめるためだった。
ファジニオが東を南下する部隊に組み込まれたこともあって、今はこれといって話し相手もいなかった。
いたとしても自分から話す気にはならなかっただろうが、ただあの陽気な気配が近くにない今は、なぜかしらヴェルンが去った時と似たような喪失感を覚えている。
「どうして、戦ってくれる気になった?」
ひっそりとした声がかかる。一歩遅れて横を歩いていたベンジャミンからだった。
「ヴェルンを故郷に連れて帰る。今はそれだけだ」
見向きをしないまま、アランは音量をあわせた声で答えた。
「今は……か。もしも次があったとして、君は何を理由に戦うのだろうか?」
「わからないが、……その時は義務を負うらしい」
「義務?」
「帝国を滅ぼして、この戦争を終わらせる」
「とても君の言葉とは思えないな。義務とは、人間が自分を納得させるためにあるようなものだよ。仕方がなく、否応なく、そういった受け入れがたいことを果たすために……そうでなければ私たちは人が人たりえる最低限の秩序さえ保てなくなる」
ベンジャミンが「けれど」と否定するように続けた。
「時の権力者によって善悪が変わってしまう、そんな人世で生じる抑圧された精神の行き着く先が、この今なのかもしれない。人が二人いたとして、それぞれの義務が決して相容れないのならば、もう争うしかないのだろう。皮肉なものだね。人であろうとして、人として壊れる道を歩むのだから」
「……人間はおぞましい生き物だな」
「君が背負うつもりでいるそれは、あまりに重過ぎる。曖昧な覚悟ではいつか押しつぶされる。……それでも君は行くというのかい――」
ちょうど尾根に差し掛かろうとした頃だった。
「……やつがいる。読まれている」
ベンジャミンの言葉にかぶせて呟いて、はたと足を止める。
距離にしておよそ300メィダほど、尾根を挟んだ向かい側に覚えのある力を感知した。
ほかには二つと存在しない、類似したものも存在しない、身体が否応なく敵と見なしてしまう、そんな気配に触れて確信したのだ。
体勢をかがめて蹴り出しに備える。月下美人の柄に手をかける。
「全軍後退! 今すぐ下がれ! 下がれと言っている!」
うしろを振り返ったベンジャミンが、すぐさま叫ぶように後退指示を発した。
唐突な状況の変化に追いつけずにいた兵士たちだったが、それも百聞は一見に如かず、その光景を目の当たりにすれば、指示の意図はすんなり飲み込めた。たちまち彼らの踵は返されていく。
互いの存在を知らしめ合うように、アランはすべての力を解き放っていた。
ヴェルン、どうか今だけは、こんな私を許してほしい――胸中に渦巻く迷いを振り払い、今一度、その瞳に人世を映す輝きを取り戻す。抜刀した月下美人に言葉をのせる。
「すべては私利私欲のために、善も悪もない、必ず殺す」
前のめりに地面を蹴ったアランは、尾根を目掛けて木々の合間を駆け上がった。そして数秒ほどで上がり切ったと同時に、その男とぶつかった。
白と黒の双剣を手にした剣帝、ガディノア=リュミオプスにほかならない。
「亡びよ剣聖、我が求める理想のために」
剣聖と剣帝が得物を交えて激突する。負けず劣らず釣り合った全力の一撃は、二人の前後ではなく左右に流れて、その場から一角と数えられる範囲にわたり、山脈を真一文字に割った。
大地が裂ける轟音に、率いていた兵士たちの絶叫がまざり込んだ。
二、三、四、五……連続して重なる二人の膨大な力に、火山でもないはずの山が、まるで噴火したかのごとく、尾根から岩塊を巻き散らしながら、地下へ地下へと抉れていく。
拍子に弾けた大気が、何もかもをなぎ払う暴風となって一帯に吹き荒れる。
下山を急ぐ兵士たちの頭上には岩塊が降り注ぎ、その背中には吹き飛ばされた木々が雪崩のように押し寄せた。
巻き込まれては最後、逃れきることは至難の業だった。
夜が明ける頃、山脈をなしていた一角が姿を消した。
数多の亡骸が倒れている、1000メィダの荒れ果てた大地だけが広がった。
東西の外縁部にあたる場所では、自然災害にも等しい力から逃げ延びた両軍の兵士たちが、大地の中心で繰り広げられる剣聖と剣帝の戦いを見守っていた。
加勢するなどできない、入り込む余地などない、もはや人間のそれとは言えない。500メィダの距離を置いたとしても、そこから迸る力に巻き込まれないとも限らない。
あるいはそれは、最後の瞬間まで見届けられるべき、後世に語り継がれるべき戦いである。
――剣聖の刀が剣帝の双剣を弾き飛ばした。
二、三歩の間合いで両膝をついたガディノアに、含んだ眼差しで見上げられる。
恨みのこもったものではない。勝利を祝福するものでもない。
ただ、その問いかけを強調するものだ。
「わかっているな? ……あとは託したぞ、剣聖よ」
月下美人を構える。その刀身に青白い輝きをまとわせる。
アランは答えなかった。答えられなかった。
無抵抗のガディノアに向かって月下美人が振るわれる。そこから放たれた巨大な光の刃が、相手の全身を飲み込んで虚空にさらっていく――残光が消え失せたあとには、白と黒の双剣だけが現れる。
息づかいが聞こえるほどの静寂が訪れる。
ふと近くを見渡せば、生きた人間が一人としていなかった。
ひどく虚しさを覚える――孤独を感じているのだと、アランは初めて理解した。
「ヴェルン……私は……俺は、何を、間違った……?」
言葉をかき消すように、遠くから連邦軍の大きな歓声が届いてくる。
空を仰いだ勝者の顔には、悲しみが満ちていた。
あまり時間を置かずに山脈越えの作戦は続行された。
剣帝戦死の報告を受けて帝国軍が大きく士気を落としている。
戦果に浮かれるよりも、この機を逃すべきではないという判断である。もっとも、北側の砦にいた帝国の主力部隊は撤退を始め、すでに勝敗は決していた。
連邦の挟撃を受けた南の砦の主力部隊は、増援を期待できない状況にありながらも抵抗を続け、戦力の七割を失ってようやく降伏した。
かくして、ブリテナ国の戦いは連邦軍の勝利に終わった。
この時、作戦の開始からは丸三日が経っていた。
負傷者の治療に、生存者の発見に、捕虜とした帝国兵の処遇に、戦死した両軍の兵士たちの処理に――未だ連邦軍兵士たちが奔走している、奪還から間もない時のことだ。
「ちょっといいかい? あたしはジルってんだが……」
南の砦の周辺を彷徨っていたアランは、一人の騎士に呼び止められた。
酒場で自分を殴った女である。男物の衣服に付着した血汚れから、砦の攻略に参加していたことがうかがえた。神妙な顔つきをした様子は、酔った時と比べると別人に思えてならない。
無言で振り向いて、彼はその要件を聞いた。
「ファジニオって奴から言葉を預かった……あんまし無理するなよ、ってさ」
言伝が頼まれた、その意味に気づけば、身体から力が抜けていく感覚に襲われた。
大粒の涙が頬を伝って落ちる。
「……やはり関わるべきではなかった」
こぼすように言い残して、アランはふたたび彷徨い始めた。
2018年6月4日 全文改稿。
2018年6月5日 誤字修正。