Ⅳ
ヤマの国に来て三年が経ち、容姿も大人らしい十七歳になった。
居酒屋の仕事を辞めて、ヴェルンは鍛冶を始めた。数年前までこの国の刀匠だったメアリィという女に出会って以来、彼女はそれに頼み込んで鍛冶のいろはを学んでいた。
その理由は少し複雑な形をして、心の中に散らかっているから、まだ一言で表すことができない。しかしそれが明確にわかるものだったなら、今も居酒屋で愛嬌を振りまいていたはずなのだ。
自分を育てるために父親が生業としたそれを、否定しきれるほど、自分はそれを知らなかった――決めつけなどではなく、同じ場所に立った上で導き出されるべきだと考える。
だから彼女はあの過去とも向き合うように、もう一度その手に金槌を握っていた。
とある日の昼下りのことだった。
メアリィの家の居間で、ヴェルンは彼女と膝を突き合わせた。
合間に敷かれた綺麗な布の上には、一振りの刀身が横たえられた。ちょうど、この日に仕上がったものだった。
その緩やかに湾曲した片刃の身体には乱れた模様が浮かび、腹には均等に樋がとおる。鋭利に研ぎ澄まされた刃には、わずかな起伏さえも見受けられない。
懐紙をくわえて静まるメアリィが、絹布で刀身を支えながら具合を確かめている。
「ごほっ、ごほっ……」
音一つ立たない時間を保っていた途中で、ヴェルンは咳き込んでしまった。慌てて顔を背けると、腕を回して口をしっかりと塞いだ。
そうして咳が治まるまでには少しの時間がかかる。
「……どうした? 最近多いみたいだけれど、どこか体調でも悪いのかい?」
刀身を置いて脇に外したメアリィが小さく首を捻った。近頃、原因がわからない発作のような咳が続いていたことも重なり、いよいよ今日になって心配されたのだ。
「いいえ大丈夫です。特に何ともありませんから」
治まるとそう言って笑い、ヴェルンは刀身に目配せして続ける。
「ところで、今回はどうでしたか?」
選ぶような時間を挟んで、言葉はため息まじりに返ってくる。
「あんたには恐れ入ったよ……とてもじゃないが、これ以上は教えられそうもないよ。これから先の上達は自分の頭で考えることさ。今日で弟子も卒業だ。おめでとうさん」
「そうですか……思えばこの三年間、あなたは聞けば何でも教えてくれましたね」
長らく聞かないでいたメアリィの真意が、ふとヴェルンは気になった。
「もっと格式ばった修業をすると思ったかい? ……本来はそうするところだが、見まねのもぐりで鍛冶屋になって一財を築いた男だっている。芸術的な魅力のある一級品より、一定の殺傷能力のある粗悪品が流行る時代さ。延いてはあんただけが真面目こいて覚える理由もない……それで満足のいく答えは見つかったのかい?」
「……まだ答えとは思えませんが、でも一つだけ」
聞こうとするメアリィに、ヴェルンは言った。
「これが芸術品としてもてはやされる時代になればと、そう願いを持ちました」
するといつかのように、メアリィが膝を叩いて噴き出した。
それでも嘲る調子のものではなかった。現実を受け止めた上でなお正面から立ち向かっていく――やはり時代にそぐわない言葉に聞こえるが、彼女には一つの答えとして響いていた。
「はははっ、同じ土俵で否定しようってことかい? こいつはいいや」
「あれから私は、大人になれましたか?」
「そいつは自分とのご相談だ。……しかし、あたしの理屈もどうなのかねぇ」
「どういう意味です?」
「何てことはない。ただ単に酒をやめて正解だったってことだよ。これからどうするのか決めているのかい? ウチの工房ならいくらでも貸してやれるけれど、もう教えてはやれないよ?」
今後を問われて、ヴェルンは前々から思い描いていた道を話した。
「もしも満足に打てるようになったらと思っていました。……この国を出て、前線近い国に移って、鍛冶師として暮らしてみたいです。まずは父さんと同じ場所に立つべきだと思うから」
〇
ヤマの国には、ヤゲンという高名な武術家がいた。
これまであった古い体術と剣術を独自に昇華させて、新たな流派を立ち上げた男だった。
得物には刀を好んでもちいると、敵が間合いに入ったそばから切り伏せる。得物がない状況に陥ると、隠密に劣らない当て身で叩き伏せる――これは男が『剣聖』と呼ばれていた過去のことだ。
終戦を見ずに年老いた彼は、軍から退役する道を選んだ。
当時の政府関係者や元帥などに「次の元帥に」と望まれるも、その就任話は蹴っていた。
いくらか理由はあったが、一番は騎士としての成長に限界を感じたからで、でなければ自分の才覚では連邦を勝利に導けないとわかっていたからだった。
男がヤマの国に帰省していつしか十数年の時が過ぎた、とある日だった。
その白髪の少年が、偶然にも彼の視界に入り込んだ。
人々が行き交う大通りの中で、黒髪の少女に頬をいじくられていた少年には、完全感覚でなければ見誤りかねない力が眠っていた。
元剣聖の肩書を聞きつけて、ヤゲンのもとを訪ねてくる騎士は多かった。
大半は門前払いだったが、連邦の将来に貢献が見込めそうな者たちは彼の営む道場でしごかれた。
そして一年もすれば実力を飛躍させて、ふたたび前線に戻った。自ずと生存率も高くなれば、やがて連邦軍幹部の椅子の半分は、その指南を受けた者たちで埋められていった。
ヤゲンに声を掛けられて、アランはその小間使いとして働いた。
朝は五十畳ある道場の掃除に始まり、昼から夕方にかけて門下生たちの衣食住の世話をこなした。やるべき雑用がなくなれば、決まって道場の横手に座らせられ、稽古場に立ち会わされた。
そうして日が暮れる前に給金をもらい、夜は自宅に戻って自由に過ごした。
『ヤゲン様。あの少年は見稽古なのですか?』
「感じるかね? あれは、いつかこの戦を終わらせる力になる」
一年ごとに入れ替わる門下生の中で、ヤゲンの思惑に気づいた騎士もいた。
得体の知れない大きな存在が、大人しく自分たちの世話をして、じっと稽古の様子を眺めている。門下生たちには気味悪がられるが、本人に自覚がなければ仕方がないことだった。
これが二年間に渡って続いた末に、果たしてアランは、知らぬ間に元剣聖の戦い方を刷り込まれていた。
それは立ち合いにおける身体捌きであり、足の運びであり、得物の振るい方であり、当て身の打ち方であり、いかに効率よく人を殺めるかという術であった。
「気楽でいい。適当に扱っていればいいのだ」
刷り込まれてから一年間、ついには稽古に駆り出されるようになった。
そう言って木刀を手渡されたアランは、自然とヤゲンの流派の型で構えていた。また現役の騎士の攻撃を天才的な反射神経で避ければ、これも同じ流派の型をもって反撃した。
経験の違いから結局は負けるのだが、とはいえ切り返せてしまう時点で、やはり彼は異常だった。
「大丈夫、殺しても死人は文句を言わない。思いきり叩きのめしておやりなさい」
三年半して今に至り、近頃では入門の条件も『小間使いに勝てたら』に変わっていた。
見込みのない騎士たちを追い払う、アランはその役目を任されたのだ。
定まらない下手な太刀筋、型破りの思いがけない動き、正々堂々としない卑怯な攻撃――断じて武道などと称するには値しない暴力の対処を強いられるが、彼は冷静さを保つことで勝ち続けた。
「すみません。約束だから……殺すことはできません」
この時アランは、ヤゲンのその言葉にだけは従わなかった。
木刀で相手を打つ際は頭を狙わない、相手を死に至らしめやすい刺突攻撃は繰り出さない。むろんヤゲンには快く思われないが、ただの小間使いである以上は、ともかく勝てば許された。
――もうじき基礎が完成する。
ただ、ヤゲンの目論見は最後まで叶わなかった。
「近いうちにこの国を出ますから、もうお手伝いできません」
とある日、アランは仕事中に空いた時間を見つけて伝えた。
ヤゲンには冷や水を浴びたような顔をされたが、彼の心境などは見当もつかなかった。ましてや、知りたいとは思っていなかった。
あくまでも雇い主という認識でいて、何か伝えることをためらってしまうような、特別な恩も感じてはいなかった。
「えらく急だが本当かね? よければ理由を聞かせてくれないか?」
当たり障りのない声で尋ねられる。
「……一緒にいると、約束をした人がいるから」
〇
エンプーズ国と周辺諸国に帝国の侵攻が始まって、四年が経っている。
それぞれの国土は半分以上も侵されてしまい、もはや奪還の目処すら立てられない状態にあった。剣帝という強大な存在を相手に、連邦軍の士気も下がる悪循環が途絶えないでいた。
降伏すべきだと主張する者も現れるが、もれなくその場で粛清されると、続きかけた誰かも口を噤んだ。
この半年前には元帥だった男が自害していた。
そばにあった遺書には『重みに耐えられない』と記されていた。
その人柄を知る関係者であれば、一文の意味はすぐに理解が及んだ。彼が元帥になってから二百万人近い戦死者が出ている。
そもそも引き継いだ状況が最悪であって、一概に一人だけの責任とは言えないのだ。
だとしても二百万という途方もない数字は、彼にとって決して覆らない現実だった。
時に、これによって早々に組織の頭がすげ替えられる。
元帥にしては三十歳と若く、どことなく不真面目そうに見える男である。
ところが、経歴は歴戦の勇士と称賛するに相応しいもので、戦場を共にした仲間からの信頼は厚かった――今回、彼に白羽の矢が立った理由は、椅子に座るだけの男たちの妬みを買ったからでもある。
重責でつぶすために、責任を逃れるために、地位を押しつけられたとも言えるだろうか。
「元帥閣下、目ぼしい情報が入りやしたぜ」
ウェスタリア国にある軍施設の執務室で、側近から報告を受ける。
「勘弁してくれ。公式じゃないしベンジャミンでいい。身体がむず痒くなる」
執務机に両足を乗せあげて、ひどく行儀の悪い姿勢で椅子にかけている。
このベンジャミンという男こそが一千万の人間を統べる、現メオルティーダ連邦軍の元帥だった。
「ベルフェルゴの野郎の動きが怪しいらしい。あの自己保身の権化が前線に出入りを繰り返している……どうします? 適当な罪状を吹っかけて拘束でもしてみますかい?」
「――らしい、なら何かしている証拠もないのだろう? 踊らされるとも限らない」
「いざ事を起こされては目も当てられませんよ?」
「わかっているさ。だから君たちを信頼して調べさせている。……連邦領土の三分の一を奪われて、奪還の目処も立たなくて、おまけに剣帝なんて化け物まで相手にしなければならない。考えることがいっぱいありすぎて嫌になる。誰もやりたがらないわけだ」
「何を弱気な。あなたまで投げ出したら老害しかいやしない。本当に連邦は終わりだ」
「今日は、何かえらく重圧をかけてくれるじゃないか」
「それくらいの瀬戸際ですぜ?」
「……ああ。肝に銘じているよ」
だらしなく見えるベンジャミンであるが、彼の言葉は真剣そのものだった。
〇
エンプーズ国から東側にある隣国の、さらに隣国になるナイアデール国。
鍛冶の国としても名を馳せているこの国は、前線が近まったことで最盛期にあった。今や前線へと供給される武具の大半は、この国で作られていると言っても過言ではなかった
それは相応に、武具の販売競争が激しいことを意味している。
自分の工房を構えるに当たって、ヴェルンはあえてナイアデール国を選んでいた。この国の頂点を目指すくらいの気概がなければ、父親が何を思っていたかを理解できないと思ったのだ。
「おぉ、何とも……とても、とっても立派になった」
嬉しい誤算だったのは、ゾルディフが取引をしていた商人との再会である。
あの一件を乗り超えた姿を見せたなら、涙ながらに喜ばれた。
この国までやってきた事情を伝えたなら、その胸をどんと強く叩いて「味方になる」と声も掛けられた――四年半でかなり出世していた商人の言葉に嘘偽りはなく、ほどなく有言実行される。
首都に工房を構える資金提供から、柄や鍔などの必要な部品の調達、ほかの流通経路の確保まで、鍛冶師として踏み出すための大きな力添えをもらった。
これは同情だけで得られたものではなくて、実際に自分が鍛えた刀を披露して、商人を瞠目させたからでもあった。
「お父上に劣らない、何とも素晴らしい仕事だ」
「ありがとうございます。私は父さんのことが知りたい……一人の鍛冶師として」
「ああ探しなさい。私はいつだって力になるから」
言葉を交わす商人の表情は、ずっと嬉しそうにしていた。
首都の一角に構えられた店の二階は、そのまま二人の住居になった。
台所と併設された居間が一つ、廊下を挟んで寝室が一つ、脱衣所でもある行水部屋が一つ、便所が一つ。二人で暮らすには広すぎず狭すぎない、ありふれた造りの空間だった。
その前の住人が残していった上質な家具があることを思えば、掘り出し物の物件と言えるだろう。
「もうこっちの生活には慣れた? 私はたまに玄関で靴をぬぎそうになっちゃう」
「ヤマの国には三年いたし、癖になったのか?」
とある朝のこと、二人は朝食をとりながら話していた。
半熟に焼かれた卵に野菜が添えられた皿、根菜の煮込みを盛った器、乾いたパンなど、食卓上にはアランの作った料理が並んだ。ナイアデール国で生活を始めてからは、彼が家事全般を担っていた。
鍛冶一本で二人分の生活費を稼いでいくという、ヴェルンの強い意向があってのことだ。
父親はそうだったから同じ条件にしなければと、そんな意地でもある。
「そうかもしれない。向こうのお風呂は湯船とかあって、居心地が良かったから。……ねぇ、もしもこれから余裕ができたら、行水部屋に作らない? 温かいお湯につかりたいの」
肩をすくめたり、卓に身を乗り出したり、ヴェルンの様子は少しだけ忙しなかった。
「なら今日も売って稼がないといけない」
「目標はどれくらいですか?」
「ほかの店より単価が高いから……二振り」
「まぁ嬉しい。期待しているからね、商売上手さん」
仲睦まじい朝食を終えると、二人の鍛冶屋としての一日が始まる。
ナイアデール国に移住して一年ほど経つ頃には、商売も軌道に乗っていた。
アランが店番をして、ヴェルンは奥の工房でひたすら刀を鍛えて、役割分担をしながら切り盛りする。取り扱う品物が――刀が普及していない時代にあれば、当初は客足に伸び悩んだ。
しかしヤゲンによってアランに仕込まれた武芸が、これを補うものとなった。
それが生かされたのは、客に「この剣は何だ?」と問われた際に「こういう武器です」と実演して見せる時である。
果実を撥ねずに斬る、鎧甲冑を一突きで貫通させる、鉄板を一刀両断する、そんな離れ業で刀の可能性を示すことで購買意欲を誘った。
もちろん、客がそれほど扱えるかは保証できたものではない。
『おい、これ斬れないじゃないかよ!』
中にはそう怒鳴り込んでくる客もいた。それでも大半はその事実に惚れ込んで試行錯誤を重ねた。そして興味本位の誰かが訪れて、また口伝いに噂が広まっていくのだ。
自分の生死を左右する得物にこだわりある者たちの、その心に大きく響いた形だった。
そうなっていく過程で、ほかの鍛冶屋が刀の作成に乗り出すまでは早かった。
もっとも、それらが鍛えたものは単なる片刃の剣になって、刀と呼べる代物にはならなかった。だからナイアデール国を探しても数少ない『本物が手に入る店』として、ヴェルンの店の名前は売れに売れた。
世間に刀匠と認められて、客足は日を追うごとに伸びていく。
公私ともに順風満帆とも思える生活が続いていた、そのはずだった。
とある朝、台所で顔を洗っていた時のことだ。
「ごほっ、ごほっ、げほっ………ぇ…え? ……なに、これ……?」
まだしつこく続いていた咳が、この日は少し具合が違っていた。
錆びた鉄を舐めたような苦みが口内いっぱいに広がった。口を塞いでいた手の平には、べっとりと血がこびりついていた。
気のせいなどではなく、自分の身体には何かしらの異常が起こっている――これに思い知らされたヴェルンは、ひどく動揺してしまった。
「ヴェルン? 今の……大丈夫か?」
別の部屋から咳を聞きつけて来たアランに、小さく声をかけられる。
水がめから汲んだ水で手を洗い、顔を洗っていた様子を装い、死角で口内をすすぐ。こともなげな調子で振り返ったヴェルンは、アランの顔を見ればすぐに笑顔を作った。
「……ん? 別にどうにもしないけれど?」
訝しげに眉をひそめるアランを真っ直ぐに見て、そのまま演技を続ける。
「ああ、そうだったわ。お店を休んで出かけようって話をしていたけれど、ごめんなさい。私ったら別の用事があったのをすっかり忘れていてね。今日はそっちを優先してもいい?」
「用事? 何か注文でもあったか?」
「いいや個人的なこと。おや何かな、もしかしてアラン君ったら心配しているのかな?」
ヴェルンはアランの様子を茶化して、はぐらかそうとした。
はぐらかせると、思っていた。
「……心配している」
「あ……あはは、今日のあなたってば素直なの。本当に大丈夫だから」
意表を突かれて言葉が飛びかける。
どうにか堪えていたヴェルンは、しかし足早にその場から離れて一人になれば、何か言い知れない不安感に押しつぶされてしまいそうで、しばらく涙が止まらなかった。
――この日のちに病院で診察を受けて、不治の病を患っていたことが判明する。
身体が結晶化してフォトンストーンのようになる、原因も治療法もわからない稀有な病気だった。体内から徐々に進行して、やがて全身をむしばみ、発症からおよそ五年で死に至る。
進行を遅らせるためには『フォトンを使わない』など挙げられるが、症例が少なく確証はない。
咳が出始めてから、この時ですでに四年ほど経過している。
ヴェルンは余命一年という宣告を受けた。
翌日になっても、翌々日になっても、アランには言い出せなかった。
しばらく経った日のこと。それは突然の来客だった。
「ほぅ。あの男の言ったとおりの、素晴らしい業物ばかりだ」
ぞろぞろと護衛を引き連れて、身なりの良い小太りの男が入店してきた。
大部分がはげ返り、その髪はもみあげと襟足かけてだけ残っている。いやらしく舐めまわすような視線に、間延びした切れの悪い口調は、どれだけ好意的に接していても心証が悪く感じられる。
アランが配達で出払っていたこの日は、ヴェルンが接客にあたっていた。
「いらっしゃいませ。何かお探しですか?」
愛想よく笑い、カウンターから決まり文句をかける、
「ここでは洗練された本物の刀が手に入ると聞いてねぇ。美しい剣を集めるのが趣味でねぇ。それで実は近いうちに大事な取引先を訪れるのでねぇ。何か手土産に欲しいと思ってねぇ」
「そうでしたか。扱いが難しいものですから、贈答でしたら脇差など……」
ガラス棚に陳列された刀に、男の視線は釘づけになっている。
美しいと噂を聞いて訪ねて来たのだと思えば、ヴェルンは少しだけ鼻が高くなる。心証こそ悪くも武器に美術的な価値を見出そうとは、ひょっとすれば自分の同類かもしれないと感じていたのだ。
「すべてだ。ここにあるものすべてをいただく……君も含めてなぁ、ヴェルン=スミシィ」
「……冷やかしでしたら、お引き取りいただけますか?」
立ちどころに表情を失して、殺気立つと出入口を指差した。
「冗談は嫌いでねぇ。いいかね? 良く聞きたまえ――」
ヴェルンは男の要求に息を飲む――断ることで失ってしまうものが大き過ぎて、だから彼女は断れなかった。また身体のことがある手前、むしろ応じた方が良いのではとも思ってしまった。
「一か月だけ、……あと一カ月だけ時間をください」
引き返せない道だと知りながら、彼女はそう言葉を返した。
先日の埋め合わせとして、ヴェルンはアランを誘って繁華街に繰り出した。
これと言って行き先を決めずに、朝から足の気まぐれに任せて歩いた。
さすが鍛冶の国と呼ばれるだけあって、右を見ても左を見ても鍛冶屋ないし道具屋ばかりが目に留まる。男女が腕を組んで回る街並みとしては、およそロマンチックさの欠片も感じられない。
それでも、それはそれで、彼女は十分に満足していた。
「あ、ちょっと見てこれ。この柄糸かわいい」
「武器がかわいいと、何か役に立つのか?」
通りがかる道具屋に刀の部品を見つけると、ヴェルンはまめに寄り道をした。
また一度手に取れば穴が開きそうなほどつぶさに品定めもした。そして、気に入るものがあれば金銭を出し惜しみせずに買い取って、アランの肩に下がった大きなかばんに押し込んだ。
出かける間は平たかったかばんは、昼になる頃には丸々と膨らみ始めていた。
「調子に乗れるかもしれないじゃない」
「なるほど。自分を奮い立たせる……かっこいいとは違うのか?」
「ところでさ。アランは何色が好だったっけ?」
「……青色。見ていると落ち着く」
「そう。あのすみません。これをいただけますか?」
青色の柄糸と特殊な塗料を選び取って、ヴェルンはその道具屋の主人を呼びつける。
一とおり街を回ったあとは、空腹を満たそうと適当な飲食店に入った。
人目もはばからず、アランの口に「あーん」と料理を運ぼうとする。
嫌がって顔を背けられれば、青筋を立てて掴みかかり、無理やりねじ込んだ。ほかの客に面白がられて「もっとやれ」と拍手などもらうと、彼女は気を良くして大笑いした。
実際の時間よりも、そうして過ごしていた時間は短く感じられた。
「近頃のお前は、また何だか違って見える」
「……どんな風に?」
帰りがけの道で言われて、ヴェルンは少しどきりとした。
「わからない。けれど、そんな気がしている」
「あなたは、あまり大きくは変わらないね。私のせいだけれどさ……」
「どうしてそう思った?」
「ほら、そういうの。やっぱり言うと思った」
突き放すような口ぶりで、ヴェルンは言葉を繋げる。
「……そうやって、あなたは私しか見ようとしなくなった。私のわがままがそうさせてしまったの。いいアラン? これからは色々な人たちを見て、聞いて、知らないと駄目なんだから」
「そう言われても、……わからない。どうすればいい?」
困り顔を浮かべたアランの、その両肩にそっと手を添える。
「きっと世の中の善いことや悪いことなんて、その時の偉い人が決めちゃうの。でも私たちの中には私たちだけの善悪がある。いつだって私たちはその合間にいて、どうにか折り合いをつけながら生きている。だから、一度その人のことだけを見てみるといい」
それを伝える前には、ヴェルンはもう手を離していた。
「そうすれば……その人の真心があるはずだから」
翌日から寝る間を惜しんで、ヴェルンは鍛冶に没頭した。
たった一振りを鍛えるために、すべてを捧げる。
余命宣告から使わないでいた元素化をもちいて――寿命を削って生み出した鋼を、繰り返し、繰り返し、繰り返し、繰り返し納得がいくまで鍛え上げた。
自分の足で調達した部品を加工して、自分がもっとも美しいと感じる形に仕上げていった。
無理をすれば病体に障るとは、初めからわかっていたことだ。
思わずふらついて、見ていたアランに休むよう言われた時もある。しかし「今いいところだから」と頑なになって、彼女は金槌を振り下ろし続けた。どれだけ苦しくても最後まで止まらなかった。
やがて一カ月して完成の日を迎える。
やや大ぶりになる真っ直ぐな刃文の浮かんだ刀身。
青を基調に美しい金装飾がなされた柄と鞘。
たった一人が持つ姿を思い描き、たった一つの願いを込めて生み出した分身。
彼女はその刀に『月下美人』の名前をつけた。
2018年5月25日 全文改稿。