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老いた剣聖は若返り、そして騎士養成学校の教官となる  作者: 文字書男
真心の還る場所(七十年前編)
113/150


 葬儀のあった夜から数日後になる。


 ゾルディフの遺産と商人の餞別を旅費に、大陸の東の果てにあるらしい『ヤマの国』を目指して、アランとヴェルンは旅に出た。その意思は固く、出ると決めてからは迷わなかった。


 荷物は旅行かばん一つに収まる分だけにまとめる。長く歩くと見込んで履物は新しく買い替える。


 街と街の間を定期的に交通している乗り合い馬車を利用しながら、三日三晩かけてエンプーズ国から出国する。それまでは急いだが、戦火から遠ざかったあとは、その必要もなくなる。


 徒歩での移動を基本として、街道に沿ってのんびりと東に進んだ。


 街道のわきで野宿をする。通りがかる荷馬車の荷台に乗せてもらって交通費を浮かせる。奮発して泊まった上等な宿屋が期待外れで気を落とす。靴擦れの痛みに歩けなくなったヴェルンを、アランが黙って背負い歩いていく――二人は旅先で多くの経験をした。


 たとえ道程は長くとも、時間に追われた旅路ではない。


 行くべき理由に大した使命があるわけでもない。ただ二人で穏やかに暮らしていける居場所が欲しくて、そこにはあるのかもしれないと希望を抱いた旅ができるだけで、今はそれだけで良かったのだ。


 だから旅先で面白そうな噂を聞いて、懐に余裕があったなら寄り道もした。


 前線から遠ざかるに連れて、目の前に見える世界も変わっていく。開拓されていない土地が増え、人の営みを感じる時間が失われていく。連邦主要国であるウェスタリア国を越えてからは、それらがより顕著になっていく。


 戦争の臭いのない長閑な空気に包まれていると、自活と自衛さえできれば、ひょっとすれば都会よりも住みやすいのではとも、何やら思えてくる。


 そんな様子を見ているだけに、ヤマの国に対する期待は自然と大きくなった。





 その日は、春の到来を感じさせる一日だった。


 快晴に浮かんだ太陽が照りつける、東向きに柔らかな風を受ける草原地帯。一面に広がる緩やかな芝の勾配には、果てが地平線に消えるほど長い街道が敷かれてある。


「あの国も、あの国にも、私たちの知らない場所で、私たちの知らない生活をする人たちがいた……考えたこともなかった。目の前にあるものだけで何でも知った気になっていたのね。これまでを思い出すと、何だかそんな自分がすごく恥ずかしいわ」


「特に誰かと違う気はしなかった」


 追い風を味方につけて、アランとヴェルンはその街道を歩いた。てくてくとした歩調を合わせて、アランは旅行かばんを両手にうしろを、ヴェルンは手ぶらで前を歩いていた。


 時おり通りがかる馬車に乗せてもらえないかと手を振るが、この日はもう二度ほど素通りされてしまっている。


 そもそも馬車で交通するべき道であって、わざわざ歩いて風情を出そうとせず、素直に乗り合い馬車を利用していれば疲れなかったはずなのだ。


「見え方には気を使っていたもの。自分のことだから良くわかる……だいたい、これはあなたのせいだからね? あなたがそんな瞳をして、私の前に現れたからいけないのよ」


「どういう理屈だ?」


「母さんが死んだ時ね、悲しんだのは父さんと私だけだった。葬儀に来ていた親戚はあっさりとして見えた。違いは何だろうって考えたら、みんな母さんを良く知らない人たちだって気がついた。……悲しんでいる振りをして気味が悪かった。それから誰かと関わることが怖くなっちゃった」


「それと何か関係があるのか?」


「あぁ、まだ何にも染まっていない。この男の子の心は真っ白だ――そんな気がしたの。寂しかったのも少しあった。相手がどんな人間かわからないから怖いのよ。だから私は全部わかっている相手が欲しかった。あなたを思い通りにしたいと思った」


「俺はお前の思い通りだったか?」


「最初は都合の良い返事をしてくれる手鏡と話しているみたいだった。自分の本性が見えるだけで、まるで手応えなんかなくて、でも少しずつ変わっていった。最近のあなたは少し人間らしい」


「あまり自覚はなかったな」


「だから本当はね、最初に好きって言ったのも嘘だったのよ?」


「だった?」


「むむ、……意味がわかるくせに聞き返したな?」


「……なら今は違うのか?」


「やだ、教えてあげない」


 日を追って少しずつ変わっていくアランから、ヴェルンは悪戯っぽくそっぽを向いた。


 たくさんの言葉を重ねて、二人は本当の意味で互いを知り合っていく。二か月に及んで旅の末に、その心の距離を近づけながら、終着の地である東の果てまでたどり着いた。


 ――ヤマの国とは、フォトンストーンに依存しない稀有な小国家だった。


 木造平屋の家屋が規則正しく軒を連ねる様子など、ほかの国ではあまり類が見られない。


 ここでは木製品を主流に鉄や銅の調度品が普及しており、さらに金の採取も豊富で細工技術も発達していた。それでいて景観の一つをとっても気をまわされた印象がある、自然豊かな美しい国だ。


 ただ比較的に国土も小さく、知名度も万人が知っているほどではなかった。


 連邦の傘下にはあるが、戦争の前線から最も遠い地域と、独自の生活様式と格式を重んじる文化の特異さから、半ば独立国のような扱いを受けている。


 また手先が器用である傾向にあって、この国の出身者は政府に徴用令を出され、兵器製造に携わる現場へ駆り出されることが多い。





 春の最盛期に首都を訪れて、アランとヴェルンはその生活を肌で体感する。


「不思議な国……建物から服装から、何から何まで違っている」


「ここが、俺の故郷なのだろうか?」


 着物姿の人々で賑わう昼時の大通りで、二人は当たり前のように腕を組んだ。


 半分は人混みを歩く際の癖で、もう半分は異国の地に踏み入る心細さを紛らわすためだった。どうも異国の人間は珍しいらしく、服装も違えば骨格から違っているのだ。


 奇異の目を向けられている感覚も絶えない。


 まるで水と油のようで、まだどこにいても浮いて思えた。


「あれは靴なのかしら? 建物の中では脱がないと駄目みたい。木枠に白紙を張った窓がある。横にずらして開ける扉があったりして、訛りも独特。……なるべく早く覚えよう」


 ヴェルンは人々の暮らしぶりを事細かに観察すると、口に出しながら一つ一つ記憶した。この国でして良いこと悪いこと、そこに実際にある様子からつぶさに見取っていく。


「よく見ているものだな?」


「慣れているからね」


「来て早々に、どうしてそう肩肘を張っている?」


「ここで暮らしていくつもりで、早く馴染むためだけど? ただでさえ外国で生きてきた私たちが、こんな異文化に溶け込むなんて難しいし、せめて私たちの方から近寄っていかないと」


「ここで暮らすつもりか? ……少しも聞いていなかったぞ?」


 アランの眉間にしわが寄る。そんな様子を見てヴェルンは黙りこくった。


 四年間を一緒に過ごしていて数度しか覚えのない、彼の表情の変化に驚いた――というよりは、それが間抜けにも受け取れる類の表情だったことが意外で、彼女は呆気にとられたのだ。


 すると立ちどころに、もっと別の表情も見てみたいという衝動に駆られてしまう。


「何だ、どうして急に黙っている?」


「ねぇ……ちょっとだけ、ちょっとだけニコっと笑ってみない?」


「笑えと言われても、それは無理にするべきものひゃほひゃぁ……」


 大通りの真ん中に立ち止まって、ヴェルンはアランの両頬をつまんだ。旅行かばんを持って両手が塞がっていることに付け込んで、その柔らかい頬を好き勝手にいじくり回した。


「もう少し目を細めて、ほら、こんな風に口角を上げて……笑顔は大事だよ。自分がどんな人間かを教えないと相手だって教えてくれない。知りたいなって人と出会った時は無理にでも笑うの」


「ははふほか?」


「……それでいいじゃない。みんな騙しだまし生きているんだから」


 アランの瞳を見つめて、そこに自問自答をこめて首を傾げる。そうしていると、ヴェルンは道端の誰かに声を投げられた。年老いてしゃがれた声で、人を諭すには相応しい口調に聞こえた。


「お嬢さんたちや。仲が良いのは結構だけれど、往来で長く立ち止まるものではないな。まだ続きをするつもりがあるのなら、せめてこちらに来ておやりなさい」


 そこを振り向けば、かなりの長寿と思しい老人と視線が重なった。


 生え際が後退した鼠色の短髪、指ほど太い眉毛、いくつもの皺が寄った優しげな目つき、重く垂れさがって見える福耳など、記憶に強く印象付けられそうな特徴を持っている。


 杖をついてはいるが、着物を着込んだ身体つきはしっかりとして見えて、まだ足腰も強そうに感じられる。


 アランの表情に夢中だったヴェルンは、ようやくそれに気がついた。


 路傍の人々が窮屈そうにしながら、立ち止まる自分たちを避けているのだ。あからさまに嫌そうな表情を浮かべる誰かもいるが、大半はこともなげに通り過ぎていく。


 とはいえ、自分たちが通行人の妨げになっている事実は、火を見るよりも明らかなことだった。


「あっ、……ごめんなさい。うっかりしていました」


 アランの腕を取ったヴェルンは、急いで老人のそばまで場所を移した。


「ほっほ。こうした時は自分を戒めるものだ。お嬢さんたちは旅人かな? この国の者は懐が広い。しかし甘えてばかりいると、自分を戒められない怠け者になるから注意しなさい」


「ありがとうございます。これからは気をつけます。……あの、一つお聞きしても?」


 ともあれ人が良さそうな老人との出会いに、ヴェルンはついでにと考える。


「ああ良いとも。何だろうかな?」


「薄紅色の花が咲く並木道を探していて、この国に、この街にありますか?」


 心当たりのあったらしい老人が、何度か確信めいて頷いた。


「お嬢さんが言っているのは、サクラの樹のことだろう。それならこの街にあるから、場所を教えてあげようかな。ちょうど時期で混んでいるだろうけれども、まぁ見るだけなら大丈夫か」


「何か行きにくい事情があったりして?」


「いいや、そうではないよ。行ってみたらわかることだ。近くの知り合いの店で紙と筆をもらって、すぐに地図を描いてあげようね。少し待っていなさい……そう、ふたりは何と言ったかな?」


 どこかに歩み出そうとした老人が、踏み止まって名前を尋ねてくる。


「え? ……あっ、私はヴェルンです。こっちの子はアラン」


 名前を尋ねられるとは思わず戸惑うが、ヴェルンはすぐに愛想良く答えた。隣に黙ったままでいたアランに目配せをして、そこには彼の紹介もまとめた。


「ヴェルンに、……アランだね。とても良い名前だ」





 親切な老人と出会ってから、半刻ほど過ぎた頃になる。


 簡略的に描き出された地図を頼りに、アランとヴェルンは首都の探索を続けた。そう離れた場所にあるわけでもなくて、たどり着くまでにそう時間はかからなかった。


 果たして、そこに広がっていた光景を目の当たりにした二人は、思わず息を飲むことになった。


 河川に沿って長々と並んだ、薄紅色の花を満開に咲かせるサクラの樹。


 そよ風が吹く度にひらひらと舞い散る花びらが、色がないはずの空間を彩り、すでに地面に落ちた花びらが、まだ鮮やかな色を損なわずに往来を飾っている。そこいら一帯に立ち込める甘い香りが、鼻孔を優しく刺激して安らぎをもたらしてくれる。


 それだけでなく、サクラの樹のそばでは、数えきれない人々が賑やかに過ごしているのだ。


 地べたに大きな茣蓙を敷いて座り、親しい者たちと料理を持ち寄って、まだ日も高い時間から酒を煽って騒ぎ立てる。その様子は、今がまだ戦時中である事実をまるで感じさせない。


「綺麗な場所。この街の人たちは、なんて楽しそうにしているのかしら」


 目の前の景色に見惚れているアラン一瞥して、ヴェルンは「ここだった?」と声を向ける。


 言葉が返ってくるまで、また彼と同じものを眺めて待っている。


「わからない。……でも」


 やや遅れてアランが口を開いた。


「でも?」


「ここで暮らしてみたい。二人で」


 ――みたいと、初めて確かに求められる。


「……うん」






 ヤマの国で生活を送るようになって、早くも半年が過ぎる。


 賃金の安い長屋の一室を借りたヴェルンとアランは、何に怯えることなく暮らしていた。


 あまり貯えは多くなく、ほか着替えや日用雑貨以外に持ち物はない。


 小さな円卓が一つあるだけの殺風景な部屋も、二人で暮らすには窮屈に感じる。そこに家具を買い揃えるにしても金銭は必要で、まだ余裕のない内はそんな贅沢など言っていられなかった。


 幸いだったのは、ヤマの国の首都には働き口が多かったことだ。


「それじゃあ、私は夜には帰れると思うわ」


「俺の方も夕方には終わる。ならあとで様子を見に行く」


 ヴェルンはとある居酒屋で給仕をしている。持ち前の器量を買われて雇われること数か月、今では男性客に評判を博して収益に大きく貢献する看板娘である。


 男の相手が中心になる商売だけに、最初こそ店主には心配されたが、酒気帯びた男に怯まない様子を見せてからは重宝された。


 時に横柄な態度で言い寄ってきた男を、一言「私に触れるな」と凄んで追い返したこともあった。彼女は気づかなかったが、一部始終を見ていた店主やほかの客は物陰で竦み上がっていた。


「あら、いつもそんなに心配してくれて、まあ嬉しい」


「……じゃあ、また戻って世話をしてくる。遅れたらヤゲンさんに悪いから」


 自宅の前でアランと別れて、ヴェルンは居酒屋に向かった。


 近所の人々には異国の人間として早々に顔を覚えられ、初めに礼儀正しく愛嬌を振りまいた甲斐もあって、おおむね良好な関係を築けている。


 通いがけには顔なじみから挨拶をもらったり、裾分けの品物をもらったり、得をすることもしばしばあるほどだった。


 ただ、それは広く浅く付き合っているだけで、決して彼らに心を許したわけではない。


「こんにちは。今日もお世話になります」


「来たかい。いつも助かっているよ。今日も頼りにするからね」


 もともと酒屋だった――店内と店先に床几を並べたばかりの小さな土間で、ヴェルンは昼過ぎから日没まで働いている。


 その間は接客で酒を運んでいるか、奥の台所で肴を作っているかして、たまに客の輪に混ざっておごられる酒をあおっている。


 決まって酔いつぶそうと図られるが、ヴェルンはしこたま飲んでも酔わなかった。その財布を軽くして、そんな下心のある客の帰ったあとには、店主と「ざまぁないわ」と呟くのがお約束だった。 


 ともあれ、酒に対する強さや酔い方は人それぞれである。


 いくら飲んでも酔わなければ、酔ってもしゃんとしている誰かもいるし、酒が入って理性が飛んでしまう誰かもいるのだ。


「おい、おやじぃ! 酒が足らねぇぞぉ、樽ごと持って来いってんだ、おぅ!」


 へべれけに酔った一人の客が、ばんばんと膝を叩いて催促する。


 梅色がかった長髪を適当にまとめた、二十代後半ほどの女だった。


 薄手の着物を緩く着て、まるで男のように大股を開いて生足を晒している。非常に女性らしい身体つきをして、それを強調するかのような出で立ちでいるが、そこはかとなく残念に思えてならない。


 最近できた常連で、いつも来店前から深く酒が入っているような客だった。


「おっと、今日も出戻りのメアリィが嘆いてやがる。おい、ふんどしが見えているぞ」


「るせぇんだよタコが! 女だからって酒に酔って股開いて何が悪い!」


 ほかの常連にからかわれて怒鳴るが、しかし女の言葉に本気さは感じられない。


「おぅ、相変わらず気の強えぇ女だ。だから他国まで嫁いで行ったのに愛想を尽かされちまうのさ。いや惜しいことをしたなぁ? お前さんみたいな女を嫁にもらう男なんて、もういねぇぜ?」


「そうだぞぉ、あたしは出戻りの女だぞこらぁ! 文句があるなら抱けよおらぁ!」


「がはは、そいつだけは勘弁ってやつだよ。ヴェルンちゃん勘定ね」


 ひどく絡まれると見込んだ常連が、そそくさと支払いを済ませて帰っていく。店の客が自分だけになると、女がひどく退屈そうな顔で床几に横たわる。


 聞こえるか聞こえないかで「どいつもこいつもいなくなりやがる」と呟いて、そのまま寝息を立て始める。


 店で居眠りされた経験もなかなかなく、店主が大きなため息を吐いた。


「こいつはまいった、寝てしまったか。まだ店もあるのに」


「……この人の家はどこですか?」


 女に目配せをしながら、ヴェルンは困り顔の店主に尋ねた。


「そう遠くはないが、どうしたんだい?」


「今日はもう上がりですから、私が送って帰ります」





 ヴェルンは酔いつぶれた女を背負い、月明かりも眩しい夜の首都を歩いた。


「……っ、重たい人。良い顔ばかりするのも考えものね。遅くなったらアランに心配されちゃうし、なるべく急がないと…………えへへ。私ったら何を言っているのかしら」


 日没から半刻以内には人気もめっきり失せて、大通りの様子は閑散としてくる。


 途中で誰かとすれ違う機会は少なく、可愛らしい仕草で女の重さを主張したところで、救いの手を差し伸べてくれる誰かには出くわさない。むしろ徒労に終わって疲れる始末である。


 かくなる上は、愛しい誰かの姿を脳裏に思い浮かべて、妄想の力に頼るほかになかった。


「えっと、たしか三丁目の角を右に曲がって……」


「そこから左に真っ直ぐ」


 追いかける声が背中から届いた。女が目を覚ましたのだ。


「あら起きましたか? それでは降りてください」


「起きてない。もうひと眠りするぅ」


「いや、ちょっと駄目ですったら。ご自分で歩いてください」


 ヴェルンは背中にしがみつく女を強引に引きはがした。


「いぃやぁだぁ、自分で歩きたくなぃー。おぶってくれないならここで寝るぅー。もしも通りがかる悪漢の慰みになったなら、あんたを呪いながら舌噛んでやるぅー」


 地べたに寝転がった女が、じたばたと駄々をこね始める。


「くっそ、この人……」


 そうやって動こうとしない女の、そのあまりの酒癖の悪さに、いっそのこと本当に置き去りにしてくれようかとも思い悩んだ。それでも最後には、ヴェルンはしぶしぶ女に肩を貸した。


「よぉし、今日はもう一軒行くぞぉ!」


「寝言は寝てから言ってくださぁあああ危ない! 真っ直ぐに歩いてくださいったら」


「あんたはお人好しだねぇ。それは本心かい? 体裁かい? それとも……」


「……もうすぐ着きますから」


 足取りの危うい女を引き摺って、ヴェルンはその家にたどり着いた。


 彼女は着いてはっとなった。


 自分がそういった家で暮らしてきたから、その外観を一目見て鍛冶を生業とする人間の家だと気がついた。また今さらになって、火傷の跡や指の太さといった、女の手がもっている特徴にも気がついた。


「あなた……鍛冶屋だったのね」


「へぇ、いい見識じゃないか。あんたもその手の人間だったのかい?」


 ヴェルンは答えずに、女を連れて母屋に向かった。


 すぐに台所を設けた土間があり、一段高くなって畳敷きの居間がある。ほかは押し入れなどがある間取りで、全体的に見ても広々とはしていない。空の酒瓶が散乱して足の踏み場もない様子だった。


 そうした一方で、部屋の片隅には鍛えられた得物が整頓して飾られてあった。


 だらしないばかりではない、ちぐはぐな印象だろうか。


「居間にでも座っていてください。お水を汲みます、お台所を触りますよ?」


 ざっと畳の上を片付けて座らせる。


 女の酔いを醒まそうと、台所にあったものを使って水がめから飲み水を汲んだ。そうしながらも、ヴェルンはつい得物に目線が向かってしまった。


 いくら見ても、やはりその形状には見覚えがない。


 二段のかけ台にかけられた、細身かつ緩やかに湾曲した片刃の剣、それ専用と思しい品のある鞘。


 一般的な長剣と思い比べて非常に鋭利な刃先をしていて、触れただけでも切れそうに見える。それを収めるための鞘もそう、まるで美術的価値を求めたように歪み一つないのだ。


 見れば見るほど脆そうで、見れば見るほど美しくも感じられる、不思議な剣だった。


「持ってきました。……まだ飲むつもりですか?」


 水を汲んで戻ってみれば、女の手には飲みかけの酒瓶が握られている。


「夜風に当たったら酔いがさめてしまった……ところで気にしているようだけれど、あたしの打った自慢の一品をまじまじ眺めてくれて、何かもの思うことでもあったのかい?」


 女から視線を感じながら、かけ台のそばに歩み寄る。


 私はこれを美しいと感じてしまっている。それでもこれは――。


 剣を手に取ったヴェルンは、その鋭い刃を見つめて思いやった。


「こんなものがあるから、あなたみたいに作る人がいるから戦争が終わらない」


 気がつけば、彼女は口走るように答えていた。


「……子供じゃあるまい。夢見がちな台詞を吐かないでおくれ。酒が不味くなる」


「子供扱いしないで、もう今年で十五になるわ」


 そう反論すれば女が噴き出した。


 膝を叩いて、腹を抱えて、ひどく愉快そうに大きく笑っている。


「――はっはっはっ……歳を食えば大人だって? 何だい、大人ぶっているだけだったねぇ」


「なら、どうすれば大人なの?」


 むっとなったヴェルンは、答えられないと思って聞いていた。


「黙ると思ったかい? ……その世の中の善いもの悪いものと分別がついて、その善いものに従って生きられる奴を大人って言うのさ。あんたみたいに世の中の物事をうだうだと否定して、内心じゃあ受け入れられないでいる奴が子供じゃなくて何さね?」


「……何なのそれ? そんなのおかしいわ」


「おかしいとも。悪事に手を染めて人様を蔑ろにする悪党が得をして、大人になろうと真面目こいた奴が損をする。ただね、いつまでもどっちつかずに自分ってものがない子供より、どっちもよっぽど性が良い生き方だろうさ。わざと子供をやっているなら最低だ」


「あんな死に方を認めなければいけないの? そんなの無理だわ」


 父の最後が脳裏をよぎる、ヴェルンは女を睨んで訴えかける。


「あんたに何があったかあたしが知るものかい……自分好みに世の中を変えたいなら悪党になりな。そんな気概がないなら世渡りだけを考えて大人になりな。どっちも無理なら、この先もずっと文句を言い続けて、子供のまま歳だけ食って死にな。今はそういう世の中さ」


 それまでとは一転した険しい顔つきで、言葉には怒気をはらんで、女が忠告をつけ加える。


「それとな、……思い込みで鍛冶商売を見くびるな。張り倒すぞ?」


 まだ納得できないヴェルンは、そんな女を睨んだままになる。


「……まったく嫌になるねぇ。こんな風に酒に溺れてさぁ、人の気も知らずに当たり散らしてさぁ、何を偉そうに……あんたも子供やっているじゃないか……」


 そう言ったところで女の様子が変わる。険しい顔つきを物悲しげに、膝を抱え込んで小さくなり、がっくりとうな垂れる。すっかり勢いを失った調子でむせび泣いて、弱々しく自分を物語る。


 ヴェルンは戸惑いながらも黙って聞いた。


「あたしには旦那がいたんだ。出会った時のあたしは二十二歳で、旦那は十五歳で、年下で少しだけ頼りないけど、こんないき遅れをもらってくれた良い奴だった。一緒にいられたらそれで良かった。……あんな若いのに徴兵されて、勝てない戦場に駆り出されて、もう帰ってこなかった」


 涙ぐむ目で、女が刀に目配せをして続ける。


「戻ったのは旦那の仲間が持ち帰った、ぽっきり半分に折れた刀だけだった。あたしがくれてやった刀は、あいつを護らなかった。今さら鍛え直したって、もう何も戻って来やしないのに……あんたの言うとおりだよ。こんなものは、ただの人殺しの道具さ」


 手にする刀に意識を向けたヴェルンは、記憶の中にある短剣の存在を思い返した。


 ――これは、あなたを護るために使って。


 面白半分ではあったが、もう半分は子供ながら真剣にそう思っていた。


 今一度だけヴェルンは自問する。本当に人を殺すだけのものと思っているのか、本当にその考えは揺るがないものであるのか、父親の仕事は本当にそれだけのものであったのか――。


 その答えはすぐには出なかった。


 出せるほど、まだ彼女はあの短剣の存在と向き合っていなかったのだ。





 それから女が泣き疲れて眠った、そのあとになる。


 夜道を走り通して自宅に戻ったヴェルンは、台所にいたアランを見つけるなり告げた。切れ切れの息も整えることなく、何か吹っ切れてしまった今の心境を、とにかく言葉に変えようとする。


「……何を慌てている?」


 首を傾げるアランに、彼女はこう切り出した。


「アラン! あのね、私ね……大人になってみる」


2018年5月22日 全文改稿。

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