Ⅱ
見上げれば日差しをさえぎる曇天が、見下げれば荒野を埋め尽くす死体がある。
いっそのこと即死だったなら苦しまずに逝けたのだろう。まだ辛うじて息が続いている者もいた。
喉に矢が刺さっている、斬り裂かれた腹から臓器が飛び出ている、四肢を欠損している、その症状を言えばきりがなく、どれもが致命傷であり、一刻のうちの死を避けられない。
「人間はなぜ争う? ……なぜ俺は問うている?」
一人の男が、死体と死体の隙間を歩いていく中に呟いた。
癖のある黒髪をまとめ上げた、荒んだ目つきの男である。
その黒のハイネックを弛みなく着込んだ出で立ちには、無駄のない筋発達をした肉体の存在が感じられる。また、この男の代名詞でもある、両手に二振りの長剣を握っている様は、見る者に得体の知れない凄みを感じさせる。
ガディノア=リュミオプス、それが男の名前だった。
つい先ほどまで、ここで大規模な戦闘が行われていた。連邦軍三万に対し帝国軍一万、実に三倍の兵力差がありながら、ほとんど損失もなく帝国が大勝を収める結果となる。
誰かは指揮官の優劣こそ勝因と主張するが、それでも内心では誰もがこれを勝因と考えているのだ。
――二振りの長剣を操る、彼という騎士の存在こそがすべてである。
「俺たちは何一つ分かち合えない。弱者は強者に依存して威を借る。強者は弱者を保護して優越感に浸る。無償の救済などはあり得ない。そこには恩義がつきまとう。すべてのしがらみから解放されるには、ただ死してこの世を去るほかにない……いいや、必ずしもそうではあるまい」
死体の下敷きになっている、死にかけの青年を見つけて足を止める。
見た目から十代半ばほどに思えた。能力者兵が防具を好まない風潮を踏まえれば、鎧甲冑の装備の有無で一般兵であると判断がつけられる。
両目には石片が刺さり、その左肩から先は欠損していて、見回しても付近にそれらしいものは見当たらない。
「ぅぁ……メア……リ、ィ……ここは真っ暗だ。帰りたい……帰りたいよ」
内出血で浅黒く染まった右手を伸ばして、虚空にある何かに触れようとする。たとえ光を奪われていても彼には見えているらしい。
その消え入りそうな嘆きを聞けば、察することは容易だった。
「……帰るがいいさ」
ガディノアは青年の首をはねる。
「相容れられぬならば根絶やしにする。業なら背負う……その先に太平の世があるならば」
語りかけるようにこぼして、ちょうど一人の隠密が現れた。
銀髪を短く切りそろえた、片顔に大きな痣の浮かぶ女である。
群青色の隠密装束をまとった身体は女性らしく起伏しており、首から下の露出がなくとも色気が感じられる。それでいて、隠密としてもただならない実力を兼ね備えているように感じられる。
そばに片膝を着いて忠誠を示した彼女を、ガディノアは「ベルガモット」と呼んだ。
「ガディノア様、敵の本隊が敗走を始めました」
「思ったよりも早かったな。……土の元素化使いを中心にエンプーズ国側に砦を築け。見込みのある敗残兵は捕虜に、抵抗するなら斬って構わん。現地民衆から略奪はするな、物資の蓄えは十分にあるはずだ……見つけしだい始末しろ。俺の手下にそのような人間は不要だ」
「御意に。どうかあまり気負われませぬように」
「……性分だ。構うな」
やるせなさげに表情を暗くして、ベルガモットがどこかに姿をくらます。
彼女から報告を受けている時から、ガディノアは雨が降り出しそうな曇天をずっと仰ぎ見ていた。しばらくすると視線を落として、ふたたび足元を気にかけて歩き出した。
ふらり、ふらりと……。
〇
スミシィ家の養子になってから、もうじき四度目の春が巡る。
自分の生年月日を知らないアランは、とりあえず便宜を図って十四の年齢を数えた。見るに年頃も近いと思える、ヴェルンの生年月日にあわせたのだ。
だから彼女の誕生日には、彼女と一緒になってゾルディフに祝われてきた――その親子の楽しげな様子を眺めていると、彼は胸が温かくなるような感覚がしたあとで、決まって後ろめたさを感じていた。
これまで四度それを繰り返しても、そうなってしまう理由はわからなかった。
誰かを祝い、誰かに祝われて居心地は悪くない。しかし自分はそれをしても良いのか、されても良いのかと自問すると、たちまちいたたまれない気持ちになる。
もしかすれば自分はここにはいるべきではないと、何やら強く思えてくる。
「どうしてなのかわからない。お前もそうなっていたりするのか?」
自分の胸にあるものが気になったアランは、ヴェルンにそう尋ねたことがあったが、
「……きっと気のせいだから、心配しなくてもいいのよ」
そんな一言だけを返されていた。
時に、月日を重ねるごとに二人の容姿にも変化が見られた。
顔立ちからは幼さ薄れて、背丈の平均値を上回った身体は同年代に羨ましがられる理想的な体型になっている。十四歳、これからは年齢的に成人一歩手前として扱われていく。
そんな二人の様子には美男美女という言葉を添えても、何ら遜色はないだろう。
ただ容姿に関してまったく頓着のないアランは、自分の美貌に対する自覚のなさから、ヴェルンに呆れられている。これは大っぴらにではなく陰ながらのことだった。
万が一にもあり得そうにはない話であるが、自分の魔性に気づいて近所の淑女をたぶらかさないかと心配されたのだ。
「……ヴェルン。いつも髪型が違うのはどうしてだ?」
などと面と向かって言ってしまう男なのだから、やはりあり得ない話だ。
十二歳になった頃から、アランはヴェルンと街まで働きに出ていた。
ゾルディフの鍛冶で十分に生計は立てられている。それでも収入が増えて困ることはない。
それに郊外で世間を知らないまま年齢を重ねては、今の生活が立ち行かなくなった場合のつけを大きくしてしまうことだ。だから少し早いが、つてを頼りに見合った職に就かされた。
それから二年、アランは国立図書館の倉庫で整理ほか雑務をしてきた。
この当時は活版印刷技術の向上が最盛期を迎えていたこともあって、世間には書物が安価で大量に出回っていた。
また複製品の製造による単品価値の暴落は仕方がないことで、示し合わせるように、書物を扱った事業や商社なども増え始めていた。
中でも、大きな影響を受けたのが古株の図書館である。利用客の減退に、貯蔵する書物の増加に、国からの出資も削減されて経営は火の車に、施設を維持していくだけがやっとの状態に陥る。
やがて人件費を払いきれなくなれば、職員たちも愛想を尽かして去っていった。
そんな図書館にとって、アランは非常に都合が良い働き手だった。
まだ一応は成人前の子供であるから、その人件費は正規の値段よりも安く上がる。何より指示に従い黙々と働くから手は焼かない。受付にでも立たせたなら、その美貌が客寄せにもなる。
仕事が済むと延々と書物に目を通しているが、これは前途のこともあって大目に見られた。
とある日の夕暮れのことだった。
「こんばんは。アランはどこにいますか?」
『ああ君か。いつもご苦労様だね。アランなら書庫で整理をしているはずだよ』
この時間帯になると、ヴェルンが図書館にやってくる。
近くの飲食店の厨房で調理をしている彼女が、いつも先に仕事を終えて迎えにくるのだ。なるべく一人で帰路につかないようにと、道中を心配したゾルディフの言いつけでもあった。
ここ二年間ずっとそうで、図書館の職員にも覚えられているため、彼女の入館は顔を見せるだけで許された。
受付を挨拶一つで素通りし、ほとんど人気ない館内を進んで、中の職員にアランの居所を尋ねる。習慣と言えるほど続いているだけに、職員の方から教えてもらうことも多い。
職員が言ったとおり、アランは図書館の書庫にいた。
「アラン、そこにいるのよね? 一緒に帰りましょうよ」
しんと静まり返った広い部屋を埋め尽くす、壁の大半が隠れるほど積み上げられた書物の山脈の、その合間にちらりと特徴的な白髪を見え隠れさせる。
ヴェルンに見つかった時、彼は書庫の整理などしておらず、脚立の段差に腰かけて古めかしい一冊を読みふけっていた。
「……もう少し。もう少しで整理が終わるから」
「読み終わる、の間違いじゃない?」
「予定していた分は終わったから」
ヴェルンが足の踏み場を気にして歩み寄ってくる。
活字に目を通しながら、アランは器用に受け答えをした。
「あらそう? ……今日は何を読んでいるの?」
「フォトンの起源について推論が書かれている」
「また難しそうなものを選んだのね。何が書いてあるの?」
「フォトンの古い名称には『神龍光』というものがあって……朽ちた龍族から授かったから神龍光。そう呼ばれていたものは一人しか持っていなくて、白銀色だったとか。著者によれば、現代の青白いフォトンも神龍光ではあるけれど、どれも突き詰めていけば紛い物らしい」
「青白い色……あたしのってやっぱり、そうなのかしら?」
「元素化って珍しいものだ。火とか水とかに変わる。それがヴェルンの場合は金属らしい」
「珍しいのね? そういえば父さんにばれた時は、絶対に誰にも言うなって言われたわね」
「……それが良いかもしれない」
「あら、どうして?」
「戦争に行かないといけなくなる」
ヴェルンの目が少しだけ丸くなった。アランの口からそんな言葉が、何やら誰かを心配するような口調でこぼれたから、初めて聞こえてきたからだった。
「……行ってほしくない?」
言葉は無自覚で、アランは上手く答えられなかった。淀みなく活字をなぞっていた指先を止めて、静かに考える。しかし感じている気持ちに相応しい言葉が見つからない。
「整理も終わったから、帰ろうか」
諦めて本を閉じたアランは、相変わらず表情なく言った。
その日の帰路につく前になる。
「晩御飯の食材を買って帰らないといけないの。持つのを手伝って」
アランはヴェルンから買い物に付き合うように頼まれた。
彼女が夕飯の食材を選んで、彼はひたすら荷物持ちをする。家事の一切をこなしている彼女には、一度に大量に買い込む癖があった。長い間、相当な量の荷物を持ち歩かなければならない。
これまでは彼女の書きとめを頼りにゾルディフが一人で往復していた。それが二人で街に出られる年齢になってからは、そのように役回りも変わっていた。
「わかった……今日は?」
「実はまだ決めていないの。何か食べたいものとかある?」
歩調に余裕のない人々で混み合う大通りを歩く中で、アランはヴェルンと手を繋いだ。
はぐれては大変だからと、二人で街を歩く際に彼女の提案で始めたことだった。それも近頃では、何を言われるでもなく、彼は自然と彼女の小さな手を取るようになっていた。
もっとも自分の変化に自覚もなければ、彼女が喜んでいるなど気づきもしない。
「鳥料理がいい」
「そう。そうね……なら、そうしましょうか」
その道すがら、いつものように献立を話し合って決める――「何が良い」と聞かれて「何が良い」と答えて「ならそれにしよう」とやり取りは終わる。
その食べさせたい料理は、食べて欲しい誰かの食べたい料理で、その誰かも素直に答えるのだから必然だろう。
「アラン。あなたって、どれくらい覚えている?」
やぶから棒にヴェルンから尋ねられる。
「何について?」
「自分が小さかった頃のこと。私はそんなに沢山は覚えていなくて、ほかの子たちは、あなたはどうだろうって、少しだけ気になっちゃった。何だっていいから教えてよ」
「……薄紅色の花が咲いた並木道を、誰かに引かれながら歩いていた。温かい木漏れ日にあたって、覚束ない足取りでよたよた、よたよた……たぶんこの国に来る前のことだ」
「それって、東の国じゃないかしらね?」
「知っているのか?」
アランはヴェルンの言葉に関心を持った。
「私も詳しくは知らないけれど、薄紅色の花の咲く樹木があるらしいわ。もしかしたらアランは東の国から来たのかもしれないわね? ずばり、あなたの故郷だったとか?」
「……故郷か。本当にあるなら行ってみたいな」
「あるわよ、きっと」
「詳しく知らないと言ったばかりだ」
「私があるって言ったらあるの」
他愛ない会話を重ねていて、つい気を取られた時だった。
前から歩いてきた二人組の男の、その片方とアランは肩がぶつかった。
「気をつけやがれ」と因縁をつけられかけるが、すぐに「すみませんでした」と謝るヴェルンに手を引かれて、ことなきを得る。
とはいえ実際に喧嘩になっても、彼は負けなかったはずだ。
これまで何人もの無法者を相手にしてきた彼は、無自覚であるが能力者として目覚めていた。力の使い方を知らずとも、一般人を逸脱した運動能力を発揮できている。
十歳当時の時点でそれだから、身体が成長した今がどうであるかは考えるまでもない。
かといって好き勝手に喧嘩をされても、彼女にしてみたら困ることだった。
郊外の自宅に帰って、しばらく経った頃になる。
「アランったら今日もサボって本を読んでいたの。それもまた、わざわざ難しそうな本を選んでよ。このままじゃ、いつか難しい言葉ばっかり使う頑固者になっちゃうわ」
「いいや、俺は仕事を終わらせてから、……そうなのか?」
母屋の居間にある食卓で、アランは親子と夕飯を囲んでいた。
その日にあったことを話題にして、ヴェルンが調理した鳥料理を口に運ぶ。基本的に寡黙な人間が二人いるから、耳立つほど騒がしくはならない。そこには団欒という言葉が相応しい。
「……実は二人に言っておくことがある」
ふと声に真剣みを持たせて、ゾルディフがそう切り出した。
聞くべきだと察して手を休めたヴェルンを見習い、アランは同様に振る舞った。
「実は隣国が帝国の手におちた。次はこの国に侵攻してくるらしい。そう商人が話していた。それで近いうちにこの国を離れようかと考えている。今日は街も忙しなかっただろう? 耳の早い奴らは、われ先にと荷物をまとめ始めていやがるのさ」
「この国で戦争が始まってしまうの?」
「もう二、三カ月もすれば隣国を完全に占領して、帝国は次の侵攻を始める。俺たち一般人は巻き込まれないうちに、さっさと逃げるに越したことはないって話だ」
「ここでの生活は気に入っていたのに……」
残念がった面持ちで目を伏せたヴェルンを横目に見て、アランは何か感じるものがあった。
屋根のある場所で寝起きをして、いつも近くには誰かがいて、誰かに脅かされない穏やかな時間を過ごして――彼女の言葉が、また自分の中にもあるような感覚だった。
「……そうか。気に入っていたのか」
自分にだけ聞こえる声で、彼は呟いた。
また一週間ほどが経った、とある日の夕暮れのことだった。
アランを迎えに向かった図書館で、ヴェルンはその光景を目の当たりにした。
いつものように入口にある受付に挨拶をして、奥に進み入ったところで直面した。管理机にかけて書類整理をしているアランが、見知らぬ女と親しげに話している。
もとい親しげにしているのは女の方だけで、彼の受け答えは浮き沈みなく単調そのものだ。
女の容姿は眉目秀麗と言える。自分の容姿に理解も自信もあるのか、仕草の一つ一つが愛らしい。ただ同性の目線から見ると、女には男相手に作ったような節がひしひしと感じられた。
まさか彼に限って惑わされることはないと思うが、やはり見ていて面白くはなかった。
「……気に入らないわね」
声をかけないまま踵を返して、ヴェルンは一人で帰路についた。その間はずっと、いつになく胸の奥がもやもやとしていた。あわせて少し混乱していた。
不快感の理由は単なるやきもちとわかるが、一体いつから自分がそんなものを感じる人間になってしまったのかが、わからなかった。
――一緒に帰りましょう。……あら、この人はどなた?
少し前までなら、そう言って何食わぬ顔で割り込めたはずだ。
アランに限ってそれはない――と、まだその時までは確信を持って言い切れたのだ。誰がどう足掻こうとも入り込めない距離で、自分が最も近い場所にいるように感じていたのだ。
「私、いつからそんな風に……」
あれやこれやと考えるうちに、ヴェルンは自宅についた。
日没したばかりの空はうす暗くて視界も悪かった。それもあって、彼女は自宅の様子がおかしいと気づくのが、その母屋を間近にするまで遅れてしまった。
「え……何なの、これ?」
蹴破られたような痕跡のある玄関をくぐる。恐る恐る家の中に入れば、家財道具から日用品まで、何から何まで荒らされた屋内に迎えられる。
金品の窃盗が目的ではなくて、ただ荒らすだけを目的に押し入られたような印象さえ感じられる、そんな散らかり方をしている。
こうした状況で、ゾルディフの姿がどこにも見当たらないことが不可解だった。
「父さん……いるの? どこにいるの?」
母屋には見つけられず、ヴェルンは工房の様子を確かめに向かった。
少し離れた物陰から目を凝らせば、帳の下がる窓の隙間から漏れ出して明かりが見えた。そこには誰かがいるに違いないが、それでも見当はつけられなかった。
彼女は意を決すると、工房のそばまで静かににじり寄って、窓の隙間から中の様子を覗き込んだ。
「……へへっ、お嬢ちゃん。中が気になるかい?」
背後に気配を感じた時には、もう手遅れだった。
誰か見知らぬ男から後ろ手に腕を掴まれる。腕力にものを言わせて自由を奪われる。
「いや、何、放して――」
じたばたと暴れるが、振りほどけそうな手応えはまるで感じない。無理やり歩かされ、ヴェルンは工房の中に連れ込まれた。そこで初めて、どんな状況下かが見えてくる。
奥の方には傷だらけのゾルディフが転がる。周りには素行の悪そうな男が五人いて、代わるがわる彼をいたぶっていた。面白半分に蹴って、殴って、暴力によって自尊心を満たしていたのだ。
母屋を荒らした犯人が誰なのかは、この様子を見たならほかに疑いようもない。
「っ……ヴェルン……くそ……」
「父さん! あなたたち何だって言うの!?」
自由を奪われながら、そんな様子を見せられることは耐えがたかった。
ヴェルンは腹の底から怒鳴り散らしたが、
「あん? うるせぇ餓鬼だな? なぁ? なぁ?」
ふざけた調子で男の一人に頬を往復で叩かれる。頬を鷲掴みにされ、顔の向きを無理に戻される。そう暴力を振るわれてしまうと、勇気よりも恐ろしさが勝って押し黙る。
「……何でかってか? 憂さ晴らし、もっと言やあ復讐だよ。復讐ってわかる? お前と一緒にいる白髪のガキが、むかし俺の兄弟を殺りやがってよ、この間ようやく見つけたのさ……あの憎たらしいクソガキが、こんな場所で、ぬくぬくぬくぬく育っていやがったなんてなぁ! ムカつくぜ!」
ヴェルンの頬を乱暴に揺らして、男が狂ったように息巻いた。
「だが胸糞悪い毎日も今日までだ。まさかあのクソガキが人に情を持ちやがった。お前は人質だよ。あのもぐりの能力者を封じるには打ってつけだ、なぁ、どうだよ、なぁ!? はっはっは!」
「いっ、やめっ……」
髪を根元から掴まれて、陰湿な笑みを浮かべて迫られる。
「やめろ……やめろぉ……」
ゾルディフが必死に声を振り絞った。
それが癇に障った男が、舌打ちをして彼に苛立ちの矛先を向けなおす。
「親子でうるせぇ……そうだなぁ、人質は二人もいらねぇな」
思いつきから屋内を物色する男が、やがてそれに目をつけた。あの日からゾルディフが捨てきれず持っていた、ヴェルンの鍛えた短剣だった。
材料の鋼塊が並んだ棚の隅に、飾るように置かれていたそれを手に取って、男が不思議そうに品定めをする。
「……なんだこりゃあ? ほかよりも少し荒いじゃねぇか?」
工房内にあるほかの刀剣と見比べても明らかに質で劣っているが、処分されずに保管されている。その娘が「だめ、それ、いやだ」とひどく怯んだ声をもらした――それが男に気づかせた。
「え? 何かい? もしかしてお前のかよ?」
愉快そうに笑った男に問い質される。
ヴェルンは動揺から否定できなければ、挙句には顔に出してしまった。
「決めた、こいつにするぜ。……おい、そのボロ雑巾を起こせ」
「ぁ……いや、いやだ……」
「ほらっ、ほらっ、刺すぞぉ、お前の作ったモンがパパを刺しちゃうぞぉ……ほらっ、ほらっ」
仲間を使って衰弱したゾルディフを立たせた男に、今にもその胸に短剣を突き立てる素振りを繰り返される。見せつけられて嫌がるヴェルンは、男にその反応を面白がられた。
――自分が何を作ったのか、お前はわかっているのか?
彼女はその言葉の意味をようやく理解する。
「はい、ぶっす! ぶっす、ぶっす、ぶっす、ぶっすぅ――――っ!」
男がゾルディフをめった刺しにする。その胸を、そのみぞおちを、その脇腹を、その首を、どこと狙いを決めずに何度も刺し続けた。刺された身体からは多量の鮮血があふれて止まらない。
ヴェルンは絶句して見ていた。
その時になって、誰かが工房の扉を開け放って現れた。
アランだった。
屋内の様子を目の当たりにした彼の形相は、憤怒に満ちたものに変わった。かつて誰にも抱いた覚えのない感情に駆られるまま、冷えた声で「殺してやる」と宣告がなされた。
彼の凄まじい生命エネルギーに触れた男たちが、本能的な怯えに身を竦ませる。
「お、おい、こいつが見えねぇの……」
しかしアランが踏み出すまでもなかった。
その瞬間、ヴェルンの心は真っ黒な殺意に支配されていた。それをきっかけとして、彼女の秘めていた力が、まるで堰を切ったかのように、その感情に依存したまま暴走を始めたのだ。
彼女の全身を包んだ青白い光が、鋭利な金属の触手に変質して振るわれる。
まずもって彼女を捕まえていた男が八つ裂きに、続いてゾルディフを囲んでいた男たちが両断されて二つに、最後に短剣を持っていた男が身体の原型をとどめないほど切り刻まれる。
まだ気が済まないように、すでに息絶えた死体と言えない死体を、何度も何度も執拗に損壊する。本体が疲れるまで続けて、金属の触手はようやく彼女の身体から離れ落ちた。
たちまち静まり返った屋内には、もはや呼吸を二つか、あるいは天井に飛び散った鮮血が滴る音しか聞こえない。
「……ぁ……ぁあ……」
ふと我に返ったヴェルンは、足元の血溜まりに膝から崩れた。
全身を赤く染めて、数秒前まで人間だった肉片に囲まれて、愕然となる。
「……ヴェルン、大丈夫か?」
歩み寄るアランに手を差し伸べられるが、その気もなしに反射的に払ってしまった。遅れて自分の振る舞いに気づいたが、訂正できるだけの気力はなかった。
呆然と立ちすくむ彼を一瞥して、ヴェルンは力なくうな垂れる。
「……ごめん、なさい」
翌々日の夕暮れになる。
冷たい雨に打たれながら、商人の主導でゾルディフの葬儀が行われた。
エンプーズ国での戦争が近いことも影響して、参列者は数えるほどしかいなかった。彼らは葬儀が終われば、面倒臭げな顔をして帰って行った。
最後まで墓前に残ったのは、愛娘であるヴェルンと、養子であるアランと、親しかった商人の三人だけだった。遺族に気を遣ったと言うなら聞こえは良いだろうが、悪態をついている者もいるのだから、それはない。
「……惜しい人を亡くしたよ」
墓標に刻まれた名前を指先でなぞって、商人がゾルディフの死を惜しんだ。
彼の一歩うしろに立ち尽くすヴェルンを、アランはもう一歩うしろの場所から見ていた。
「生活が苦しくなったなら、私を頼ってもいいからね?」
俯いたままヴェルンに返事はなく、商人が今は諦めたように言葉を飲んだ。
「……それでは、また」
かわりの一言を残して、商人が墓地から去って行った。
彼を見送っていたアランは、その背中が見えなくなればヴェルンに視線を戻した。
あの時からずっと口を閉ざしている彼女の、ひどく物悲しげな背中を見つめて思いやる。どうしてこうなったのか、一体誰に原因があるのか、こればかりは考えるまでもなく自覚がある。
最初から、彼女に路地裏で告白された時から、こうなるような予感はあって、そして忘れていたのだ。
だから今一度、それを問わずにはいられなかった。
「後悔しているのか?」
今には相応しくない、あまりに無神経な言葉だった。これに対するヴェルンの返事は、数分ばかり沈黙が続いたあとに、雨音にまじってひっそりと聞こえてくる。
「……私の前から、いなくなって」
アランは応じることに強い抵抗感を覚えた。
しかし応じるべきだとも、それと同程度に感じていた。
「……わかった」
一歩一歩と雨水を踏んで、ゾルディフの墓前から離れていく。
もっと早くに関係を断ち切るべきだった。
そうすればゾルディフが命を落とすことも、ヴェルンが悲しみに暮れることも、自分が苦しくなることもなかった――後悔を胸として歩いていたところに、アランは背後に駆け寄ってくる足音を聞いた。
何かと振り返えれば、ちょうどヴェルンが懐におさまる。
抵抗もしなければ勢いに負けて、そのまま雨のはねる水溜りに押し倒された。
「うそ、やめてよ。独りにしないで……」
顔を埋めてしがみつかれる。弱々しく震える声で訴えかけられる。アランは手のやり場所に迷っていた。自分の手が血まみれに思えて、それで彼女に触れて良いものかと悩んでいたのだ。
「……抱きしめて」
そのまま雨に打たれて長らく、少し落ち着いたヴェルンがこぼす。
「何だか俺の手は、お前の嫌いな色に染まって見える」
「それでもいい」
〇
日没からしばらく経った頃になる。
自宅に戻った二人は、湯水と手ぬぐいを使って身体を拭いたあと、同じ寝台の毛布にくるまった。雨に濡れて冷え切った身体を寄せて温め合っていた。
そうして寒気がなくなってくれば、しだいに精神も落ち着いていった。
「……後悔はある。けれど、あなたがいなくなったら悲しい」
「どこにも行かない」
「私ってたちの悪い女ね」
「ほかがどうか、俺にはわからない」
「父さんが私を叩いたことがあったでしょう? あの意味が良くわかった。私はあなたに、どこかの誰かを殺す道具を、遊び半分で作ってあげようとした。あんなものは作らなければ良かった」
「使い方しだいじゃないのか?」
「でも結局は、人を殺すためにあるものよ」
言葉を切ったヴェルンが、アランの手を取って続ける。
「もし死ななかったら、父さんはあとどれくらい生きたのかしら? もし死ななかったら、あの男の人たちはあとどれくらい生きたのかしら? 五年、十年、二十年、三十年……一つとして同じものがない、その人だけの唯一の時間を過ごしたのよね? ……人ってあんなに簡単に死んでしまう」
「ぜんぶ、俺が悪かった」
「傷つけたくない。傷つきたくない。あなたにも、もう誰かを傷つけてほしくないわ」
「お前が危なくなったら約束できない」
「今はそれでもいい。時間をかけて私があなたの心を育てる。……ねぇ、この国を出たなら、一緒にあなたの故郷へ行きましょう? ほかの国に行くよりは、きっと希望が持てるだろうから」
「……わかった。一緒にいる」
2018年5月18日 全文改稿。




