Ⅰ
人世の汚れに染まらない、深い青色の瞳を持った少年。
ヴェルン=スミシィという少女が、その魔性に魅了されたのは十歳の頃。薄暗い路地裏で出会った時である。その心の動き方が人並みかどうかはともかく、それは彼女の初恋だった。
人糞が混じり腐った水溜り、投棄された残飯、小虫がたかる犬畜生の死骸、それまであった複雑な悪臭は、一人の死体から溢れた鮮血の鉄臭に上塗られようとしている。
親しみがあった臭いに近く、それを嗅いだ彼女の精神は、殺人が行われた現場を前にしても落ち着いた。
ことの起こりは数分ほど前にさかのぼる。
慣れない街歩きがたたり、彼女は同伴する父親とはぐれて裏通りをさまよっていた。この道すがら偶然とある密売の現場に出くわしてしまい、売人の男から追われる身になった。
『おい、そこのガキ! 待ちやがれ!』
背中に怒鳴り声を浴びながら大通りに飛び出して、必死に人混みの中を逃げまどう。戦時で薄情になった人々には助けてもらえそうにもない。
また知らない子供が一人どうにかなる、よくある日常でしかなくて、可愛そうにとは思われても、知らない厄介事を背負おうとまでは思われなかった。
この時代の多くが、今日を生きることに精一杯だった。
『手間取らせやがって。悪いモンを見ちまった自分を恨め。……泣いてみるか? 見ればガキの割になかなかのツラをしていやがる。人買いに売るだけで済ませてやるぞ?』
大人の体力と足には勝てなくて、あえなく路地裏の袋小路に追い詰められた。
懐から短剣を抜き出す男に、脅かすような舌なめずりを見せられる。それでも命乞いをしなければ怯えもせずに、ヴェルンは睨みを利かせる気丈な態度で返した。
泣きわめけば誰かが助けに来るわけでもなし、ならばせめて最後まで抵抗する道を選んだ。
『ほう……決めた。テメェは高く売れそうだ』
あくどい笑みを浮かべた男が襲い掛かってくる、その直前のことだった。
誰かが男を頭上から激しく押しつぶした。
少しの間びくびくと痙攣したあとで、それっきり男には動く気配がなくなった。あるはずがなかった。男の脳天には、一振りの短剣が突き立てられていた。
瞬きさえ挟めない短い間に、良くわからないうちに、目の前で人間が死んでいた。
落ち着きを取り戻した精神で見返せば、そこには少年の姿がある。
返り血を余さず浴びて、その白髪を、その白い肌を、その小柄な身体の一部分を赤く汚していた。
元から身に着けている衣服や素肌の汚れ具合からすると、そのまま何日も洗っていないだろう様子がうかがえる。そういった身なりは、見れば見るほどみすぼらしい。
それでいて、その宝石のような瞳だけは爛々と――。
「……だれ? あなたは誰なの?」
尋ねたところで返事を貰えるとは思わない。むしろ悪漢と同じ末路をたどるのではとも考えるが、見るに年頃も近いだろう彼に、今はただただ夢中になっている。
もといほかの誰にも見たことがない瞳を持っている彼だから、ヴェルンは惹きつけられていた。
「……アラン」
そう名乗った声の調子を聞く分には、まったく人情がないとも言い難い。
頬についた返り血を拭い、腹這いの死体を蹴って裏返し、脳天から古めかしい短剣を引き抜いて、その懐をまさぐり金品を奪う。そんな片手間でさえなければ、また少し聞こえ方は違っただろう。
「アラン? アラン。アラン、アラン……いい名前。家の名前は?」
名前の抑揚を舌に覚え込ませるように繰り返して、ヴェルンは続けて尋ねた。
「ない」
「あのね、私はね、ヴェルンっていうの。ヴェルン=スミシィ……覚えて」
「男みたいな名前だ。……本当は男なのか?」
ヴェルンは紛うかたなき少女である。自分の黒い髪や黒い瞳は世間的に珍しく、自分の目鼻立ちは世間的に恵まれていると、それくらいの分別もついている。
そう間違われても仕方のないお転婆かもしれない、そういった自覚もあるが、かといって素直に許容するなどできない。
今日は街に出るのだからと、ゴシック調の黒いドレスでめかし込んだつもりもあるのだ。
「あら失礼ね。私は見たままの可愛い乙女でしょう?」
「前に似たようなことがあった。そいつは泣き喚いて逃げていった」
「その子には見る目がなかったのよ」
「怖くないのか?」
「怖いわよ。例えば、あなたとこれっきりになるなんて」
「……お前みたいな奴をなんて言うか知っている。ませがき、だろう?」
「あなたって孤児? 養ってくれている人は?」
「見ればわかる」
死体から首飾りを外そうとしたアランの手を、ヴェルンは横から掴んだ。
平然と人を殺めた子供とは思えないほど、引けば彼の身体は素直に向きを変えた。
彼が投げやりな態度でいるのは、いつでも息の根を止める自信があったからか、敵意を感じなかったからか、それというものは彼しか知り得ない。
もしかすると、何も考えていない可能性もあり得る。
「ありがとう。助けてくれて」
「手ごろと思っただけで、そんなつもりはなかった」
「ねぇ、あなたのことが好きになったみたい」
「まだ血も乾かないのに?」
「私の家においでよ。一緒に暮らしましょう」
「やめておいた方がいい。だいたいお前の家族が許すのか?」
「父さんなら話せばわかってくれるわ。家には空き部屋だってあるの」
「……いつか後悔する」
「さよならする方が、きっと後悔するわ」
善の反対が悪であり、悪の反対が善であるなら、社会しだいでどちらも善で、どちらも悪である。もしもそうだとするなら、ヴェルンやアランには当てはまらない。
彼女たちは社会の善悪を理解した上で自分の善悪に従っている。それはおそらく無邪気な私利私欲と呼べるものだ。
とある春の日。小さな黒と白が、小さな手を取り合って繋がる。戦争の狂気に満ちた人世の中で、未だ社会の善悪に汚されることもなく、うす暗い闇の中にひっそり、ひっそりと……。
○
広大な一枚の大陸上に成り立つ世界は、悠久の昔からアルカディアと呼ばれていた。
我らこそ世界の支配者であり生物の頂点に君臨している、いつしか人間はそうだと信じ、事実そうだった。先史時代の文明を稚拙と蔑み、先人より伝えられた恩恵を忘れて久しく、漫然と受け継いだ暦は1725年を数える。
これまでを観じて『人の歴史は野蛮な争いの記録で埋め尽くされている』と、そう語る歴史学者はあとを絶たない。
それなればこそ、その一つとして、いつかこれらの時代は記録になるだろう。
発端は120年前の1605年、とある探検家により北の果ての未開地に莫大な地下資源の存在が確認されたことにある。
その事実に時の三大勢力たるメオルティーダ連邦、神聖カルメッツァ帝国、アイゼオン共和国の関係は緊張。
人類史上最高の冶金素材、文明発展に欠かせない鉱石、奇跡の宝玉――『フォトンストーン』に依存した文明において、その枯渇が危惧される時代にあっては、これが戦争の火種になることはあきらかだった。
果たして発見から半年と待たず、連邦と帝国は採掘利権を巡って開戦する。
アイゼオン共和国は、即時いずれの勢力にも与せぬ戦時中立の立場を示した。フォトンストーンに依存しない国柄には、そもそも採掘利権などは必要なかった。
かりに無用の長物の利権を輸出目的に獲得したところで、主要な輸出先になる帝国や連邦と軋轢を生むことは必至である。
自国にとって無益だと見込んだアイゼオンは、この時を境に中立国となった。
ただし国内にある一般の商会から非合法な兵器輸出をする輩が現れたことは、戦時では必然だっただろう――中立であるべきとした時から、戦争に対抗する諜報機関の設立に力を入れて、そういった非合法な取引の情報を集めた。
中でも隠蔽が手ぬるい組織は早々に潰し、逆に隠蔽が巧妙でほとんど遺漏もない組織は、その密輸をあえて黙認した。
中立の立場を決め込むからと、戦争から離れすぎてはならないという考えだ。無害が過ぎれば軽く見られるし、有害が過ぎれば敵と見なされる可能性は否めない。
いつでも密輸を止める用意も、自国に危害を及ぼすなら敵となる用意もしている。
あくまでもどっちつかずの中立でいるのだから『利用しようなどと考えるな』と警告する、ここにはメッセ―ジを含んでいた。
連邦と帝国の争いが血で血を洗う激化の一途を辿り、アイゼオンの傍観が続き、やがて120年の年月が流れる。熱くなったり冷たくなったりを繰り返して、争いは現在も継続していた。
この間には人工フォトンストーンなる発明があって、早い話が、天然物の劣化版の製造に成功していた。当初に懸念されていた枯渇の問題は、これにて解決を見ていた。
しかし空しいことに、戦争は終わらなかった。
命を、領土を、尊厳を奪い奪われて、憎しみの連鎖は取り返しがつかなくなっていた。
徴兵された子供が見知らぬ誰かの憎しみを背負わされ、駆り出された戦場で自らも憎しみを抱き、そして死ぬか、でなければ生還を果たし、我が子に憎しみを託して、また戦場に送り出す……。
これからしばらくは、これに溢れた少年少女の物語である。
「家族が三人に戻るか。それも、いいかもしれないな」
「本当に? ああ父さん愛しているわ」
ヴェルンの父であるゾルディフ=スミシィは、本音を言えば余裕がなかった。何のか? といえば孤児の少年を一人これから養っていくことだ。しかし彼は気色も穏やかにそう答えて見せた。
愛娘を連れて、故郷のウェスタリア国から北西にあたる戦争の前線に近いエンプーズ国を訪れて、それから三年。腕の良い鍛冶師だった彼は、作成した武器が売れやすいことを理由に移住をして来ていた。
流行り病で妻を亡くしていれば、この戦火に近い国にも娘を連れて来ざるを得なかった。今の冷めた世の中では、たとえ親類縁者とて迂闊に信用できない。
聞けば親戚に預けた娘が娼婦として売られていた、そんな話もある。
ならばいっそ、手元にいてくれた方が安心できるというもの。残った憂いは心への影響であるが、これがまったくの杞憂だった。自分の娘がどうにも逞し過ぎる、移住してから一年とせず感じたことである。
妻を亡くしてから垣間見えるようになった兆候が、移住してより顕著になったとも言えた。従順だからしつけに手を焼かず、無い物ねだりをしないから貧乏の言いわけにも困らず済んだ。
とある屋台の厨房を観察して出された料理を味わった、その日の晩にはまったく同じ料理を作ったことがあった。十歳にしてこの肝の据わり方や要領の良さには、
『まさか俺の娘は悪魔か何かに、憑かれていやしないだろうな?』とも思わされる。
そんな娘が初めて年相応に無茶な願いを言ったのだ。
父として甘えられたことは嬉しく、叶えてやりたいとも感じた。ただ連れてきた血まみれの少年を指して、喜色満面で「彼を好きになったの」と告白されたなら心境は複雑になる。
どれだけ控えめに考えたって、そこにあるものは正気の沙汰ではない。
「愛しの妻アニータよ。……俺たちの娘は、やはり悪魔に憑かれている」
エンプーズ国、首都から郊外への出口にあたる丘陵地帯。
ここにある廃屋の改築に半年を費やして、ゾルディフは住居と鍛冶工房を整えた。冷えた戦時下、それも前線近い国であれば疎開した人々も多く、捨てられた家も数え切れないほどあった。
居住する際の正式な手続きなども、この時世ではあってないようなものだった。
鍛冶師として生計を立てる、これには大層とまでは言えないが成功している。
腕に自信があることは確かで、やはり前線に近い国であることが成果に大きく貢献したと考える。いずれにせよ養う子供が増えてしまったのだから、これから身を粉にして働かねばならない。
しかし商売に関して、彼は将来的な心配などはしていなかった。
戦争が続いている限り鍛冶屋は職にあぶれないし、その戦争はまだ終わりそうにないのだ。
「おや……やあヴェルン。お父上はいるかな?」
二頭の輓馬に引かせる車両で、庭先に乗りつけた商人の男が言った。
年の頃は壮年期半ばほどか、いかにも人が良さそうな顔立ちで、ふくよかな身体に上質な絹糸で織られたセットアップを着込んでいる。
この時代に見られる出で立ちとしては、裕福ないし立派と称せるだろうか。
「商人さん。父は工房にいますが、呼んで来ましょうか?」
アランと日向ぼっこをしていたヴェルンが、少し遠い声に気づいて返した。
「あぁ、いいよ。私が顔を出すから。それよりも見かけない子と一緒だね?」
「少し前に家族になりました! 名前はアラン、とっても瞳が綺麗で、同い年で、それから……」
「はははっそうかい、仲が良いじゃないか。じゃあ私はお父上に会ってくるよ」
どこか幼心が垣間見える――ヴェルンの様子を珍しく思いながら、商人が鍛冶場に向かう。
母屋とは別に建てられた租石造の小ぶりな工房。
熱気のこもる小ぢんまりとした屋内には、しきりに金槌を振るう男がいる。
彫りの深い顔立ちに、小柄ながら筋肉隆々の身体つき、薄着で露出した両腕にはたくさんの火傷痕がある。見るからに朴訥そうで、その剣を鍛える背姿には声掛けもはばかられる雰囲気さえ感じる。
「あの、こんにちは、ゾルディフさん」
「……あんたか? 少し待ってくれ。…………外で話そうか」
てきぱきと作業に区切りをつけて、ゾルディフは商人の応対をする。工房で話すのは暑苦しいと、すぐに屋外に連れ出した。もう付き合いも長いからと思い、受け答えに遠慮はしない。
「今月分を、少し早いですが受け取りに伺いました」
「もうそんな時期だったな。いや、今月はいろいろとあってだな。質は落しちゃいないと思う。だがいかんせん数を打っていない。今回は徒労になるかもしれんぞ?」
「いえいえ、一振りでも買わせて下さい。ところで、いろいろといいますと?」
商人が当てずっぽうでアランを見やった。
ゾルディフは「ああ、孤児を一人な」と肯定して続ける。
「このご時世、戦争で親を亡くす子供も少なくない。正直なところ生活はギリギリさ。しかしだな、なぜかヴェルンが入れ込んでいる。……まったく俺としちゃあ複雑だよ」
「おや、あなたにも子煩悩の気があったとは。……では、そんなあなたに吉報を。今回から買い取り単価を上げさせていただきましょう。いつもよりも五割増しですよ」
「何、本当か? ……いつもはケチ臭いお前が、どういう風の吹き回しだ?」
はっと弾かれたように、ゾルディフは満面の笑みを商人に向けた。
「あなたの遠慮のない物言いは癖になる。気が休まると言ってもいい……あなたの打った武器ですがなかなかに評判が良くて、私の懐に戻るお金の三割は、あなたのそれと言っても過言ではない」
「お前も口が上手い奴だな。いいや、まったく嬉しい限りだ。助かる」
それから商人の顔は、少しばかりもの悲しげになった。
「ですが、長いこと武器商人などをやっていると考えさせられます。停戦と開戦を繰り返して、もうかれこれ120年。決まって熱をもった時期に世の中は回る。戦争を疎みながら、戦争に生かされているのですよ、私という人間は。……そう思えば何と業が深いこと」
「戦争をおっ始めちまった奴なんて、とっくに死んじまっている。俺たちは誰に文句を言やいいのかさえ分かりゃしねぇよ。人工フォトンストーンが発明された今じゃ、戦争やっている理由は曖昧だ。聞いた時は終わるかと思ったが、兵器が作りやすくなって余計に激しくなりやがった」
「長くても四年後、この国での開戦が近いとはご存知ですか?」
「……詳しくいいか?」
商人の話によれば、近年の情勢はこうである。
近年、連邦は帝国に劣勢を強いられていた。
開戦時の地図と現在の支配領土を照らし合わせれば、およそ領土の三割を奪われたことがわかる。
帝国の侵攻は一地方が突出しない慎重なものだ。
占領した地域からは基本的に略奪をせず、なるべくそのまま植民することに重きが置かれた。着実に国を落とし、護りを盤石にし、次の侵攻にかかる、戦争の長期化をいとわない侵攻計画と言えた。
長期化を問題視する以前に、すでに百年以上の月日が流れている。何よりも戦争の理由を失くしてしまった今は、勝敗さえあやふやであることが時の帝国皇帝には耐え難かった。
だからせめて領土で優劣をつけ、いつか確実に決着をつけるべきと唱えられたのだ。でなければ、あまりに散っていった命が浮かばれないとする、これは哀悼の意の表れにほかならない。
そして現在、エンプーズ国の東側に位置する隣国が戦争の最前線となっていた。この帝国の侵攻によって隣国が落ちたなら、次はエンプーズ国が戦場になる見込みだった。
連邦も領土を取り戻すべく躍起になっているが――しかし、とある男の前に敗走を重ねた。
「まだ青年と聞く彼の名前はガディノア。近頃に頭角を現した……通称『剣帝』」
「剣の皇帝、剣帝か。……おっかない話だ」
「この国に留まられるなら、覚悟はしておいて損はありません」
「ああ、すまないな」
〇
大事も小事も問わずに理由をこじつけては、ヴェルンはアランに接した。
彼が嫌な顔一つせずに、もとい表情がないだけともいえるが、ともかく自分の言葉に耳を傾けて、何でも言葉で応じてくれることに喜びを感じていた。
そうやって彼女は思うまま心を満たしていった。
『へぇ。アラン君っていうの。大人しい子だね?』
人並みの生活を送るようになって、アランの身形は整えられた。
近所に紹介したところ、心証的な評判は良いらしい。将来が期待される美貌も、物静かな態度も、自分はこうじゃなかったと羨ましがられる。そんな結果にヴェルンは鼻が高かった。
自分が見つけた彼はそうなのだと、一目で見抜いた自分の慧眼が誇らしく思えていた。
一カ月が過ぎる頃になった。
「工房にいるから何かあれば言うように。遠くへは行くなよ?」
朝食を済ませたゾルディフが仕事に向かう。向かうとは言っても、行き先は母屋から30メィダも離れていない工房で、実質的には家にいるままだった。
子供に何かあれば駆けつけられる距離だし、彼にとって気がかりなく仕事ができることは大きい。
「……俺は、今日は何をすればいい?」
母屋で二人きりになって、ほどなくアランが尋ねてくる。
「今日は天気もいいから、庭でお話をしましょうか? 今日は何のお話がいいかしら」
ヴェルンは彼の手を引いて母屋をあとにする。ここ一ヶ月は同様のやり取りが繰り返されてきた。
まるで従順な愛玩動物とその主人のように、意思疎通は一方的である。まだアランは心を許しきっていない――心の機微に聡い彼女はわかっていたが、知らぬ振りを決め込んだ。
「そういえば、アランはどうして孤児になったの?」
近所に広がる丘陵に腰を落ち着けると、傾斜に沿って足を投げ出す。柔らかな風に吹かれながら、暖かな日差しを全身に浴びる。少しぼんやりとしてから、ヴェルンは打ち付けに尋ねる。
「お前は何だか、遠慮のない奴だな」
「ねぇ、どうなの?」
「……覚えていない。気がついたらそうだった」
「でも生活はどうしていたの? お金が必要だったでしょう?」
「人さらいとかを返り討ちにした。仲間が報復に来ても返り討ちにした。そいつらから装飾品とかを奪っていた。裏通りには少し怪しい爺さんがいて、装飾品を渡せば換金してくれた」
「へぇ。あなたって力持ちなのね?」
「自分では良くわからない……誰かをやっつけようと思うと身体が熱くなる。そうしたら力が湧いてくる。どう動いたらやっつけられるのか、その時だけは何となくわかる」
自分の両手を見詰めて、アランが不思議そうに呟いた。
「はっきりしないのね……あっ、そうだわ!」
思いつきに手を打ったヴェルンは、今から楽しみで笑みがこぼれた。
翌日の昼過ぎになる。
「じゃあ俺は家を空ける。夕方には戻るから、なるべく家の中にいろよ?」
「いってらっしゃい、父さん」
用事で街まで出るというゾルディフを見送って、ヴェルンは思いつきを実行に移した。
アランを連れて工房に忍び込み、屋内の様子を調べる。
火床は灯されたままになっている、金床の上に金槌が置かれている、鍛冶の素材となる大なり小なりの鋼塊が壁際の木棚に並べられている――必要な条件が揃っていることを確かめて、彼女は満足げにうなずいた。
ただ火床が落とされていないことから、そう悠長にもできないだろうと考える。
「ここで何をするつもりだ?」
「これなんていいかしら? ちょっと見ていて」
木棚から指先ほどの鋼塊を手に取ると、ヴェルンは両手のひらの上に置いて見せる。まだ今ひとつ理解が及ばないでいるアランをよそに、彼女は鋼塊を睨みながらぐっと力をこめた。
「……ヴェルン?」
「んっ、ぬぬ、こ、この、言うことをお聞きなさいよ」
しばらく続けていれば変化が起こった。
その両手から淡く発せられた青白い光が、鋼塊の表面をうすく包み込んでいく。光はたちまち鋼に変化して鋼塊に接着していく。まるで何層もの鱗をまとうように、やがて一振りの剣身を形作った。
おうとつが激しくも、現象が落ち着く頃には短剣ほどの大きさになっていた。
「……どんな手品だ?」
「さあ? あ、父さんには内緒よ? むかし工房から持ち出したもので遊んでいたらね、今みたいにできたの。呼びかけるみたいに力をこめる、こうなる。それっきり怖くてやってなかったわ」
ヴェルンは翌々考えると、こんなことができてしまう自分に呆れた。
「お前って不思議な奴だ。それで何をするって?」
「あなたに剣を打ってあげる。あなたが持っていたのってボロボロでしょう?」
「……そんなに簡単なものか?」
「父さんを見て覚えているわ。形は作れているから、あとは焼いて叩いたらいいのよ」
後日からゾルディフが不在になる隙を見計らっては、ヴェルンはその剣身を鍛えた。
火床で剣身を熱し、はさみで掴み、金床に上げて金槌で叩いた。その工程が意味する理屈を、ただ形を整えるとしか考えず、ともかくゾルディフのやり方を忠実に再現した。
叩いて飛び散った火花に驚いたり、はさみで掴み損なったり、思うようにならない時もあったが、めげなかった。
それが三回目にもなれば、彼女はもう慣れた手つきで打っていた。
「ヴェルン。指に包帯を巻いているが、どうした?」
「ぼんやりしていたら、お料理の時に切ってしまったの。浅いから大丈夫」
「そうか……ところで俺がいない間に誰かが来たか?」
「いいえ、誰も来なかったと思うわ」
鍛冶道具は元あった位置に戻して、作業で散らかった分だけ掃除する。それでも少なからず痕跡は残って、完全に抹消することはできない。
時にはゾルディフから怪しまれたが、ヴェルンはすべてを知りません、存じません、という一点張りで押し通した。
父が自分に抱く信頼を思えば、それでごまかせる自身があったのだ。
また一か月が過ぎる頃になる。
その日、一振りの剣身が完成した。
粗が見受けられる焦げ付いた身体は、紛れもない短剣の形状をしていた。繰り返し叩かれて不純物が取り除かれた剣身は、あとは研磨にかければ売り物にできる、それだけの品質に仕上がることが見込めた。
「……どうして、そこまでする?」
「え? 私がそうしたいからに決まっているでしょう?」
これまで鍛冶を続ける中で、ヴェルンはアランとそう話したことがあった。
彼の視線が、火傷を負った自分の手に向けられているとも気づいていた。心配されたのかと一度は疑うが、本当にわからないで聞いているらしいと、これはすぐに声の調子から察した。
「出来上がったそれを、俺はいつ使ったらいい?」
「さぁ。私が危なくなったら護ってくれる?」
「護って欲しいのか?」
「護ってくれないの?」
「俺は――」
「冗談、冗談よ。……これは、あなたを護るために使って」
「護身用に使えばいいのか?」
「そんなところ。だから、どこにも行ったら駄目よ?」
「……わかった」
ゾルディフに知られてしまうのは、それから数日後のことだった。
忘れ物に気づいたらしいゾルディフが道の途中で引き返してきた。アランと工房で作業をしていたヴェルンは、あり得るはずのない場所で父と鉢合わせる。
こうなって「何をしている?」と問われてしまったなら、さすがに言い逃れなどはできない。
観念からくるため息を吐くと、彼女はその場で開き直った。
「えっとね、……剣を打っていたの」
唖然とするゾルディフに、研磨機にかけようとした短剣を差し出して胸を張る。出来栄えに自信もあって、もしかすれば本職の人間から誉め言葉の一つももらえるのではと、少しは期待したのだ。
「……本当に、お前が打ったのか?」
「良くできていると思うのだけれど、父さん――」
しかし期待したものとは違い、そこには平手打ちが返ってくる。
ばちんと音を立てて顔を叩かれた。ヴェルンはすぐに首の向きを戻せなかった。
「自分が何を作ったのか、お前はわかっているのか?」
不貞腐れたように顔つきをしかめたヴェルンが、すぐさま工房から飛び出していく。足元に短剣を叩きつけ、無表情に立ち尽くすアランを突き飛ばし、乱暴に扉を開け放って、どこかに走り去る。
「待て、ヴェルン!」
呼び止める声も届かせられなくて、ゾルディフは嘆く。
「……やっちまった。こればっかりはやらねぇって決めていたのに」
そのあとを追わずに、くしゃくしゃと髪を掻いてしゃがみ込んだ。ヴェルンが置いて行った短剣を拾い上げると、彼はその出来栄えを確かめて続けた。
「まったく良くできていやがる。さすが俺の子――とか言ってやりたいが、駄目だ。こればっかりは褒められたものじゃない。お前のことだ、無理に付き合わされたんだろう? お前が来てヴェルンは変わった。良い方に変わったと思っている。お前といる時のあいつは子供らしい」
返事があるような気配もなければ、相槌を打つような気配もない。
ゾルディフは半分ほど諦めを抱きながら、なおもそんな様子のアランに語りかけた。
「人ってやつは傾くのさ。人に国に宗教に主義思想に、でなけりゃあ世の中を上手く生きられない。お前に出会う前のあいつにはそれがなかった。あいつは誰にでも同じように距離を置いていた。俺も含めてだ。
あいつは人に傾いている素振りが上手いんだ。……だが子供の今は良くても、いつか世の中に触れる時が来たらわかる。どれだけ他人を騙せたって、自分だけは騙せない」
アランの瞳をつぶさに見つめて、彼は小さく笑みを浮かべた。
「お前のその瞳に、ヴェルンは少し傾いたのかもしれない。お前が何ものにも染まらず、何ものにも傾かずにあるからこそ、あいつは……迎えに行ってやってくれないか?」
「……わかった」
ようやく返事をしたアランが、言いつけに従って工房をあとにしていく。
ゾルディフは少し心寂しい思いで、その小さな背中を見送った。
ヴェルンは工房から少し離れた丘にいた。そこに膝を抱えて座り込んでいた。
背後に誰かが立つ気配に気づいて、ちらりと目を向ける。アランだとわかると、彼女はむっとした調子で目線を切った。それは父親が追いかけて来なかったことを不満に思ったからではない。
ここにいる彼が自分を心配していないと、それとなく感じてしまったからだ。
「……どうして来たの?」
「ゾルディフ……さん、から行くように言われた」
聞いたヴェルンは「ひどい理由だわ」と口を尖らせた。
「大丈夫。大丈夫よ。何ともない。……初めて叩かれたから、それで驚いただけだもの」
膝の頭に鼻先を押し当てるように、背中を丸めて小さく縮こまる。何も言わずに立ち尽くしているアランの態度に痺れを切らした彼女は、そんな調子を変えずに言いたいように言った。
「浮かれていたのかもしれない。あなたといると自分を見失うのよ。自分の嫌な部分が見えてくる。これをしては駄目、あれをしては駄目、わかっているはずのことがわからなくなる。今回もそう……父さんが怒るかもって思いながら、それでも、私はあなたに剣を打ってあげたかった」
「……後悔しているのか?」
「まさか。でも、それが見えてしまうのだけは……」
ヴェルンは言葉を切って、おもむろに立ち上がった。
スカートについた草と砂をぱんぱんと叩き落として、軽快にうしろを振り返る。普段と変わらない愛想の良い笑みを浮かべると、可愛らしく前かがみになった。上目遣いにアランと目を合わせ、あざとい仕草をして見せて、もはや落ち込みなどは露ほども感じさせない。
「ね、父さんに謝るから、一緒に来てくれるでしょう?」
「……わかった。一緒に行こう」
2018年5月18日 全文改稿。
2018年7月20日 一部修正。




