幸いあれ
戦いの機先、ホロロはウツロに睨みを利かせる。
「大丈夫……この男は何もしない」
ミュートに一瞥されたウツロが、手のひらを見せながら一歩退いた。彼としても、第三者の介入によって既存の未来に行き着かなくなる事態は避けたいことだ。
すなわち『ホロロがミュートを殺めてしまう』その直前までは、彼も一切の手出しができないという話になっている。
「全部は信じきれないよ。その男さえいなければ……」
「君が片手間で私を相手にできるつもりなら、それでもいい。私はもう待てそうにない」
この男は、私が死ぬことを見届けるためにいる……。
自分はホロロを殺してしまう――擦り切れた精神状態で、偽りの未来を信じ込んでしまっている。ウツロが別の方法で改変を企んでいるなど、ミュートには考えられる余裕はない。
与えられた未来を辿ろうとする彼女の心は、その先にある答えを求めて先走った。
もしも信じていいのなら、救ってくれるのなら、どうか私を……。
「……いいよな?」
「本当にこれしかないの?」
すっと呼吸を止めたミュートが、ふらりと前のめりに地面を蹴る。
一抹の気後れから、ホロロは先手をゆずった。
煌気による身体能力の底上げによって、かつてない速さを発揮して迫ってくる相手を、四神方位で真正面から迎え撃つ。
彼女を傷つけたくはない、かといって彼女から逃げたくもない――峰を返した月下美人にそんな心を通わせて、彼は祈るように振るう。
右下方からの鋭い斬り込みに、刀身を回し向けて即座に合わせた。
まともに受けきらず、半分ほど威力を殺して上方に流すように弾いた。
互いが手にしている得物の性質上、叩きつけ合えば月下美人が折れてしまうと感じていた。彼女の煌気が籠気された長剣には、業物の長剣でも受けきれない威力があると、あらかじめ理解していた。
衝突で生じた干渉余波が、一瞬で広間を満たす。多方面から日光を取り込んでいた大窓や天窓が、甲高い音を立てて粉々に飛散して、きらきらとひらめく。
初手を捌いた続けざま、ホロロは応酬のために刀身をひるがえそうとしたが、寸前で防御のための動きに切り替えた。相手が繰り出す二撃目が圧倒的に速い、そう完全感覚で捉えていた。
この咄嗟の判断が幸いして、彼は辛うじて防御に成功する。しかし攻防の均衡を、そのわずかな失敗から一気に狂わされてしまう。三手四手と白刃を交えるごとに、劣勢に追いやられていく。
「ぅ……っ!?」
それから八手目にして、ホロロは完全に押し負けた。
四神方位が、追いつかない……!?
懐に侵入を許したミュートから強烈な前蹴りをくらう。練気をまとう相手の片足が、分厚い煌気の鎧をすり抜ける――生身に届いた衝撃はあまりに強く、その場で持ちこたえるなどできない。
うしろ向きに大きく撥ねられた彼は、その先にあった壁を豪快に突き破った。
広間に隣接してあった廊下に投げ出されて、大小砕けた壁の破片を被る。
「教官から帝国の話を聞いた時、私の胸は鳴っていた。きっと心のどこかでは、開戦を望んでいたのかもしれない。そんな自分を否定しきれない。高ぶる気を抑えつけることに精一杯だった」
薄っすらと埃がかかる、今しがた空いた壁の穴に、ミュートの声がとおる。
「僕の独り善がりだけれど、やっぱり、あんなことはして欲しくなかった。この世の中が戒めていることだから。この世の中はそういう風にできているから」
破片を払って立ち上がる。むせ込みながらも、心を寄せるような声を返す。
「こんなものは私利私欲だ。悪業でしかないとは理解しているさ」
「……何も知らずに、話してだなんて言ってごめん。苦しかったよね、辛かったよね」
穴をまたいだホロロは、ミュートがいる広間に戻る。その峰を外向きに月下美人を握り直す。もう片手の甲で頬についた汚れを乱暴に拭う。
ここに来た時よりも確かな意思を帯びた瞳で、見つめる。
「人の気持ちに聡い君なのに……まだそうやって峰を返す」
「良いものも悪いものも、誰にだって欲はある。僕にだって……見方を変えれば世の中に戒められていないだけで、僕のこれも私利私欲だ。僕はこの峰を返した先にある救いが欲しい。ミュートさんがそれ以外の道を望んでいたって、これだけは譲りたくない」
「君がそんなだから、私は苦しいんだ」
「ミュートさんがさっき言ったこと、本当は違うよね? 剣を合わせてみて気がついた。僕は絶対にミュートさんを殺したりなんかしない。そんなものが救いだなんて、僕は絶対に認めない」
「そこまで分かっているなら……これ以上、私を惨めにさせないでくれ!」
魂胆を見透かされたミュートが、地団太を踏んで嘆くように吠える。
ふたたび、それぞれの本懐を遂げるべくして衝突する。
敵意ないし殺意のこもった一撃を引き出そうと躍起になるミュートを相手に、ホロロは決して屈しなかった。あくまでも防御に専念して、反撃の代わりに言葉を選び続ける。
相手の攻撃を防ぎきれず斬り裂かれようとも、殴打で骨肉を砕かれても、それを曲げずに耐え忍んだ。
暴力ではなく言葉で連れ戻すために、彼は諦めなかった。
「一人で抱え込まないで。僕でいいなら、いくらでも頼って欲しい」
「やめてくれ、そんな言葉はたくさんだ! 君の歩く道の途中に、私なんかが、いていいはずがないじゃないか! もっと相応しい誰かがいる……あいつにだって本望だろうに!?」
激しい応酬の中で、二人の脳裏には同じ一人が思い浮かんだ。
「もしかして……?」
「決まっている、とっくにわかっていたはずだ」
そうなんだ。そうだったんだ……。
ミュートの心に蓋をしているものに、ホロロは確信を抱いた。
「……ここに来る僕の背中を、押してくれたんだ」
驚きに言葉に詰まらせたミュートが、飛び退いて動きを止める。
「知っている。それでも僕はここに来たよ。何もかも、放り出して来ちゃった」
「嘘だ……あっていいはずがない」
脱力したように長剣を下ろして、後ろめたさに満ちた表情を浮かべる――ミュートが戦意を失った様子で、よたよたと後退りをする。心が大きく揺れていると、誰の目にもあきらかに思える。
「僕にとって、それくらい大切だから」
距離を詰めず、離れず、ホロロはミュートに歩調をそろえた。
「来るな! あの男が死んでいれば、そんな言葉はなかったはずだ!」
「見え方は少し違ったかもしれない。でも僕たちはこの今を生きている」
「結果はどうあれ過程はくつがえらない。あの男を斬っても満たされなかった。果たしてみれば何も残っていなかったんだ。そんな生き方しか、私はしてこなかった」
「これから、していけばいい。僕が一緒に考える」
「なんで、なんでこんな今になってばかり……? 君に許されてしまう自分が嫌だ。許されることを望んでいる自分が嫌で仕方がないんだ。だから……」
べったりと床を踏んだミュートの足は、もう動きそうになかった。
「だから、僕はミュートさんに帰って来てほしい」
喉元に返事を滞らせて、ミュートがためらう。
一歩、一歩、また一歩。彼女をじっと見詰めたまま、ホロロはゆっくりと歩み寄る。彼女を目前にしても返事は急かさない。彼女の選んだ言葉が彼女の意思で発せられるまで待った。
それ以上は妨げになると思い、今は必死で自分の言葉は飲み込んだ。
互いに口を閉ざして生まれた静寂は、実際では短く、体感では長く続いていた。
「ホロロ、私は……」
ミュートが言いかける、その時だった。
彼女の背後に、殺意を秘めた煌気が鋭く放たれる。
「ミュートさん!?」
いち早く兆候を察知して、あるいは目視していたホロロは、咄嗟にミュートを横へ突き飛ばした。
そうして彼女に及ぶはずだった危害を未然に防いだ。しかしそこへ飛来してきた脅威を、自分自身は避けられない。細く尾を引いて一閃する煌気に、みぞおちの下を貫かれる。
途端に不自然な脱力感に襲われて、彼は思うような身動きができなくなる。
得物を握っていられるだけの握力を失い、立っていられるだけの脚力を失い、ついには膝から崩れ落ちる。
「お……前、やっ、ぱり……っ!」
起き上がろうと足掻きながら、ホロロはそれが飛んできた方を睨みつけた。
「な、何をする!? お前はホロロを……それが何で!?」
遅れて状況を把握したミュートが、ホロロの視線をたどって振り返る。そこには、今まさに片腕を振るうようにして、ふたたび煌気を放ってくるウツロの姿がある。
「……これは俺が望む結末ではない」
その煌気は今度こそミュートの身体を貫いた。
二人の身体を貫通したそれは、形状操作の糸が棒手裏剣の形に編まれたもの――操気により相手の体内で綻ばせることで、相手の龍髄を直接的に攻撃する技だった。
本来なら相手を即死させる威力を発揮するが、手心を加えることで一時的に自由を奪う使い方もできた。
今しがた二人の身体を貫通したものは、後者の一撃になる。
「ミュート、さん……どうして、何で動けない」
「俺が知らない未来に入った……ここを分岐点にする」
倒れたミュートを見据えて、ウツロがゆっくりと近づいていく。
「……な、何を、するつもりだ?」
「お前の願いは決して叶わない。お前が思うほど人間は立派な生き物ではない……どれだけ綺麗事を言い並べようとも、いつか怒りや憎しみに抗えない時が、人間には必ず訪れる」
「やめろ! 近づくな! ……っ、何で動けないんだよ!?」
ミュートの首を片手で掴み上げたウツロが、もう片手に手刀を構える。
ホロロは這いつくばって、ただ見ていることしかできない。
「それは他人ごとではない」
「やめ……」
ウツロの繰り出した貫手が、ミュートの身体を突き抜けた。
すぐに腕を引き抜かれたその身体は、多量の鮮血を垂れ流した。勿体ぶらずに手放された身体は、なるがまま落ちた。床にぐったりと倒れ伏した身体は、もはや動く気配が感じられなかった。
そこまで見て、ホロロは我を忘れた。
「――ぁ゛あ゛あ゛ぁあああああっ!?」
かけられた技の影響が薄れて、いくらか身体に自由が戻る。
全身全霊の煌気を解き放ったホロロは、月下美人を拾って立ち上がると、その切先を胸元の高さにあわせて、一縷のためらいもなく地面を蹴った。目掛ける先は一つ、ウツロの急所にほかならない。
相手の懐まで押し迫ると同時に、力任せに突きを繰り出す。
その切っ先は不自然なほどすんなりと、相手の身体の中心を突き抜けた。
両手で力強く柄を握り締めて、怒りに満ちた形相を寄せる。
峻烈な感情に飲まれていたが、しかしそれを見てしまったホロロは、我に返らざるを得なかった。
――殺意をこめて刺した相手の、その仮面が外れ落ちていた。
「っ!? ウェダル、さん……」
そこに隠されていた顔に、ホロロははっきりと覚えがある。
「……生まれ持った性に従って生きるか、それとも抗って生きるか。一体どちらの生き方が幸せなのだろうか? 思えば俺の身勝手が、お前にそんな重荷を背負わせてしまった」
喀血に怯むことなく、ウツロが懸命に言葉を続ける。
「その道にいるのなら、いつか今以上の苦しみが降りかかる。お前一人が足掻いたところで、出来ることには限りがあって、願いのすべては叶えられない。だから……その心を忘れるな」
ひどい混乱に陥っていたホロロは、ふと胸に違和感を覚える。
胸の奥から込み上げた鮮血が、どばどばと口から溢れた。目線を下げて確かめれば、ウツロの腕が自分の身体を突き抜けていた。到底、死は免れられないものに思えた。
「これで未来はどう変わる…………そうか。これは、悪くないなぁ」
右の瞳に虹色の輝きが灯って、そこには新たな未来が映った。
見て安堵したように微笑むウツロが、最後の気力を振り絞る。その紺色の髪を余っていた片手で、くしゃくしゃと撫でて――ホロロの身体から、一息に貫手が引き抜ぬかれる。
「……なお願い続けるお前の未来に、幸いあれ」
×
ホロロとウツロが刺し違えて息絶えた。
まだ辛うじて息があったミュートは、その瞬間を目の当たりにした。フォトンを練る気力はなく、胸からの出血は止められない。自分も長くはないらしいと、そう自覚する。
最後の力で、彼女は床の上を這いずった。
殺さない。死なない。死なせない。それを……。
仰向けに倒れていたホロロのそばに寄り添いながら、今ある惨状を招いてしまったことを悔いる。
目にかかる前髪を指先ではらいのけて、血の気の失せた顔を横から覗き込む。
半分ばかり開いていたまぶたを、手の平を使って閉じる。
血にまみれた手をそっと握る。
「……ホロロ」
そしてまた自らも、眠るように目を閉じた。
2018年1月25日 全文改稿。




